<カタルシスを得られるか>
「ヴェニスの商人」はユダヤ人差別を含む内容なので「問題劇」とされているが、そればかりではない面白さがあるので、わりとよく上演される。
以下は、前にも書いたことがありますが、今回もう一度考えてみようと思います。
まずは、あらすじから。
ヴェニスに住むバサーニオは借金返済のため、ベルモントの亡き大富豪の娘ポーシャと結婚しようとするが、求婚するにも金がいる。
そこで商人で親友のアントーニオに金を借りようとするが、たまたま彼は全財産を何隻もの商船に投機しており、手元に金がなかった。
仕方なく、バサーニオはユダヤ人シャイロックからアントーニオの信用を元手に金を借りようとする。
だが高利貸しシャイロックは、日頃から自分のやり方を非難するアントーニオを嫌っており、この機会に復讐してやろうと思いつく。
彼は、金を貸してやってもいいが、期日までに返済できなければ、アントーニオの体から肉1ポンドを切り取る、という条件でなら、と
とんでもないことを言い出す。バサーニオは断ろうとするが、アントーニオは承諾する・・・。
求婚の方はうまくいくが、アントーニオの持ち船はすべて難破し、彼の財産は海の藻屑と消えてしまう。
シャイロックは復讐の時が来た、とばかりに、アントーニオの肉1ポンドを要求し、公爵の判決を待つ。
バサーニオはすぐにヴェニスに引き返し、裁判に臨むが、そこに若い学者バルサザーが登場する。
彼は、実はポーシャが男装した姿だった・・。
作者であるシェイクスピアはキリスト教徒だが、彼のまなざしは公平そのものだ。
アントーニオが破産した、と聞いて、シャイロックは「例の証文を忘れないでもらおう!」と3度も繰り返す。
それを聞いた男が「おい、いくら違約したからって、まさかあの人の肉を取りはしないだろう―――取ってなんの役に立つ?」と言うと
シャイロックは答える。
魚を釣る餌になる。腹の足しにはならんが腹いせの足しにはなる。
やつは俺の顔をつぶした、俺の稼ぎを50万ダカットは邪魔しやがった。やつは俺が損をすればあざ笑い、儲ければ馬鹿にし、
俺の民族をさげすみ、俺の商売に横槍を入れ、俺の友だちに水をさし、敵を焚きつけた―――理由はなんだ?
俺がユダヤ人だからだ。ユダヤ人には目がないか?ユダヤ人には手がないか?
五臓六腑、四肢五体、感覚、感情、喜怒哀楽がないのか?
キリスト教徒と同じものを食い、同じ武器で傷を受け、同じ病気にかかり、同じ治療で治り、
同じ冬の寒さ、夏の暑さを感じないというのか?―――針で刺されても血は出ない?
くすぐられても笑わない?毒を盛られても死なないのか?
そして、あんたらにひどい目にあわされても復讐しちゃならんのか?(松岡和子訳)
この熱のこもった迫力あるセリフは、差別される側の心の叫びを代弁している。
ラストで無理やりキリスト教に改宗させられる原告シャイロックの悲しみと、彼をからかう下劣なヴェニス市民(キリスト教徒)たちの姿は、
むしろ作者の属するキリスト教社会の暗い罪を告発しているかのようだ。
シェイクスピアの洞察力の深さには驚くほかない。
このあたりは、にがい思いなしで見るのは難しい。
だが、殺されかけたアントーニオが救われるところでは、喜びを感じられるのではないだろうか。
2013年にこの劇が蜷川幸雄演出で(オールメールで)上演された時、シャイロックを演じた市川猿之助は、
インタヴューで次のように言っていた。
「法律上の正論はシャイロックにあるのに、多勢に無勢で詭弁が喝采を受け、彼は罪人にされていく」と。
そうだろうか。
もちろん差別があったことは事実だし、当時キリスト教徒の間では利子を取ることは悪いこととして禁じられていたため、
利子を取り立てていた金貸しシャイロックをアントーニオがいじめていたことは確かだが、彼はシャイロックの命を取ろうとしたことは一度もなかった。
「目には目を、歯には歯を」と言う。
この言葉は誤解されがちだが、復讐を奨励しているのではなく、復讐する場合、相手にやられたことと同じだけにするように、と上限を設けたのだった。
人は他人から危害を加えられた場合、ともすれば、やられた以上にやり返してしまいがちだ。
だがそうすると、どんどん暴力がエスカレートしていって、収拾がつかなくなってしまう。
そういう事態を防ぐために作られたのが、「目には目を、歯には歯を」という掟だった。
すべてを奪われるシャイロックに同情はするが、日頃の恨みを晴らすために奸計を弄して(だって例の証文をほんの冗談だと信じさせようと骨折っている)
相手の命を狙ったのは、どう見たってやり過ぎだろう。
社会全体にも問題があったとは言え、彼は自分で自分の首を絞めたのではないだろうか。
アントーニオは多くの人から慕われていた。
だから彼の命がかかった裁判と聞いて、心配した人々が大勢押しかけたのだし、最後にポーシャによって、彼の命を救う一筋の道が示された時、
居合わせた人々は皆、ほっとして光を見出したように喜ぶのだ。
客席で見ている我々もまた、ここで解放されたかのように、ほっと息がつける。
それを「詭弁」としか感じられないならば、残念ながらこの作品を十分楽しむことは難しいだろう。
「ヴェニスの商人」はユダヤ人差別を含む内容なので「問題劇」とされているが、そればかりではない面白さがあるので、わりとよく上演される。
以下は、前にも書いたことがありますが、今回もう一度考えてみようと思います。
まずは、あらすじから。
ヴェニスに住むバサーニオは借金返済のため、ベルモントの亡き大富豪の娘ポーシャと結婚しようとするが、求婚するにも金がいる。
そこで商人で親友のアントーニオに金を借りようとするが、たまたま彼は全財産を何隻もの商船に投機しており、手元に金がなかった。
仕方なく、バサーニオはユダヤ人シャイロックからアントーニオの信用を元手に金を借りようとする。
だが高利貸しシャイロックは、日頃から自分のやり方を非難するアントーニオを嫌っており、この機会に復讐してやろうと思いつく。
彼は、金を貸してやってもいいが、期日までに返済できなければ、アントーニオの体から肉1ポンドを切り取る、という条件でなら、と
とんでもないことを言い出す。バサーニオは断ろうとするが、アントーニオは承諾する・・・。
求婚の方はうまくいくが、アントーニオの持ち船はすべて難破し、彼の財産は海の藻屑と消えてしまう。
シャイロックは復讐の時が来た、とばかりに、アントーニオの肉1ポンドを要求し、公爵の判決を待つ。
バサーニオはすぐにヴェニスに引き返し、裁判に臨むが、そこに若い学者バルサザーが登場する。
彼は、実はポーシャが男装した姿だった・・。
作者であるシェイクスピアはキリスト教徒だが、彼のまなざしは公平そのものだ。
アントーニオが破産した、と聞いて、シャイロックは「例の証文を忘れないでもらおう!」と3度も繰り返す。
それを聞いた男が「おい、いくら違約したからって、まさかあの人の肉を取りはしないだろう―――取ってなんの役に立つ?」と言うと
シャイロックは答える。
魚を釣る餌になる。腹の足しにはならんが腹いせの足しにはなる。
やつは俺の顔をつぶした、俺の稼ぎを50万ダカットは邪魔しやがった。やつは俺が損をすればあざ笑い、儲ければ馬鹿にし、
俺の民族をさげすみ、俺の商売に横槍を入れ、俺の友だちに水をさし、敵を焚きつけた―――理由はなんだ?
俺がユダヤ人だからだ。ユダヤ人には目がないか?ユダヤ人には手がないか?
五臓六腑、四肢五体、感覚、感情、喜怒哀楽がないのか?
キリスト教徒と同じものを食い、同じ武器で傷を受け、同じ病気にかかり、同じ治療で治り、
同じ冬の寒さ、夏の暑さを感じないというのか?―――針で刺されても血は出ない?
くすぐられても笑わない?毒を盛られても死なないのか?
そして、あんたらにひどい目にあわされても復讐しちゃならんのか?(松岡和子訳)
この熱のこもった迫力あるセリフは、差別される側の心の叫びを代弁している。
ラストで無理やりキリスト教に改宗させられる原告シャイロックの悲しみと、彼をからかう下劣なヴェニス市民(キリスト教徒)たちの姿は、
むしろ作者の属するキリスト教社会の暗い罪を告発しているかのようだ。
シェイクスピアの洞察力の深さには驚くほかない。
このあたりは、にがい思いなしで見るのは難しい。
だが、殺されかけたアントーニオが救われるところでは、喜びを感じられるのではないだろうか。
2013年にこの劇が蜷川幸雄演出で(オールメールで)上演された時、シャイロックを演じた市川猿之助は、
インタヴューで次のように言っていた。
「法律上の正論はシャイロックにあるのに、多勢に無勢で詭弁が喝采を受け、彼は罪人にされていく」と。
そうだろうか。
もちろん差別があったことは事実だし、当時キリスト教徒の間では利子を取ることは悪いこととして禁じられていたため、
利子を取り立てていた金貸しシャイロックをアントーニオがいじめていたことは確かだが、彼はシャイロックの命を取ろうとしたことは一度もなかった。
「目には目を、歯には歯を」と言う。
この言葉は誤解されがちだが、復讐を奨励しているのではなく、復讐する場合、相手にやられたことと同じだけにするように、と上限を設けたのだった。
人は他人から危害を加えられた場合、ともすれば、やられた以上にやり返してしまいがちだ。
だがそうすると、どんどん暴力がエスカレートしていって、収拾がつかなくなってしまう。
そういう事態を防ぐために作られたのが、「目には目を、歯には歯を」という掟だった。
すべてを奪われるシャイロックに同情はするが、日頃の恨みを晴らすために奸計を弄して(だって例の証文をほんの冗談だと信じさせようと骨折っている)
相手の命を狙ったのは、どう見たってやり過ぎだろう。
社会全体にも問題があったとは言え、彼は自分で自分の首を絞めたのではないだろうか。
アントーニオは多くの人から慕われていた。
だから彼の命がかかった裁判と聞いて、心配した人々が大勢押しかけたのだし、最後にポーシャによって、彼の命を救う一筋の道が示された時、
居合わせた人々は皆、ほっとして光を見出したように喜ぶのだ。
客席で見ている我々もまた、ここで解放されたかのように、ほっと息がつける。
それを「詭弁」としか感じられないならば、残念ながらこの作品を十分楽しむことは難しいだろう。