ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

オペラ「サイレンス」

2020-02-13 21:38:38 | オペラ
1月25日神奈川県立音楽堂で、アレクサンドル・デスプラ作曲のオペラ「サイレンス」を聴いた(原作:川端康成「無言」、台本:デスプラ、ソルレイ、演出・映像:ソルレイ、指揮:デスプラ、演奏:アンサンブル・ルシリン)。
開館65周年記念。川端康成生誕120年記念作品。
フランス語上演、日本語字幕付き、日本初演。

66歳の作家、大宮明房は、後遺症により半身不随。話すことも書くことも、表情で感情を表現することもない。本当は手を少し動かすことが
できるはずなのだが、なぜか最低限の意思表示をすることもない。それともそれが意思だとてもいうのだろうか。
妻に先立たれた彼を世話しているのは40歳近くなった独身の娘、富子。彼女は大宮がかつて書いた小説を読む。
そこには、脳に障害を抱えた息子が、白紙の原稿用紙に小説を書いていないのに書いているつもりとなり、彼の病状を知っている母が、ありもしない小説を読む場面がある。富子はその小説をなぞって、自分が父の書いた作品を読めたら、とつぶやくのだった。
大宮の弟子で見舞い客の三田は、大宮に対して一方的な会話を試みるが、そのうちに無反応なはずの父と世話をする娘の、第三者にはうかがい知れぬ
コミュニケーションに遭遇する。彼はまた、帰途のタクシーで、逗子から鎌倉にまたがる小坪トンネルに現れる、若い女の幽霊を見る。
この世のものならぬ何かが、この作品の底流に流れ、つながり合う(大西穣氏の解説より)。

「英国王のスピーチ」「ハリー・ポッターと死の秘宝」等の映画音楽で有名なフランスのアレクサンドル・デスプラが満を持して書き下ろした
初のオペラということで、客席はほぼ満席。
映像も用いて飽きさせない工夫をしている。
ただ申し訳ないことに、せっかくの芸術作品も評者にはネコに小判、豚に真珠だった。
三田役のバリトン、ロマン・ボクレーと、富子役のソプラノ、ジュディット・ファーの二人は素晴らしいと思ったが、当日寝不足でもあり、
原作も知らないため、終始夢うつつの状態で、話の展開について行けず、誠に残念。
だがこれで逆に目が覚めた。
今後は現代音楽の演奏会には、なるべく足を向けないようにしようと決心した。
所詮、評者の守備範囲はかなり狭いということを、認めないわけにはいかない。
その狭い中で、やっていくしかないだろう。
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原裕子ヴィオラ演奏会・・・音楽の才能について

2020-02-04 22:42:39 | 音楽
1月17日東京文化会館小ホールで、原裕子のヴィオラ演奏会を聴いた(東京文化会館「上野 de クラシック」シリーズ)。
ギターのジェイコブ・ケラーマンとの合奏という珍しい組み合わせ。
曲目は前半に近現代の曲、メインがシューベルトのアルペジオーネ・ソナタ。
曲と曲の間に彼女自身が解説してくれて、会場は温かい空気で満たされた。

彼女のことは、彼女が高校生の時から知って(目をつけて)いる。
マスタークラス(公開レッスン)で仲間たちとカルテットをやり、大御所の今井信子などの指導を受けていた。
当時も光っていたが、久々に聴いたこの夜の彼女は、素晴らしい成長ぶりを見せてくれた。
解説も親切丁寧かつ的確で、知性を感じさせる。声も快く、温かい人柄が伝わってくる。
シューベルトの名曲では、期待通り大いに楽しませてくれたし、評者にはあまり馴染みのなかった近現代曲でも、彼女が非常に優れた演奏家
であることはよく分かった。
陶然と聞き惚れているうちに、思った。
どうしてこんなにうまいんだろう。うまい人と下手な人の違いって一体何だろう。
それって、もしかしたら技術的なことじゃないんじゃないか。

昨年、都内某所で行われた某ヴィオラ奏者の演奏会に行った時、あまりの下手さに耐え難く、途中退席するという初めての経験をした。
ただ、その時は、その人の演奏の、どこがどうよくないのか、言葉にすることが難しかった。
それが、この日、原さんの演奏を聴いているうちに分かってきた。

楽譜というのは、ただ適当に、意味もなく書かれているのではない。
一つ一つの音の動きにはすべて「意味」があるのだ。
音の上がり下がりにも、その長さにも。
だから、音程とリズムさえ合っていれば、後は何も考えず、ただやみくもに弾けばいいというものではない。
あの時、大好きなバッハの名曲がズタズタにされ、まるで知らない曲のようだった。
一体どうすればそんなことになるのか、まったく不思議と言う他なく、あっけに取られた。
だって、音程は、特に悪いというほどではなかったから。

楽譜に書かれた音楽には、それ自体が持つ自然な流れ、息遣いがある。
演奏家がそれを、言わば本能的に感受して、その通りに表現してくれると、聴いている人も、自然に、音楽と同じ息遣いができて
身体が心地良いのだ(従って、当然脳も心地良くなる)。
その時、生理的とも言うべき快感が味わえる。
逆に、その曲が持っている本来の流れ、息遣いが無視される、あるいは軽視されると、音楽はただもう不快な、意味の分からない
ものになってしまう。それはもはや音楽とも言えないだろう。
つまり、重要なのはフレージングということだ。
音楽が人間のものである限り、それは我々の呼吸と密接に関わっているのだ。

そして、弦楽器であっても歌と同じく「語りかけ」であることを忘れてはいけない。
音程が正しいとか左手の指がよく動くとかは、もちろん大事だが、実はもっとずっと本質的なことがあるのだ。

この日は音楽の歓びを心ゆくまで味わうことができた上に、このように頭の中を整理できたことは、まったくもって有難い。
素晴らしい成長を遂げつつある原裕子さん。
まるで親戚の子供の成長を目を細めて見ているようで、我ながらおかしい。
知的で美しい彼女は自分の進むべき道を知っている。そしてそのために何をすべきかを知っている。全く頼もしい限りだ。
彼女の更なる飛躍を確信し、期待する者です。
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