ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「ヴェニスの商人」について

2024-09-29 17:06:17 | シェイクスピア論
<カタルシスを得られるか>

「ヴェニスの商人」はユダヤ人差別を含む内容なので「問題劇」とされているが、そればかりではない面白さがあるので、わりとよく上演される。
以下は、前にも書いたことがありますが、今回もう一度考えてみようと思います。

まずは、あらすじから。
ヴェニスに住むバサーニオは借金返済のため、ベルモントの亡き大富豪の娘ポーシャと結婚しようとするが、求婚するにも金がいる。
そこで商人で親友のアントーニオに金を借りようとするが、たまたま彼は全財産を何隻もの商船に投機しており、手元に金がなかった。
仕方なく、バサーニオはユダヤ人シャイロックからアントーニオの信用を元手に金を借りようとする。
だが高利貸しシャイロックは、日頃から自分のやり方を非難するアントーニオを嫌っており、この機会に復讐してやろうと思いつく。
彼は、金を貸してやってもいいが、期日までに返済できなければ、アントーニオの体から肉1ポンドを切り取る、という条件でなら、と
とんでもないことを言い出す。バサーニオは断ろうとするが、アントーニオは承諾する・・・。

求婚の方はうまくいくが、アントーニオの持ち船はすべて難破し、彼の財産は海の藻屑と消えてしまう。
シャイロックは復讐の時が来た、とばかりに、アントーニオの肉1ポンドを要求し、公爵の判決を待つ。
バサーニオはすぐにヴェニスに引き返し、裁判に臨むが、そこに若い学者バルサザーが登場する。
彼は、実はポーシャが男装した姿だった・・。

作者であるシェイクスピアはキリスト教徒だが、彼のまなざしは公平そのものだ。
アントーニオが破産した、と聞いて、シャイロックは「例の証文を忘れないでもらおう!」と3度も繰り返す。
それを聞いた男が「おい、いくら違約したからって、まさかあの人の肉を取りはしないだろう―――取ってなんの役に立つ?」と言うと
シャイロックは答える。

 魚を釣る餌になる。腹の足しにはならんが腹いせの足しにはなる。
 やつは俺の顔をつぶした、俺の稼ぎを50万ダカットは邪魔しやがった。やつは俺が損をすればあざ笑い、儲ければ馬鹿にし、
 俺の民族をさげすみ、俺の商売に横槍を入れ、俺の友だちに水をさし、敵を焚きつけた―――理由はなんだ?
 俺がユダヤ人だからだ。ユダヤ人には目がないか?ユダヤ人には手がないか?
 五臓六腑、四肢五体、感覚、感情、喜怒哀楽がないのか?
 キリスト教徒と同じものを食い、同じ武器で傷を受け、同じ病気にかかり、同じ治療で治り、
 同じ冬の寒さ、夏の暑さを感じないというのか?―――針で刺されても血は出ない?
 くすぐられても笑わない?毒を盛られても死なないのか?
 そして、あんたらにひどい目にあわされても復讐しちゃならんのか?(松岡和子訳)

この熱のこもった迫力あるセリフは、差別される側の心の叫びを代弁している。
ラストで無理やりキリスト教に改宗させられる原告シャイロックの悲しみと、彼をからかう下劣なヴェニス市民(キリスト教徒)たちの姿は、
むしろ作者の属するキリスト教社会の暗い罪を告発しているかのようだ。
シェイクスピアの洞察力の深さには驚くほかない。
このあたりは、にがい思いなしで見るのは難しい。
だが、殺されかけたアントーニオが救われるところでは、喜びを感じられるのではないだろうか。

2013年にこの劇が蜷川幸雄演出で(オールメールで)上演された時、シャイロックを演じた市川猿之助は、
インタヴューで次のように言っていた。
「法律上の正論はシャイロックにあるのに、多勢に無勢で詭弁が喝采を受け、彼は罪人にされていく」と。
そうだろうか。
もちろん差別があったことは事実だし、当時キリスト教徒の間では利子を取ることは悪いこととして禁じられていたため、
利子を取り立てていた金貸しシャイロックをアントーニオがいじめていたことは確かだが、彼はシャイロックの命を取ろうとしたことは一度もなかった。
「目には目を、歯には歯を」と言う。
この言葉は誤解されがちだが、復讐を奨励しているのではなく、復讐する場合、相手にやられたことと同じだけにするように、と上限を設けたのだった。
人は他人から危害を加えられた場合、ともすれば、やられた以上にやり返してしまいがちだ。
だがそうすると、どんどん暴力がエスカレートしていって、収拾がつかなくなってしまう。
そういう事態を防ぐために作られたのが、「目には目を、歯には歯を」という掟だった。

すべてを奪われるシャイロックに同情はするが、日頃の恨みを晴らすために奸計を弄して(だって例の証文をほんの冗談だと信じさせようと骨折っている)
相手の命を狙ったのは、どう見たってやり過ぎだろう。
社会全体にも問題があったとは言え、彼は自分で自分の首を絞めたのではないだろうか。

アントーニオは多くの人から慕われていた。
だから彼の命がかかった裁判と聞いて、心配した人々が大勢押しかけたのだし、最後にポーシャによって、彼の命を救う一筋の道が示された時、
居合わせた人々は皆、ほっとして光を見出したように喜ぶのだ。
客席で見ている我々もまた、ここで解放されたかのように、ほっと息がつける。
それを「詭弁」としか感じられないならば、残念ながらこの作品を十分楽しむことは難しいだろう。






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「夏の夜の夢」について

2024-08-21 10:32:46 | シェイクスピア論
<女たちの友情を男が壊す話>

ちくま文庫版「夏の夜の夢」の翻訳者・松岡和子氏が「訳者あとがき」で書いていることが面白い。
すでに多くの人が指摘していることかも知れないけれど、以下に引用します。

  この戯曲は、一言で言えば「愛の回復」がテーマになっていると言える。だが、その裏には
  女同士の蜜月的とも言える親密な関係が、男性の侵入によって壊される(あるいは、壊されかける)という
  一面が隠れていると思う。
  まずヒポリタ。シーシアスと結婚する彼女はかつてアマゾンの女王だった。アマゾンは女性だけの国だ。
  それがシーシアスという男性とその軍隊によって滅ぼされ、ヒポリタはアテネに連れてこられたのだ。
  「私は剣をかざしてあなたを口説き / 害を加えて愛を勝ち得た」

  ティターニアはインドの子供を可愛がっていて、その子を小姓にしたいというオーベロンの要求をはねつける。
  子供の母親はティターニアの信者で、二人がどんなに親しかったかは、彼女の口から語られる。
  お産がもとで死んでしまった「あの女のためにあの子を育てているのよ。/ あの女のためにもあの子を
  手放すわけにはいきません」

  そして、言うまでもなくハーミアとヘレナ。「ちょうど双子のサクランボ、見かけは二つ別々でも / もとはひとつに
  つながっている。/ ひとつの茎になった可愛い二つの実」だった二人が、ライサンダーとディミートリアスの出現によって、
  いっときとは言え敵対するはめに陥る。

ハーミアとヘレナの関係が男たちによって壊されかける、というのは分かりやすいので、芝居を見ればすぐに気がつくことだ。
だが、その前に、そもそもこの物語の枠構造であるアテネの公爵シーシアスとアマゾンの女王ヒポリタの関係もそうだと言われると、確かにそうだ。
そして、妖精の女王ティターニアと王オーベロンの関係にもまた、同じことが言えるという。なるほど確かに。
これはどういうことなのだろうか。

シェイクスピアの戯曲にはたいてい元ネタがあるのだが、この作品にはない。
劇中劇の「ピラマスとシスビー」の物語と、シーシアスとヒポリタの物語とを、他の作品から借りてきてはいるが、
主筋は彼のオリジナルだ。
彼がその中に、こんな風に女たちと男との独特の関係を持ち込んでいるというのがちょっと不思議だし、興味深い。
男女が逆の場合(つまり男たちの友情が女によって壊れる)は、シェイクスピアに限らず古今東西多いけれど。

<シェイクスピアで遊ぶということ>
 
2009年に英国の劇団プロペラが来日した時のこと。
「夏の夜の夢」1幕2場で、公爵の御前で上演する芝居の稽古のために、大工クインスが村の職人たちを集めて一人一人に芝居の役を割り振るシーンで、
ふいご直しのフルートという男に「お前はシスビー(役)だ」と言うと、フルートがニヤニヤ笑いながら「シスビー?オア・ノット・シスビー」と言うので吹き出した。
こう言われたクインスは、相手の顔をじっと見て ”That is the question ?” と応答。
もちろんこれはハムレットの最も有名なセリフ、“To be or not to be ・・・“のパロディだが、こんなしょうもない駄洒落を言ってのける
この若い連中がいっぺんで好きになった。

その後ラスト近くでは、公爵役の俳優がなぜかヴァイオリンを抱えて登場し、やおらブルッフの協奏曲をひとくさり弾いてみせた。
芝居の内容にはまったく関係ないが、実に見事な腕前だったので、我々観客は大いに楽しませてもらった。
これもまた公爵の結婚式の余興の一環と思えば、ごく自然に受け入れられる。
もちろん深刻な悲劇ならこういうことは無理だが、ハッピーエンドで祝祭的な喜劇ならここまで遊んだっていいのだ。
そういう自由さがシェイクスピアにはある。

<妖精をどう演じるか>

森の妖精は、背中に羽根が生えている時もあり、妖精の王様の命令で素早くどこへでも飛んでゆく。
だが生身の人間は、そんなに簡単に空中を飛び回ってみせることは難しい。
かつて見た英国の劇団では、妖精を太った役者が演じ、しかも驚くほど超スローに動いていた。
ちょうど太極拳の動きのように。
一種の開き直りだろう。
意外性を狙ったのだろうが、わざとらしくもあり、違和感があった。
妖精は妖精らしく、やはりスリムで機敏であってほしい。
その点、2007年ジョン・ケアード演出の「夏の夜の夢」(新国立劇場、麻実れい、村井国夫出演)でパックを演じた成河(当時の名前はチョウソンハ)はピッタリだった。



「夏の夜の夢」にはパックの他にも妖精たちが大勢登場するが、ちょっと面白い趣向の演出を見たことがある。
1999年東京グローブ座でのペーター・ストルマーレ演出の公演でのこと。
上杉祥三演じるパックが、手の中に入るくらいの小さな妖精(つまり観客からは見えない)と出会い、彼女?を耳元に持って行って、
そのセリフを代弁し、それに答えていた。
つまり二人分しゃべっていた(相手のセリフの時は高い声を使っていた)。
そういうやり方もあるのか、と驚いた記憶がある。
演出家はここで、言わば役者に丸投げしたわけだ。
ちなみに、この時の演出は徹底して日本趣味だった。
舞台装置、衣装、音楽もすべて。



加納幸和がヒッポリタ役で、ラストは白無垢の打掛姿で登場。これが実に美しかった。
クインス役は間宮啓行。これがまた紋付姿で、しゃべり方はまるで落語家(笑)。
パックとオーベロンの会話も原作から大胆に逸脱してゆくが、まあ面白いので楽しめた。
総じて、ここまでアドリブを入れても大丈夫、という見本のような演出だった。

丸投げと言えば思い出すのは、2010年3月、蜷川幸雄演出の「ヘンリー六世」第一部でのこと(彩の国さいたま芸術劇場)。



5幕3場には、乙女ジャンヌ(ジャンヌ・ダルク)が悪霊たちを呼び出して会話するというびっくりなシーンがある。
ところが舞台にはジャンヌ役の大竹しのぶ一人。
彼女は照明のわずかな変化の中、悪霊たちとのやり取りを一人でやってのけた。
悪霊たちにセリフはないが、ト書きに指定された動きがいろいろある。
だが、それらは全部、大竹ジャンヌがセリフと演技でカバーしていた。
こんなことは普通しないが、彼女は演出家の無理な要求に立派に応えたわけだ。
役者の力量次第では、こんなこともできる。

ジャンヌ・ダルクと言えば、フランス人にとっては救国の聖女だが、当時の敵国イギリス人から見れば、当然ながら憎むべき魔女であり、
シェイクスピアも、下品で淫売で親不孝な女として描いている。
「夏の夜の夢」から話がそれてしまった。


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「ハムレット」について Ⅱ

2023-09-20 22:29:51 | シェイクスピア論
<志賀直哉の誤解>

 シェイクスピアの戯曲、特に「ハムレット」を題材にした文学作品は多い。作家の想像力を刺激するのだろう。
 日本人作家では志賀直哉の「クローディアスの日記」、大岡昇平の「ハムレット日記」、太宰治の「新ハムレット」、小林秀雄の「オフェリア遺文」などがある。
 だが時代のせいもあると思うが、ピントがずれているとしか言えないような内容のものもある。

 たとえば志賀直哉の「クローディアスの日記」では、驚いたことにクローディアスが兄を殺していないことになっている。
 「おれが何時貴様の父を毒殺した?」だの「父が殺されたと云ふ不思議な考」だの「一人の心に不図湧いた或考」だのという信じられない言葉の連続。
 この人は3幕3場のクローディアスのこのセリフを読み飛ばしたのだろうか?

  おお、この罪の悪臭、天へも臭おうぞ。
  人類最初の罪、兄殺しの大罪!
  どうしていまさら祈れようか。
  ・・・この呪われた手の甲が、兄の血にまみれて厚くこわばっていたからといって、
  天には、それを雪のように洗い浄めてくれる雨がないのか?
  ・・ああ、だが、どう祈ったらいいのだ、おれは?
  「忌まわしい殺人の罪を許したまえ」と?
  それは言えぬ、人を殺して、そうして手に入れたものを、今なお身につけていて。
  王冠も、妃も、いや、野心そのものを、おれはまだ捨てきれずにいるのではないか。
  罪の獲物を手放さずにいて、それで許されようなどと、そのようなことが?    (福田恆存訳)
  

  クローディアスがもし潔白なら、どうして一人っきりの時にこんなことをつぶやくだろうか。
 この場面で彼が苦しみもがきつつも祈ろうとして膝を折るのは、大罪を犯した過去があり、
 その罪の重荷に責め苛まれているからだ。
 志賀直哉は「坪内さん」の訳を「ゆっくり随分丹念に読んだ」と書いているが、ここを読み落としたとしか思えない。
 その迂闊さには唖然とさせられる。
 志賀は、むしろクローディアスの兄である亡きハムレット王の方を、疑い深い、性格の悪い男として描いている。
 何の火の気もないところに猜疑心を募らせる陰気な人物として。
 彼は「クローディアスの日記」の後書きで、かつて或る日本人役者の演じるハムレットを見て「如何にも軽薄なのに反感を持ち、却ってクローディアスに好意を持った」
 ことと、「幽霊の言葉以外クローディアスが兄王を殺したという証拠は客観的に一つもない事を発見したのが、書く動機となった」と書いている。 
 確かに劇中の人々にとってはそうだが、ここで引用した箇所から分かるように、この芝居を見ている観客には、クローディアスが犯人だとはっきり分かるように
 書かれている。
 原作の戯曲の内容と「辻褄を合すのに骨が折れた」と正直に書いているところは好感が持てるが、残念ながら肝心なところで辻褄が合っていない。

≪仇討ちとキリスト教≫

3幕3場でハムレットは、一人祈っているクローディアスを見つけ、殺そうとするが、思いとどまる。

 やるなら今だ。やつは祈りの最中、造作なくかたづけられるーーよし今だ。
 (剣を抜く)やつは昇天、みごと仇は打てる。
 待て、そいつは。
 父は悪党に殺された。忘れ形見のおれがその悪党を天国に送りこむ・・・
 ふむ、雇われ仕事ではないか、復讐にはならぬ。
 そうだ、あの時、父上は現世の欲にまみれたまま、生きてあるものの罪の汚れを洗い清めるいとまもあらず、
 あの男の手にかかって非業の最期をとげられた。
 天の裁きは知る由もないが、どう考えてみても、軽くすむわけがない。
 が、これが復讐になるか。
 やつが祈りのうちに、心の汚れを洗いおとし、永遠の旅路につく備えができている今、やつを殺して?
 そんな、ばかな。(剣を鞘におさめる)
 いいか、その中で、じっと身を屈して時を待つのだ、
 飲んだくれて前後不覚に眠ってしまうときもあろう、
 我を忘れて怒り狂うときもあろう、 
 邪淫の床に快を貪るときもあろう。
 賭博に夢中になり、罵りわめくとき、いや、いつでもいい、
 救いのない悪業に耽っているのを見たら、そのときこそ、すかさず斬って捨てるのだ。
 たちまち、やつの踵は天を蹴って、まっしぐらに地獄落ち。・・・         (福田恆存訳)

これは、「考えてみれば、ずいぶん奇妙なこと」だと吉田健一は言う。
ハムレットはキリスト教の教義に従って、父は懺悔する暇もなく死んだために煉獄で苦しんでいる、と信じている。
祈っている叔父を殺せば、彼を直ちに天国に送ることになるかも知れない。
それでは復讐にならない、とハムレットは考える。
しかし、そもそも叔父を殺して父の仇を打つという考えは、キリスト教の教義とはまったく違う。
このような相克は当時は不問に付されていた。
一方にはキリスト教の教義があり、他方、俗世間の道徳問題においては、もっと原始的な、言わば旧約聖書的な倫理観が支配していた、と吉田は言う。
なるほど!考えてみれば、確かにその通りだ。
戯曲のあまりの迫力に、その点についてはまるで思ってもみなかったけれど、言われてみれば、まったくその通りだ。
当時の観客の生きる世界では、その両方の価値観、世界観が入り混じっていたようだ。
吉田健一のおかげで、また視界が広がった。
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「ハムレット」について

2023-09-14 21:58:40 | シェイクスピア論
《「ハムレット」は失敗作!?》

「ハムレット」は、父王を殺された王子が、紆余曲折の末、ついに復讐を遂げる話だが、17世紀に書かれた作品でありながら、
主人公の近代的な自我の苦悩、そして彼と周囲の人々をめぐる物語には、我々の心を捉えて離さぬ魅力があり、胸に深く迫ってくるシェイクスピアの最高傑作だ。
このような作品が書かれたこと自体、奇跡とも言うべきことだと言われており、今日まで多くの人に愛され、世界中で上演され続けている。

ところが、最後に主人公であるハムレットが死ぬことから、復讐は失敗に終わったとか、この作品は失敗作だ、とか主張する人がいる。
20世紀初頭のT.S. エリオットがそう言い出したのは有名だが、そのような受け止め方はとっくに過去のものとなったと思っていた。
だが、いまだに同じようなことを主張する人がいるのには驚かされる。
確かに、復讐に至る過程で、巻き込まれて犠牲となる人々はいる(ポローニアス、オフィーリア、王妃、レアティーズ、ローゼンクランツ、ギルデンスターン)。
このように、多くの人が死ぬ、しかも非業の死を遂げるが、それでも最終的に、クローディアスという悪人が滅びることで、観客も納得できるように書かれている。
ハムレットは無事に復讐を果たし、納得して死んでゆく。
彼は決して絶望して死んだのではない。
否、この芝居の始まりから終わりまで、一度も絶望することはない。
そして最後には、それまでデンマーク国内に隠されていた暗い大きな罪と陰謀が露見し、正義が成就するのである。
そこに、観客は喜びと満足を感じることができる。

「ハムレット」については、たとえば志賀直哉のように、そもそもクローディアスはハムレットの父を殺してないのではないか、などと、
キテレツなことを言い出すトンチンカンな人もいて、実に腹立たしい。
彼は著名な作家なのに、読解力が足りないとしか考えられない。
この手の困った人たちのことは、またいずれ書くことにしよう。

≪ハムレットは優柔不断なのか≫

ハムレットは父の亡霊に死の真相を告げられ、復讐を命じられたのに、グズグズしてなかなか父の仇を取らない。
そのため、後の時代の人々の中には、なぜ彼はさっさと復讐しないのか、という疑問を抱く人が現れた。
(上演当時の人々は、そんな疑問を持たなかった。現代でも、そんな疑問を抱かない人は大勢いるだろう。)
だがそうした疑問に答えようと、これまで多くの批評家たちが頭を悩ませてきた。
有力なのは、亡霊というのがカトリックの教えであって、ハムレットはプロテスタントだから、あの夜出会った亡霊を、父の亡霊だと信じることができず、
当時よく言われていたように、悪魔が彼をそそのかすために父の姿をとって現れたのではないかと疑った、というものだ。

 ハムレット: ・・・ 俺が見た亡霊は
       悪魔かもしれない。悪魔には変化(へんげ)の力があり
       人の喜ぶ姿を取るという。もしかしたら
       俺が気弱になり、憂鬱症にかかっているせいかもしれない。
       悪魔はそこにつけこんで
       俺を惑わし、地獄に落とそうというのか。
       もっと確かな証拠がほしい。・・・        (2幕2場、松岡和子訳)

なぜ彼がプロテスタントだとわかるかと言えば、彼は父の急死で呼び戻されるまでドイツのヴィッテンベルクに留学しており、そこはルター派の牙城だからだ。
他には、彼が憂鬱症にかかっていたために素早い行動がとれなかった、という解釈もあった。
いずれにせよ、すぐに復讐をしないのは彼の性格のせいとされ、彼は長いこと優柔不断な青年の典型のように言われてきた。
その点について、吉田健一が明快に答えている。
「それは、仇を取らねばならない事件の発生からこの作品が始まり、所定の5幕が経過した後に敵討ちが実現されるという、その経過のために生じた誤解」だと彼は言う。
つまり、わかりやすく言うとこういうことだ。
シェイクスピアの芝居は、どれも5幕という構成に決まっていて、復讐を命じられたのが1幕目で、5幕目のラストに敵討ちがなされて大団円となる必要があるため、
その間が長く感じられてしまうが、それまで仇を打つわけにはいかなかったというのだ。
何と単純明快な!
だから、たとえば4幕の終わりとか5幕の冒頭で父王が殺されたのなら、仇打ちはもっと素早くなされていただろうということだ。
ゆえに、彼が復讐を5幕の終わりまで引き延ばすのは、彼の性格のせいではなく、演劇としての必然性のせいなのだった。





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「オセロー」について Ⅲ

2023-09-04 22:46:21 | シェイクスピア論
<吉田健一のオセロー論 続き>

前回紹介したように、吉田健一はこの戯曲に流れる二重の時間に注目している。
オセローは妻デスデモーナが他の男と何度も浮気をしたと、部下イアゴーによって信じ込まされ苦悶するが、実際には、彼女が浮気をする暇などまったくなかった。
にもかかわらず、我々観客は違和感を覚えることなく、物語の迫力に圧倒され、舞台から目が離せなくなる。
それは作者シェイクスピアの巧妙なトリックによるものだと指摘している。
そして、イアゴー。
吉田は彼のことを、稀代の悪党という伝統的な解釈とはまったく違った風にとらえる。
合理主義者だが、性格に深みがなく、悪人と言えるほどの人物ではなく、間の抜けたところがある、とさえ言うのが面白い。

今回も引き続き、彼の文章を引用(抜粋)していきます。

①オセロの性格

  なぜオセロはイアゴの巧みな言動に屈するのだろうか。
  彼はイアゴの論理に対して、それを覆すに足るだけの言葉を見つけることができない。
  彼は生え抜きの武人であって、自分の妻について本能的に知っていることを自分自身に説明しようとしても、「女」とか「愛」という、
  一般的な概念しか頭にない・・。
  男であり軍人であることを自分の本領と考え、女を愛することを一種の「惑溺」と見ている点で、彼はイアゴの域を出ていない。
  イアゴはいつでもそこを衝けたのである。・・
  彼はデスデモナを愛することに自分のどれだけが賭けられているかを、まだはっきりとは認識していない。

  もしイアゴに事情がわかっていたならば、デスデモーナに対するオセロの信用を揺るがせるのに、かくまで中傷の秘術を尽くす必要はないことも
  彼は見抜いたはずである。そしてまた、もし事情がわかっていたならば、彼は自分が計画したことの結果として起こるべきことを予感して、
  そのような行動を取るのに二の足を踏んだに違いない。
  それができないのは、女を疑うというのは彼の持ち前の性分であっても、女を信じるなどということは、彼には思いもよらないことだからである。
  その意味で彼は滑稽であり、そこに彼の役が喜劇役者によって演じられていい所以も認められる。・・・
  オセロは彼を糾明して、一挙に自分の悩みに解決をつけようとする。
  イアゴも必死である。それはすでに補佐官に昇格するかしないかの話ではなくて、返事を一つ誤れば、自分の生命が危いことを彼は感じている。
  ・・この場面を美しくしているものは、オセロがここでようやく到達しようとしている自覚、彼が失ったものに対する諦念、またその愛惜である。
  彼はイアゴを憎悪して言う。  
    あれが人の目を盗んで愛欲の時を過ごしていたのを俺は感じたか?
    俺は見なかった、考えもしなかった、傷つきもしなかった、
    次の晩もよく眠った、よく食った、のびのびと愉快だった。
    あれの唇にキャシオーのキスの跡など見当たらなかった。
    盗まれても、盗まれたものが無くなっていなければ、
    持ち主には知らせるな、そうすれば何ひとつ盗まれたことにはならない。
    ・・
    俺はどんなに幸せだっただろう、たとえ全軍の兵士が、・・・
    あの美しい体を味わったとしても、
    それを知らずにいたならば。ああ、もう永遠に
    さらばだ、心の静けさ、さらば、満ち足りた思い!
    さらばだ、羽根飾りと甲冑に身を固めた軍隊、
    野望が美徳となる大いなる戦争!おお、さらば、
    さらば、いななく駿馬、鋭く響き渡るラッパ、
    士気を鼓舞する軍鼓のとどろき、耳をつんざく笛の音、
    堂々たる軍旗、栄光の戦場にそなわるすべてのもの、
    誇りと誉れ、威儀を正した行進や儀式!
    そして、ああ、必殺の大砲よ、お前の荒々しい雄たけびは
    不滅の雷神ジュピターの怒号をもしのいだ。
    さらば、オセローのこの世の務めは終わった!  (ここは松岡和子訳にしました)

  一つの世界が崩れてゆく。その世界は一人の男のものではあるが、それが瓦解するさまが壮麗であることに変わりはない。・・・

②デスデモーナ

 デスデモナもオセロに対する信頼に生きている。この信頼は、最後の殺しの場面まで脅かされずにいる。
 彼女は、オセロが自分を殺しに来るまで、自分が彼に疑われているとは思わない。
 デスデモナが落としたハンケチは、オセロが彼女に与えた最初の贈り物であるだけに、デスデモナを疑わせるための有力な証拠の一つとなる。
 彼女の召使いでありイアゴの妻であるエミリアは、夫にしつこく頼まれてそれを盗む。
 その後エミリアがデスデモナに対して、ハンケチがなくなったのをオセロが怪しみはしないだろうか、と言うと、デスデモーナは
  あの方がお育ちになった土地の烈しい太陽の熱が、
  そんな気紛れを皆あの方から吸い出してしまったらしいの。
 と答える。
 この信頼と自恃は、オセロの狂乱と同じく美しい。
 それは、オセロの狂乱と対照をなすばかりでなくて、この作品になくてはならない劇的な要素の一つとなっている。
 もしデスデモナがオセロを完全に信じていなかったならば、オセロにも彼女に対する疑いを晴らす余地が残されたに違いない。
 疑う者にとっては、静謐な自恃は破廉恥にも見える。
 涙は悔恨の涙を装うのでなければ、怒りを解くには至らない。
 そしてその点、デスデモナの純真はオセロの狂乱にとって、したがってまた劇の進展にとっても不可欠のものなのであって、
 デスデモナが純真に振舞えば振舞うほど、オセロの疑惑と混乱は深められてゆく。
 オセロは詰問を通り越して、ただ彼女を「売女」と言って罵るほかない。
 しかしその後でさえも、彼女はイアゴとエミリアを前にして、
   ・・小さな子にものを教える時は、
   優しく、分かりやすく言ってやるものなのに、
   なぜ私をそういう風に𠮟って下さらないのかしら。だって
   私はまだ𠮟られたことがない子供なんですもの。
 と言う。
 この二人の対置はほとんど化学的でさえあって、一定の条件の下では共に平穏にあるべき各自の性質が、イアゴの奸計という装置を転機として
 一つの悲劇となって燃焼することを不可避にしている。

 オセロは錯乱している。彼はすでに彼自身ではなくなった・・彼は自分の生命を賭けてデスデモナを信じていた。と言うことは、
 彼は一つの虚偽を信じていたことになり・・是正されることを必要とする。
 こうして彼は妻を殺すが、それでこの悲劇は終わっていない。
 と言うよりも、この作品はオセロの悲劇が救われるところで終わっている。
 その速度は、そこに達するまで緩められない。
 オセロは妻を殺した直後にすべてがイアゴの奸計によるものだったことを知って、少なくとも彼をこの悲劇的な結果に導いたものが
 虚偽ではなかったことを確認させられる。とどろき渡る太鼓は、・・その記憶は汚れた幻想ではなかった。
 イアゴのことを知らされるまでの彼の狂乱に引き換えて、剣を抜いて自分の胸に突き刺す時の彼の落ち着いた態度は、
 彼が後悔よりも、この満足を覚えて安らかであることを示す。
 それは、イアゴが彼の前に引き出された時の彼の台詞にも感じられる。
   この男の足がどんな恰好をしているか見てくれーーーいや、あれは迷信だった。
   この男が悪魔ならば、私には殺すことができない。
 イアゴが悪魔であって、迷信に伝えられているように、足のところが蹄になっていても、或いはいなくても、
 オセロにはもうどうでもいいのである。
 カタルシスとは何であるか・・古典劇の要素の典型的な場合を我々はこの作品に求めることができる。
 これこそ認識であり、浄化であると言える。  

このように吉田健一のオセロー論は実に味わい深い。

<RSCのカーテンコール>

かつて英国のRSC(ロイヤルシェイクスピアカンパニー)がこれを上演した時、カーテンコールで出演者たちが踊り出したことがある。
みな笑顔で幸せそうだった。
ついさっき、舞台上で、主役の男が最愛の新妻を殺して後追い自殺したばかり。
これ以上ない悲劇のはずなのに、そこに違和感はなかった。
なぜか。
最後にオセローは知ったのだ。
妻が自分を裏切ってはいなかったと。
デスデモーナはオセローを愛していた。彼だけを愛していた。
オセローは最後にそのことを知った。
その時彼は、この世の秩序が回復されたことを感じ、世界と和解したのである。
彼が喪失したと思い詰めた世界は回復した。
以前と変わらぬ意味ある世界が、そこにはあった。
彼は自分の誤解と早まった行いを嘆き悲しみつつも、納得して彼女の後を追ったのだ。
「そこに幸いがある」とロレンス神父(「ロミオとジュリエット」3幕3場)のセリフが口をついて出る。
決してヤン・コットが言うように、彼は絶望して死んだのではない。
この芝居のラストには和解が、彼と世界との和解があり、舞台にはもう一度明るい光が差し込んでいる。
だから観客の私たちも、老グロスターのように「喜びと悲しみに引き裂かれ」る思いで(「リア王」5幕3場)涙を流すことができるのだ。






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「オセロー」について Ⅱ

2023-08-26 13:24:57 | シェイクスピア論
<吉田健一のオセロー論>

吉田健一(1912年~1977年)は吉田茂元首相の長男で、作家・文芸評論家・英文学者です。
この人のことは前にも書いたことがありますが、英国留学が長く、ネイティブ並みに英語を操ることができたそうです。
かの地で本場のシェイクスピア劇を見る機会も多々あったことでしょう。
彼は著書「シェイクスピア」の中で9つの戯曲について論じていますが、その中でも「オセロ」が特に独創的で面白いのです。まさに目から鱗です。
あまりに面白いので、少々長くなりますが、以下に引用します。
いや、引用と言うより抜粋です。
例によって彼の文章は分かりにくいので、適宜変えてあります。
人物名は、原文のままにしました。

 ①時間の流れのトリック

  不幸な恋愛を主題として、話が迅速に悲劇的な終末まで運ばれて行く点では、「オセロ」は「ロメオとジュリエット」に似ている。
 事実、シェイクスピアが書いた悲劇の中で、こういう種類の作品はこの二つしかない。
 「ロメオ・・」では、事件が始まってから終わるまで四、五日だが、「オセロ」ではもっと短い。
 ヴェニスで黒人の将軍オセロが、貴族の一人娘デスデモナと内密に結婚したことがその直後に発覚し、オセロの素朴な愛情の告白によって
 この結婚が公認され、それと同時に、トルコ人の襲来に対してサイプラス島の防備に当たるために、オセロが急きょ同島に赴任することを命じられる
 という事件が一晩のうちに起こる。この第1幕を別とすれば、オセロとデスデモナがサイプラス島に着いてから、オセロが旗手のイアゴの奸計に陥って
 デスデモナを猜疑し、その不実な行為の確証を握ったと信じてデスデモナを枕で窒息させて殺すまで、わずか二日間の出来事である。
  勿論、「オセロ」が「ロメオ・・」に似ているというのは、そこまでで終わっている。
 後者は、いかに高く評価するにしてもシェイクスピアの初期の天才が示した一つの開花と見るより他はないが、これに対して「オセロ」は
 彼の爛熟期の作品であり、人物の動きにしても、その台詞の文体にしても、すでに「ロメオ・・」の比ではない域に達している。
 この二つの作品で扱われている主題の性質にも、顕著な相違が認められる。
 「ロメオ・・」では、二人の主人公の恋愛そのものには何も悲劇的な所がなくて、寧ろシェイクスピアが当時好んで描いた甘美なロマンスであり、
 単に外的な事情がこのロマンスの持続を許さない為に悲劇的なのである。
 これに対してオセロとデスデモナは、恋愛以上のもので結び付けられているのであって、それ故にそこに葛藤が生じたことが、それだけで救い難い悲劇を
 書くのに充分な材料となっている。

 「ロメオ・・」を悲劇として成立させる為に、これを四、五日間の出来事で終わらせたのと同じ必要が、「オセロ」では更に強力に働き、
 また更に巧妙に逆用されているのが認められる。
 ・・・中略・・・
 この作品の主題は嫉妬であって、従って二人の主要人物を単に恋人として扱うことは出来ない。・・・
 嫉妬が悲劇の主題として成立する為には、恋愛がその所を得て落ち着き、二人の人物にとって互いに相手を信頼することが彼らの生活の基礎となっている時に、
 その基礎が嫉妬に脅されて、一挙に破壊されるのでなければならない。
 何故なら、ここでも速度が大切だからである。
 夫が妻の貞操を疑ったり、或いは妻が夫を疑ったりして、その煩悶に明け暮れしているのは、悲劇の材料にはならない。
 そしてもし生活の基礎が崩れ去って、それでもなお生きて行くのが現実というもののあり方であるとすれば、そのことから
 人生は劇になり損なったものの連続であるということが考えられる。(→ここも実に面白い(笑))

 しかしシェイクスピアは「オセロ」を一篇の悲劇として完成しなければならなかった。
 それが、決して容易なことでなかったことは明らかである。
 二人の間に生じた葛藤が二人を破滅に導くに足るものである為には、それだけ二人をその時まで結びつけていた感情が強固なものであることが必要だった。
 そのような二人の間柄を、どうすれば舞台の上で表現出来ただろうか。
 時間の経過は、・・・舞台でその実感を伝えるのに最も困難なものの一つである。
 そして二人の人間のそういう親密な関係は、常にある程度の年月の経過から生じた結果であることを我々に思わせる。
  しかし困難はそれだけで止まらなかった。
 この作品では更に、名将ではあっても、どこから来たのかも解らない一人の黒人が、ヴェニスの大貴族の一人娘と、親の目をかすめて結婚するというのが
 筋の重要な一部をなしている。シェイクスピアとしてはこのことをどうしても、作品の冒頭で扱わなければならなかった。・・中略・・

  シェイクスピアは、二つの時間を二重写しの方法で重ねることによって、実に巧みにこの問題を解決している。・・中略・・
 例えば、彼がデスデモナと結婚したことが忽ち彼女の父親に知れて、魔術を用いて娘を意のままにしたのだろうとヴェニスの統治者の前で詰問され、
 申し開きをする時の台詞は・・中略・・
 これはホメロスやダンテの英雄がする、同じ種類の遍歴の回顧談を思わせるものがあるが、それよりも注意すべきは、この台詞では、オセロがそれまでに
 経験した苦難をデスデモナに話して聞かせたということになっていながら、むしろ二人がそれだけの体験をともにして来たという印象を受けることである。
 ・・中略・・
 この台詞では・・・更に二人がそれだけ長年の間連れ添った仲であるということを暗示しさえしているかに見える。
 またそれにも増して、この台詞の終わりでオセロが
   あれは私が切り抜けて来た艱難の為に私を愛してくれたので、
   その経験を憐れんでくれたデスデモナを私は愛したのです
 と言う時、二人の関係はすでに憶測の域を脱した、揺るぎないものとなって我々に示される。

二重の時間についてはコットら他の評論家たちも指摘している。
そもそもイアゴーがオセローの耳に吹き込んだように、デスデモーナがキャシオーと何度も浮気を重ねることなど不可能なのだ。
そんな時間がどこにある?彼ら夫婦はやっと初夜を共にしたばかりなのに。
だが我々観客は、オセローの猜疑と苦悶を目にしても、それほど違和感を抱かない。
それは、吉田が指摘しているように、作者の巧妙なトリックのお陰なのだ。

 ②イアゴー

 イアゴは・・オセロやデスデモナとは全く別な空気を呼吸している。
 彼はデスデモナを手に入れようと焦慮しているロデリゴという馬鹿者に、デスデモナがいつまでもオセロを愛しているはずがない、と説明する。
 ここで大切なのは、イアゴ自身がこの説明の論理を信じ切っていることである。
 彼はシェイクスピアがオセロやデスデモナに言わせる台詞を聞く耳を持っていない。
 彼にとって、二人は結婚したばかりであり、年齢、人種、育ちなどの点から言って、まずうまくは行かないと判断するのが妥当な夫婦である。
 それは、具体的な資料が得られない問題については、理性にばかり頼っている者は、通例や可能性といった概算で行く他ないからであり、
 それが論理の不足を補うものである故に、やがてはそういう概算も論理に見えてくる。
 イアゴはその種類の合理主義者である。  

 イアゴはこの論理を逆用して、オセロにデスデモナを疑わせることができると確信している。
 では彼は何が目的でそういう計画を立てるのだろうか。
 そしてなぜ彼の計画は成功するのだろうか。
 
 彼は始めに、自分がオセロの補佐官になるつもりでいたところが、オセロが彼の代わりにカシオを選んだのを根に持ち、
 いずれはオセロに復讐するのを兼ねてカシオを失脚させ、自分がその代わりに起用されるようにするのだと言っているが、
 他の場所では、ただオセロを苦しめることを目的としている風にも見える。
 事実、彼がそういう、悪事を働くこと自体に生きがいを感じる、悪の権化とも言うべき存在であるというのが定説になっている。
 しかし彼は、それほど大それた役割を振られているわけではない。
 彼は腕利きの実務家で人当たりもよく、女を喜ばせる技術も心得ていて、最後に彼の悪事が露見するまでは誰にも信用され、「正直者のイアゴ」で通っている。
 彼はこの悲劇の首謀者でありながら、その性格には深みがない。
 そこに、俳優が彼に扮する時の困難がある。
 シェイクスピアはこの役を、当時の有名な喜劇役者に当てて書いた。

 彼には合理主義者の限界と喜劇的な性格が見られる。
 彼は悪人と呼びうるほどの人物ではない。・・・
 始めのうちは、オセロをそそのかしてカシオを失脚させ、その後釜に座ろうと計画していた。
 彼は充分な自信を持っていた。
 それは、二人の結婚が世俗に反したものであるとか、二人の年齢差が甚だしいとか、二人とも彼を信用しているとか、カシオが美貌で女に好かれる質の男である
 というような、「客観的な」事実である。
 そういう客観的な事実に即して冷静に行動し、それによって自分の計画を成功させることに、明晰な頭脳の持ち主としての優越を感じてもいる。

 しかし彼の計画が成功したことは、実際は彼にとって一つの誤算だった。
 彼の行動によって、彼が意図した通りにカシオは失脚し、オセロはデスデモナとカシオを疑い、自分がカシオに代わって補佐官に任じられる。
 だが彼は、その背後の現実、オセロとデスデモナの現実を計算に入れていなかった。
 計算に入れていないのは、それを理解していないからである。
 したがって、自分の行動の結果生じた事件の性質も、彼には理解できない。
 にもかかわらず、自分ではすべてを計算に入れたつもりでいるので・・・綿密な計算を怠らずにいながら五里霧中に行動することになり、
 自分が企てたオセロの悲劇に翻弄されて、・・・悲劇が進展するにつれて彼のやることは全くぶざまに見えてくる。・・そういう間が抜けた所がある・・

このように、吉田健一のイアゴー分析は独創的で実に面白い。
この後彼は、オセローとデスデモーナの性格について論じ、悲劇に終わるこの戯曲が、我々に、いかにカタルシスをもたらすものであるかを語っている。
それは次回にご紹介します。








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「オセロー」について

2023-05-13 19:22:26 | シェイクスピア論
<ヤン・コットのオセロー論>

「オセロー」には王様もお姫様も魔女も出て来ない。
オセローという黒人の将軍と、その白人の妻デスデモーナをめぐる夫婦の物語であり、そのため「家庭劇」とも呼ばれている。
彼らが駆け落ちしたところから、芝居は始まる。
オセローの部下でイアゴーという男が、策略を使って二人の間を裂こうとし、デスデモーナの不貞をオセローに信じ込ませる。
高潔で疑うことを知らないオセローはまんまと騙される。
彼は苦しみ悶えつつ妻を殺してしまうが、直後にすべてが噓で、でっち上げだったことが判明。オセローは自害する。

この作品についても、ヤン・コットと吉田健一が興味深い論を展開しているので紹介したい。
まずはヤン・コットの「オセロー」論から、適宜引用していきます。
ヤン・コットについては、拙文「リア王について Ⅱ」に簡単な紹介を書きましたのでご覧ください。 

① イアゴー
 イアゴーはオセローを憎むが、そもそも彼はあらゆる人間を憎んでいる。 
 彼の憎悪にはどこか打算を離れたところがあることに、批評家たちは早くから気づいていた。
 彼はまず憎み、その後初めて憎悪の理由を考え出すように見える。
 
 彼は悲劇を考え出すだけでは満足せず、それを夢中になって演じ、あらゆる配役を周囲の者みんなに割り当てて自分も出演しなければおさまらない。
 彼は悪魔的な舞台監督というより、マキアヴェリ的舞台監督と言うべきかも知れない。
 彼の行動の動機はあいまいで隠されているが、彼の理性は精密でさえている。
 「人の身体は庭園で、人の意志がその庭師となる」(1幕3場)

 悪魔的なイアゴーというのはロマン派が作り出した虚像である。
 彼は悪魔ではない。リチャード三世と同じように近代的な野心家なのだが・・・経験主義者で空論家を信じない。
 バカな連中は名誉や愛を信じている。だが実際にあるのはエゴイズムと欲望だけだ。
 強い人間は自己の情熱を野心に従わせることができる。
 自己の肉体もまた一つの道具となりうる。
 彼は意志の力を信じている。

 イアゴーは言う。この世は悪党とバカで、つまり、食う連中と食われる連中とでできている。
 人間は獣と同じように交尾し、互いに食い合う。
 弱者を憐れむのは間違いだ。弱者も強者も同じようにいとわしい。
 ただ弱者は強者よりも愚かであるに過ぎない。この世は汚れているのだ。
 オセローは言う。この世は美しく、人間は崇高だ。この世には愛と忠節がある。

 ・・・この嫉妬の悲劇、この裏切られた信頼の悲劇は、結局オセロ―とイアゴ―との間の議論になってしまう。
 議論の中心は、世界がどういうものか、ということだ。
 それは良いのか悪いのか。・・・生と死の間の短い時間の究極の目的は何なのか。
 イアゴーはリチャード三世と同様、破滅する。
 この世は汚れている。イアゴーの言う通りだった。
 そして彼が正しかったという他ならぬそのことが、彼の破滅の裏づけとなった。
 これが第一の逆説である。

残念ながら、ここでコットに対して「待った!」と言わねばならない。
この世が汚れているからイアゴーが破滅するとは、どういうことだろうか。
イアゴーが破滅するのは、彼の妻エミリアが正直な女で、自分が侍女として仕えていた女主人であるデスデモーナを愛していたからではないか。
エミリアのまっすぐな行動からも明らかなように、この世は汚れてはいない。
エミリアは邪悪で冷酷な夫に刺し殺されるが、心は平安だろう。
死を前にして彼女は言う、「こうして私の魂は天国へ、真実を話したのだから」。
決してコットの言うように、この世が汚れているからイアゴーが破滅するのではなく、事態はまったく逆なのだ。
コットの言葉に戻ろう。

 ・・イアゴーは言葉において勝つ・・。
 威厳に富み誇り高く美しいオセロー・・
 「王族の血を引いている」オセロー(1幕2場)。・・おとぎ話や夢や伝説の要素がある。・・異国的なもので固められた世界である。 
 オセローの価値の世界は、彼の詩や言葉と共に崩壊してゆく。
 というのは、この悲劇にはもう一つ別の言葉、別のレトリックがあるからだ。
 それはイアゴーのものだ。
 彼のセリフには・・嫌悪、恐怖、不快感を起こすものが出てくる。
 ・・にかわ、餌、網、毒、浣腸、ピッチ、硫黄、悪疫・・・。
 ・・オセローは次第にイアゴーの言葉をしゃべるようになる。
 彼はイアゴーのもっていた固定観念をすべて引き継ぐ。

② デスデモーナ
 オセローはデスデモーナに魅せられているが、それよりはるかに強く、デスデモーナはオセローに魅せられている。
 彼女はすべてを捨てたのだ。だから彼女は急いでいる。もはや一晩もむなしく過ごす気にはなれない。オセローの後を追ってならサイプラスまででも
 行かねばならない。
 デスデモーナは従順であり、同時に頑固なのだ。・・・
 シェイクスピア劇に登場する女性の中で、彼女は誰にもまして感覚的である。
 彼女はジュリエットやオフィーリアよりも口数が少ない・・・。

 デスデモーナは自らの情熱の犠牲となる。彼女の愛情は彼女にとって不利な材料となる。
 愛が彼女の破滅の原因になるのだ。これが第二の逆説である。
. 
 自然はオセローにとってのみならず、シェイクスピア自身にとっても悪なのである。
 それはちょうど歴史と同じように狂っており残酷である。
 ・・・この腐敗は清められることがない。あがないがないのだ。
 天使はことごとく悪魔に変わってしまうのである。

 オセローはデスデモーナを殺すことによって、道徳の秩序を維持し、愛と信頼とを回復しようとする。
 彼女を殺すことによって、彼女を許しうる状態になる。
 その結果、善悪の決着がつき、世界は平衡のとれた状態に戻るのである。
 彼は必死になって人生の意味を、いやおそらくは世界の意味を、保とうとしている。

 オセローの死は何を救うこともできない。・・・
 デスデモーナは死に、愚かな道化のロダリーゴーも、慎み深いエミリアも死んでしまった。・・・
 誰もが死んでしまう。高貴な人間も悪党も、分別のある人間も狂人も、また、経験主義者も絶対論者も。
 あらゆる選択が悪なのだ。

 シェイクスピアの世界も、地震のあとで平衡を取り戻しはしなかった。
 われわれの世界と同じく、それは統一を失ったままだった。
 シェイクスピアの「オセロー」という劇では、最後には誰もが賭けに負けるのである。

以上、いかにもヤン・コットらしい、陰鬱極まりない論調である。
彼は筆が立つので、うっかりするとその華麗な文章に飲み込まれそうになるので気をつけないといけない。
注意深く読んでいくと、彼の論理の進め方は時に大げさで大雑把で強引、時には妄想チックなところさえあることに気がつく。

ここには引用しなかったが、デスデモーナのことを「貞節ではあるが、どこか蓮っ葉女めいたところがあるに違いない」などと言ったり、
「デスデモーナは性的な意味でオセローのとりこになっている」と決めつけたり、「つい先ごろまで伏し目がちにオセローの物語を聞いていた少女が見せた
官能のほとばしりが、オセローを驚かせ恐れさせたかのようだ」などと言ったり。
あまりにも深読みが過ぎる。
想像力が豊かなのは認めるが、シェイクスピアはそんなこと考えてもいないだろう。
そこまで想像の翼を広げなくても、書かれている文字だけで、十分、この芝居を味わい楽しむことができるはずだ。
彼は、相変わらず自分の言いたいことに話を強引に持っていこうとしている。

次回は、吉田健一の見た「オセロー」を紹介します。














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「ロミオとジュリエット」について Ⅱ

2023-01-25 21:51:14 | シェイクスピア論
① スピード感溢れる展開

二人の出会いから死に至るまでの経緯をたどってみた。

日曜 夜  仮面舞踏会で出会う
月曜 朝  乳母、ジュリエットの使いでロミオを訪ねる。ロミオ、今日の午後、ロレンス神父の庵に懺悔に来るようジュリエットに伝えさせる。
      縄梯子を下男に持って来させるとも。  
   午後 二人はロレンス神父の手でひそかに結婚式を挙げる
      広場でティボルトがロミオに襲い掛かる ⇒ マキューシオ殺される ⇒ ロミオ、ティボルトを殺す ⇒ ロミオ追放
   夜  ロミオ、縄梯子をつたってジュリエットの部屋に行き、二人結ばれる
      同じ頃、ジュリエットとパリスの結婚式が木曜日と決まる
火曜 午前 ジュリエット、神父を訪ね、秘薬をもらう
      結婚式が一日早まり明日と決まる
   夜  ジュリエット、薬を飲む
水曜 朝  (結婚式当日)ジュリエット、死体(実は仮死状態)で発見される ⇒ 葬儀 ⇒ 墓地へ埋葬
   午後 ロミオ、追放の地で知らせを受ける ⇒ 出発
木曜 午後 ロミオ、墓地へ ⇒ 自死
      直後(夕方6時頃)ジュリエット目覚める ⇒ 後を追う

このように、この物語は急流を一気に流されてゆくようなスピード感に溢れている。

② 主導権を握るジュリエット

男が毒を飲み、女が短剣で胸を刺すという死に方も注目に値する。
当時、マントヴァの法律では毒を売った者は死刑だった。
それなのにロミオは、貧しい薬屋の、言わば足元を見て、無理を言って毒薬を買う。
この後、薬屋がどんな処分を受けたのかについて、この芝居では何も語られていないが、元ネタとされるアーサー・ブルックの戯曲では、
ロミオは遺書に薬屋の名前を書いており、そのため薬屋は縛り首にされる。
(似たようなストーリーを持つ同時代のベン・ジョンソンの戯曲「あわれ彼女は娼婦」でも、毒薬を売った薬屋はその後処刑される。)
まったくはた迷惑な話ではないか。
何のために腰に剣を下げているのか。
13歳の女の子の方が、恋と、そして人生(命)の主導権を握っていたことが、彼らの死に方にも現れている。

考えてみれば、そもそも「結婚」を最初に口にしたのもジュリエットだった。
ジュリエットの方からロミオにプロポーズしたのだ。
やはり、この戯曲を締めくくる大公の最後のセリフにあるように、これは「ジュリエットと彼女のロミオの物語」なのだった。

PRINCE : For never was a story of more woe
Than this of Juliet and her Romeo.

大公:数ある物語の中でも 最も悲しいもの、
   それこそこのジュリエットとロミオの物語だ。(私訳)

原文の英語の her を日本語に訳したいが、「彼女の」と訳してしまうと、あまりに堅苦しくて重いので、どうしても省略せざるを得ない。
それが残念だ。
 




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「ロミオとジュリエット」について

2023-01-21 22:58:20 | シェイクスピア論
この物語は敵同士の家に生まれた若い男女の悲恋物語としてあまりにも有名だ。
シェイクスピアを知らない人でも題名くらいは聞いたことがあるだろう。
だがその中身はと言うと、実は意外と豊かで奥が深い。
ここでは特にジュリエットの置かれた立場とその心情の変化に焦点を当てて考察してみようと思う。

① 父

ジュリエットの父キャピュレットは、当初、さほど頑固で理不尽な父親ではなかった。
1幕2場で、パリスが13歳のジュリエットと結婚したいと再度願い出た時の会話はこんな風だ。(引用は松岡和子訳)

 キャピュレット:以前申し上げたことを繰り返すだけです。
         娘はまだ世間知らず、
         十四の誕生日も迎えてはいない。
         あと二回、夏の盛りが過ぎないうちは
         嫁入りどきとは思えません。
 パリス    :もっと若くて幸せな母となる例もあります。
 キャピュレット:早く成るものは早く壊れる。
         頼みの綱の子供らにはみな先立たれ、残るはあの子ひとり。
         あの子だけが私のこの世の望みなのだ。
         だが、パリス殿、娘を口説いて心を掴まれるがいい。
         わしの意向などは本人の承諾のほんの添えもの、
         娘がうんと言えば、わしも同意。
         あの子の選択にいやとは言えません。

この時はこんなに理解ある父親だったのに、数日後にはまるで豹変してしまう。
3幕4場でパリスが帰ろうとするのを、彼はふと呼び止める。(魔が差したとしか思えない)

キャピュレット:パリス殿、娘の心は思い切って
        わしから差し上げることにしよう。何であれ
        わしの言うことなら聞くはずです。いや、必ず聞かせる。
だがちょうどその頃、ロミオは縄梯子を伝ってジュリエットの部屋に登り、二人は夫婦として一夜を過ごしていたのだった・・。

次の場面で母がジュリエットの部屋に来て、父の決めた結婚式のことを話したのは、彼女がロミオと涙ながらに別れた直後だった。
すでに夫と結ばれた彼女にとって、パリスとの結婚など、とうてい受け入れられるはずがなく、彼女はかたくなに拒む。
父親は娘の返事を聞くと、怒り出す。

 キャピュレット:木曜には
         パリスと一緒に聖ペテロ教会に行くんだ
         いやなら簀の子にでも乗せて引きずってってやる。
        (略)
         くたばれ、こしゃくな親不孝者!
         いいか、木曜には教会へ行くんだ。
         いやなら、今後二度とわしの顔は見るな、
         言うな、答えるな、返事もするな!
         (略)
         いいか、よく考えろ、わしは冗談など言わない質(たち)だ。
         木曜はすぐだ、胸に手を当ててようく考えろ。
         わしの娘なら、わしの気に入った男の嫁になれ。
         そうでないなら、首くくれ、乞食になれ、飢えて野たれ死にしろ。
         断じてお前を我が子とは認めない。
         財産もびた一文譲らない。
         嘘ではない、よく考えろ、わしは誓ったことは破らないからな。(退場)

当時、貴族の娘にとって、結婚以外の理由で実家を出て生きていくことなど考えられないことだった。
本当に、父親の言うように「飢えて野垂れ死に」するしかなかった。
一人娘を可愛がっていたキャピュレットがなぜこれほど豹変したのだろうか。
おそらくパリスに対して、娘が自分の言う通りにするはず、と自信を持って請け合った手前、引くに引けなくなったこと、
人前で恥をかかされそうになったことがあると思う。
いとこの急死を嘆き悲しんでいる娘のためにと思って考えてやっているのに、親の気持ちも知らないで、というわけだ。
可愛さあまって憎さ百倍。
彼だって、まさか娘がすでに別の男と結婚しているなどとは思いもしなかっただろう。
そう思うと、すべてを知っていた乳母の罪は重い。
だが乳母もまた、ジュリエットをこよなく愛していたことは間違いない。
ただ、愚かで想像力がないため、娘が自分とはまるで違う人間で、まるで違う考え方をするとは思いもよらなかったのだ。

② 母 

ジュリエットと母親とは、今日の一般的な母娘のように親しい間柄ではなかった。
1幕3場で母はこんなことを言っている。

キャピュレット夫人:このヴェローナではお前より年下で
          もう母親になっている良家のお嬢様がいらっしゃる。
          そう言えば私も、まだお前の年頃でお前を産んだのよ。

つまり、この時、母親はまだ28歳くらいということになる!
貴族なので、娘が生まれた直後から乳母が娘の世話をしたし、他にも子供はいたようだし(みんな死んでしまったが)、娘のそばにはいつも母親代わりの乳母がいた。
だから、いざ生きるか死ぬかという命の瀬戸際に立たされた時、娘は母に真実を打ち明けることもできなかったのだろう。

③ 乳母

この芝居はヒロイン・ジュリエットの成長物語でもある。
彼女はまだ14歳の誕生日を迎えてもいない。今で言えば中学一年か二年生だ。
最初は乳母とじゃれ合い、乳母に何もかも打ち明けているが、3幕5場で彼女は、母親代わりのこの乳母と初めて精神的な、そして決定的な決別をする。

逆上した父親に、パリスと結婚しないなら勘当だ、と告げられたジュリエットは、母にすがりついて嘆願する。    
ジュリエット: ああ、優しいお母さま、私を見捨てないで!
        結婚を延ばして、せめてひと月、いえ一週間、・・(省略)
キャピュレット夫人:話しかけないで、お前にはもう二度と口をききません。
          好きなようにおし、もう知りません。(退場)
ジュリエット:ああ、神様!ねえ、ばあや、どうすれば取り止めにできるかしら?
       私の夫はこの世に生きていて、私の誓いは天に在る。(省略)
       いい知恵を貸して。
       どうすればいいの?何か嬉しい言葉はないの?
       ばあや、何か慰めは?
乳母:ええ、ええ、ありますとも。
   ロミオは追放、戻ってきてお嬢様を妻と呼べる見込みは
   万に一つもございません。
   仮に戻ってきたとしても、ごくごく内密に。
   ですから、こういうことになった以上
   伯爵様と結婚なさるのが一番ですわ。
   おお、ほんとに素敵な方!
   ロミオなんかあの方に較べたら雑巾ですよ。それに、パリス様の
   あの青くて、生き生きして、きれいな目、鷲だってかないっこない。
   今度の結婚でお嬢様が幸せにおなりになるのは間違いありません。
   だって、前のよりずっと上ですもの。そうでないとしても
   前のお相手は死んだんです、生きてらしたって
   離ればなれで役に立たないなら死んだも同然。
ジュリエット:本気で言ってるの?
乳母:本気で本心、でなきゃ両方とも地獄におちて結構。
ジュリエット:そうなりますよう。
乳母:はあ?
ジュリエット:別に。お前のお陰ですっかり気持ちがなごんだわ。
      (省略)
        
ジュリエット:(乳母を見送って)
       罰当たりなおいぼれ!ああ、恐ろしい悪魔!
       こんなふうに私に誓いを破らせようとする。
       較べものがないと、私の夫を何千回も褒めちぎった同じ舌で
       今度はさんざんこきおろす。
       どっちが大きな罪かしら?さようなら、これまでは相談相手
       だったけど
       もう私の心はお前とは縁を切るわ。
       神父様のところへ行って救いの道をうかがおう。
       何もかも駄目になっても、死ぬ力だけは残っている。

乳母の考え方には彼女なりの処世術が表れている。
追放されたロミオとの結婚生活は、事実上不可能。
パリスは家柄も容貌も立派である。
親があれほどパリスと結婚しろと迫っているのだから、彼と結婚するのがいいに決まっている。
いや、ジュリエットには、もはやそれしか道はない。
乳母にとって、そう考えるのが自然であり合理的であり、そういう風に行動するのが常識だったろう。
だがジュリエットはそうは考えなかった。
たとえ誰も立会人のいない結婚式であっても、神父の手で式を挙げ、誓いの言葉を口にしたからには、それは神の前での正式な結婚式であり、
パリスと結婚したりすれば、重婚という恐ろしい罪を犯すことになる。
それくらいなら死んだ方がましだ、と彼女は思い詰める。
乳母はジュリエットを可愛がり、愛していたが、先ほども書いたように、彼女のことを理解してはいなかった。
彼女が自分とは全然違う人間であって、死を覚悟するまでに精神的に追い詰められているなどとは思いもよらなかった。
この場面はジュリエットにとって大きな転換点だ。
ここで彼女は母親代わりだった乳母と決定的に決別し、真に独立した一人の人間として、自分の人生を生き始める。

ロレンス神父はジュリエットに、42時間仮死状態になる薬を渡し、結婚を逃れるために、それを飲むよう告げる。
結婚式の朝、キャピュレット家の人々と花婿パリスは死んだ(ようになった)彼女を発見し、嘆き悲しみ、葬儀を行い、墓所に埋葬する。
ロミオの召使いは早馬を飛ばしてジュリエットの死をロミオに伝える。
一方、ロレンス神父の使いの修道士は、道中、疫病騒ぎに巻き込まれてロミオに手紙を渡すことができないまま帰って来る。
知らせを聞いて絶望したロミオは、毒薬を買ってキャピュレット家の霊廟に急ぎ、入り口をこじ開けてジュリエットの眠るそばで毒を仰いで死ぬ。
霊廟にジュリエットを迎えに来たロレンス神父は、ロミオの遺体を見て自分の計画が失敗したことを知り、ジュリエットに、ここを出よう、と促す。
だがジュリエットは、自分の傍らに夫ロミオのまだ温かい遺体を見てしまい、もう動くことができない。
死者たちの横たわる、この暗く冷たい霊廟に一人留まり、夫の後を追って死ぬという覚悟が、その胸に宿る。
13歳の娘がたった一人で冷静にこのことを決断し、実行できるまでに成長したのだ。いや、そこまで追い詰められた、と言うべきか。
日曜の夜に初めてロミオと出会ってからまだ4日しか経っていなかった。




 









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「マクベス」について Ⅱ

2022-08-31 22:39:35 | シェイクスピア論
<翻訳のこと~松岡和子訳との出会い>

5幕5場、王マクベスの元に、家来が夫人の突然の死の知らせを持って駆け込んで来る。

 シートン:お妃さまが、陛下、お亡くなりに
 マクベス:あれもいつかは死なねばならなかった。
      このような知らせを一度は聞くだろうと思っていた。(小田島雄志訳)

これは私が慣れ親しんできた小田島訳だ。
高校生の頃読んでいた福田恆存訳もこれと同様。

 シートン:は、お妃様が、お亡くなりあそばして。
 マクベス:あれも、いつかは死なねばならなかったのだ、一度は来ると思っていた、そういう知らせを聞くときが。(福田恆存訳)

ところが、ある公演で、今まで一度も聞いたことがない次のようなセリフが耳に入って来た。

 シートン:お妃様が、陛下、お亡くなりになりました。
 マクベス:何も今、死ななくてもいいものを。
      そんな知らせには、もっとふさわしい時があっただろうに。(松岡和子訳)

それは舞台を日本に置き換えた翻案物で、2007年4月、場所は国立能楽堂で、りゅーとぴあ能楽堂シェイクスピアシリーズの企画、演出は栗田芳宏、
このセリフを口にしていたのは主演の市川右近だった。



その日、私の頭の中はびっくりマークで一杯だった。
文字通り耳を疑った私は、帰宅後、急いで小田島訳を繰って確認した(当時まだ松岡訳を持っていなかった)。
思えばあれが、松岡訳との衝撃の出会いだった。

小田島訳でマクベスは、すでに妻の死を覚悟していて、理屈で自分を納得させよう、諦めようとしている。
松岡訳では、負け戦でただでさえ焦燥、憔悴している時に、かねて覚悟していたとは言え、ここまで苦楽を共にして来た唯一の同志とも言うべき妻の悲報を聞いて
打ちのめされ、ひたすら嘆いており、底知れぬ悲しみがにじみ出ている。
原文は
 She should have died hereafter.
 There would have been a time for such a word-

文法的にはどちらとも取れるが、日本語に訳すと意味が全く違ってくるので悩ましい。
この後すぐに、tomorrow speech と言われるマクベスの有名な独白が続くのである。
ちなみに、ちくま文庫には松岡氏自身の親切な解説がついていてありがたい。

この時は、まだブログ開設前だったので詳しい内容は覚えていないが、印象的だったのは、このセリフと、もう一つ。
4幕1場で、特別出演の藤間紫が演じたヘカテがゆっくりつぶやく「親指がチクチク痛い、何か悪いものがこっちへ来るよ」というセリフ。
今確認したら、このセリフは本来、魔女2が言うはずだが、この時はヘカテ役の藤間紫が言ったと記憶している。
この人の存在感が半端なく、魔界の雰囲気たっぷりでゾクゾクした。
15年も前のことなのに、その声音をはっきり覚えている。
 

<蜷川幸雄の「マクベス」>

この戯曲の後半で、主役のマクベスは暴君となり果ててしまうため、何とかしてこの残虐非道な男の暴走を止めて国の平和を取り戻さなくてはいけない、と
誰もが思うようになる。舞台上の人々も、そしてそれを見ている観客も。
そこではもはや、観客が感情移入するのはマクベスではなく、彼を成敗すべく立ち上がる高潔な王子マルカムと、王子を支えるマクダフらだ。
つまり、これまで主役だったマクベスから観客の気持ちが自然と離れてゆくように、戯曲が書かれているのだ。
だが、どうも多くの日本人にはそこが難しいようだ。
魔女たちにたぶらかされて道を誤り、滅びてゆく哀れな男、マクベス。
心優しい日本人は、この男にも「哀れさ」を感じてしまうのだ。
蜷川幸雄の演出はその典型だろう。
マクダフとの最後の一騎打ちは、蜷川が好んで使うスローモーションで、異常に長い時間をかけて見せられる。
戯曲では、セリフの応酬の後、「二人、闘いながら退場」というト書きがあるだけなのに。
アルビノーニの「アダージョ」の甘美な旋律が流れる中、桜吹雪が舞い散り、平幹二朗演じるマクベスは舞いを舞うかのように美しく死んでゆく。
すべてが美しい。
だが、彼の死をあまりに美化したために、すべてが平板になってしまった。
悪事も罪も、当人が死んでしまえばみな無かったことにされるというのだろうか?
一人の男の悲しい運命。諸行無常・・・。
いや、この戯曲は本来そういう話ではないのではなかろうか。

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