ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

サルトル作「恭しき娼婦」

2022-06-24 16:55:41 | 芝居
6月14日紀伊國屋ホールで、ジャン・ポール・サルトル作「恭しき娼婦」を見た(演出:栗山民也)。



舞台はアメリカ南部。冤罪を被せられて逃走する黒人青年をかくまう娼婦リズィ。
だが、その街の権力者の息子であるフレッドはリズィに虚偽の証言をさせようと、その黒人青年と由緒ある家系の白人の男どちらを救うか選べと迫る。
街全体で黒人が犯人と決めつける状況の中で、リズィが下した決断は・・・(チラシより)。

サルトルが米国を舞台に、人種差別、格差(階級)社会をテーマに1946年に発表した作品。
ネタバレあります注意。

朝、リズィ(奈緒)は一人ベッドから起き上がり、けだるい様子で部屋を見回し、窓の外を眺め、部屋の真ん中になぜかドンと置いてある掃除機で掃除を始める。
そこに昨夜の事件で追われている黒人青年(野坂弘)がやって来て、かくまってほしいと言うが、彼女は警察とは関わりたくない、と断る。
黒人が去ると、トイレに隠れていた白人青年フレッド(風間俊介)が出てくる。彼は昨夜の客だった。
だが彼がリズィのところに来たのには、別の理由があった。
昨夜、列車内で一人の黒人が射殺された。撃ったのは彼のいとこトーマスで、彼は警察に、黒人二人がリズィをレイプするのを見て撃ち、一人は逃げた、と主張。
警察も街の人々もそれを信じ、逃げた黒人を探している。
だが実際は、トーマスら白人たちがリズィに痴漢行為をし始め、車内にいた黒人二人が邪魔なので追い出そうとしてもめた末、トーマスが銃を取り出して一人を撃ったのだった。
フレッドはいとこを助けるため、リズィに、警察に行って「黒人たちにレイプされた」と証言してくれ、と頼む。
だがリズィには、噓を言うつもりはまったくない。警察と関わりたくもない。
フレッドは「僕の父は上院議員だ」と写真を見せる。丘の上の家と広い庭にリズィは見とれる。
そこに警官2名が来て、高圧的な態度で誓約書にサインさせようとするが、リズィは抵抗する。
するとフレッドの父親の上院議員(金子由之)もやって来るが、こちらは紳士的な態度で礼儀正しい。
「お嬢さんに失礼なまねをしてはいかん」「お嬢さんは本当のことを言う権利がある」と言って警官たちを去らせる。
だが彼は、自分も部屋を出ようとして、ひとり言のように「かわいそうなメアリー」と言う。
それを聞きとがめたリズィが「メアリーって誰?」と尋ねると、「私の妹、トーマスの母親だよ」と上院議員は答え、それからはもう彼の弁舌のうまいこと、
彼は相手の様子を伺いながら情に訴え、リズィはこの男の思い通りに操られてゆく。
善良で正義感は強いが単純でだまされやすく愚かな彼女をいいくるめることなど、この男にかかったら赤子の手をひねるようなものだった。
さらに彼は、アメリカ合衆国が君に選択を迫っている。どちらが国の役に立つか、トーマスが死刑になれば彼の会社が雇っている2千人が職を失う・・などと
たたみかける。
リズィは自分が誓約書にサインしてメアリーの息子の命を救ったら、メアリーが自分にどんなに感謝してくれるか、メアリーはきっと泣くだろう、
自分のことを娘のように思ってくれるだろう、と想像を膨らませる。
彼女はついにサインするが、誓約書を手にした上院議員は当然という顔で出てゆく。
その後、上院議員が戻って来て「妹から」と封筒を渡す。手紙だと思ったリズィが期待して開けると、百ドル札が1枚入っていただけ。
この時、リズィはようやくすべてを悟る。声がぐっと低くなる。言葉遣いもすっかりぞんざいに下品になる・・・。
父が去ると、フレッドがまたやって来る。いとこの命が助かったのだから、もう用はないはずなのに・・・。

演出に注文。「足音がする!」というセリフの時、本当に人の足音のような音を具体的に聞かせてほしい。
「あの音は何だ?誰かいるのか?!」というセリフの時も、実際に音を立ててほしい。

リズィ役の奈緒が熱演。この人は初めて見たが、うまくてびっくり。
ただ、絶叫が多過ぎると効果が薄れるので、叫ぶ回数は減らした方がいい。
上院議員役の金子由之も好演。

サルトルの戯曲の例に漏れず、非常によくできている。
導入、展開、終結、いずれも素晴らしい。
街中の人から追われる黒人の容疑は結局、レイプ犯ということだが、それでも当時はガソリンをかけて火をつけたり、殺して木にぶら下げたりして
裁判もなしにみんなでリンチして殺したらしい。
黒人ではないが、ガソリンをかけて火をつけると言えばテネシー・ウィリアムズの戯曲「地獄のオルフェウス」を思い出した。
一方トーマスの方は、黒人を一人射殺したわけだが、それで当時死刑になるだろうか?
そこがちょっと気になった。


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「ムッシュ・シュミットって誰だ?」

2022-06-17 22:36:35 | 芝居
6月13日俳優座スタジオで、セバスチャン・ティエリ作「ムッシュ・シュミットって誰だ?」を見た(演出:小笠原響)。



ある夜、一本の電話が。
何故?うちに電話は無い筈。
ムッシュ・シュミット?誰?
私はジャン=クロード・ベリエ。眼科医だ。
妻はニコル。・・・の筈。
次々起こる不可解な出来事。
一体どうなってる?私が狂ったのか、世界が狂ったのか?
まるで突然急流に吞み込まれたかのように一変する日常。
―あなたならどうする?(チラシより)
ネタバレあり注意!

フランスで、ある夫婦が夕食をとり始めた時、電話が鳴る。だがそもそも家に電話はないはず。誰が電話を設置したのか?
電話に出ると、相手は「シュミットさんですね」と言う。「違います。ベリエです」と答える夫。
そこから二人は部屋の中の異変に気づく。壁の絵も本棚の本も、服も全部自分たちのものではない!
二人は空き巣がこんなことをするだろうか、自分たちが部屋を間違えたのか、と混乱する。
しかもドアが開かない!さっきこの鍵で開けて入ったはずなのに、閉じ込められてしまったらしい。
警察に電話しようとするが、番号が違う。
ここはフランスではなく、ルクセンブルクだという。
そうこうするうちに警官が来る。
事情を説明するが、当然分かってもらえない。
警官は二人を空き巣と疑い、「空き巣はこうするんです」と銃で壁の鏡を撃って粉々にする。
二人は震え上がる。夫は仕方なく、相手の言う通り「シュミットです」と答える。
身分証を見せてと言われ、いろいろ抵抗するも、結局取られてしまう。
ところが身分証を見た警官は「失礼しました、あなたはシュミットさんですね」と言う。
不思議だがひと安心する二人。
その後もファーストネームを聞かれたり、いろいろあるが、何とかその夜は警官は帰ってくれた。
夫はアンリ、妻はナディーヌだという。
妻は言う「私たちは鮭じゃないわ。流れに逆らって川を登るなんてダメよ。このまま流れに身を任せるのよ。きっとどこかにたどり着くわ。湖とか。」
それぞれナディーヌ、アンリと呼び合うことにする。
シュミットは皮膚科医らしい。靴のサイズが夫と同じ。朝食に食べるクラッカーも同じ。
翌朝、医者が来る。「患者はどこですか?」警察から連絡があって来たと言う。
夫にいろいろ質問し、ボールでゲームをさせ、奇妙なことをさせるので夫は怒り出す。
医者が帰ると、また警官が来て「息子さんが見つかりました」と言う。
二人はびっくり。息子って何だ?俺たちに子供はいない。だが妻が思い出させる。「流れに身を任せるのよ」
かくて息子がいるふりをすることになり、またいろいろな質問(名前・年齢・職業等)に苦心して答える。
ついに息子登場。妻は喜んで抱きつき「よかった!ママを許してね!」見ていた警官はもらい泣きしている。
息子と警官が去ると、夫は妻の見事な演技に感心するが、妻は「何言ってるの?あれは私たちの息子よ」
この時から二人は仲間ではなくなる。夫だけが不可解な状況に取り残されるのだった・・・。

音楽はいい。不条理と悪夢のような展開にピッタリ。
特に、二人が警官の言う通りアンリとナディーヌとして生きようと決心するシーンで、突然ワーグナーの「マイスタージンガー前奏曲」が
鳴り響いたのがおかしい。ここが唯一笑えたシーンだった。

チラシには「私が狂ったのか、それとも世界が狂ったのか」とある。
それを読んだ人は、彼は狂ってはいないんだな、何か別のわけがあるんだな、と思うはずだ。
だからその謎を解こうとして頭をひねることになる。
ラスト近く、男は自分の職場と信じるフランスの眼科医院に電話し、旧知の秘書にベリエ医師に取り次いでくれ、と言う。
医師が出ると、本人にしかわからないような彼のプライベートのことをしゃべり続ける。
それを聞く観客は、パラレルワールドとかドッペルゲンガーとかいう語が頭の中を駆け巡るが、しまいにわかったのは、本人が精神病(統合失調症)、
つまり気が狂っていたということ。
これってひどくないか。
結局、彼の脳の病気がすべての原因で、この話が全部主人公の妄想だったとは!
いわゆる「夢オチ」みたいなもんじゃないか。

俳優座で初めて裏切られた思いだ。
帰り際、一人の男性客が、スタッフのそばを通るたびに「チラシにだまされた」と言っていたが、その気持ちがよくわかる。

役者では、急きょ代役で精神科医を演じた志村史人がよかった。
妻ニコル役の斉藤深雪も好演。














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「貴婦人の来訪」

2022-06-10 22:50:58 | 芝居
6月7日新国立劇場小劇場で、フリードリヒ・デュレンマット作「貴婦人の来訪」を見た(演出:五戸真理枝、6月19日まで)。



小都市ギュレン。かつて栄えたこの都市も、今は貧困に喘いでいる。ある日、この町出身の大富豪クレール・ツァハナシアン夫人が帰郷する。
彼女が町を復興させてくれるのではないかと期待に胸を膨らませる町の人々。夫人はある条件のもと巨額の寄付を申し出る。
「正義の名において、かつてこの町で受けた不正を正してほしい」・・・(チラシより)。

ネタバレあります注意!
この作品は、2008年10月に長山藍子主演で見たことがある(演出:古城十忍、あうるすぽっとにて)。
それまでデュレンマットのことはまったく知らず、そのユニークな内容に、ただただ驚いた。
残念ながら、このブログ開設(2009年)の前なので、詳しい記録は残っていない。
今回は主演が秋山菜津子だというので、もっぱら彼女目当てに出かけた。

クレール(クララ・秋山菜津子)はイル(相島一之)と10代の頃付き合っていたが妊娠。彼がお腹の子を認知しないので裁判を起こした。
彼は二人の男を買収し、「彼女と寝た」と偽証させた。そのため彼女は町にいられなくなり、遠くの町へ行って娼婦となった。
大金持ちと結婚した彼女は、偽証した二人の男を探し出して去勢し、目玉をえぐり出して召使いにした。
今故郷の町に帰って来た彼女は、その莫大な財産の一部をこの町に寄付する代わりに、イルの命を要求する。
彼女は小さい頃から正義を愛する子だった。
だが町長は、その場で彼女の申し出を拒否し、町の人々も拍手して賛同する。

イルの店に町の人が次々に買い物に来るが、みな、いつもより上等の高い品を「ツケで」買って行く。
それで店主イルは不審がり、怯える。
そう、みんな、町に莫大なお金が入ると見越しているのだ。だがそれは、彼の命と引き換えなのだが・・。
結局、町民総会でイルは殺され、クララが持ち込んだ棺に入れられる。
クララは町長に小切手を渡し、町は豊かに栄えるのだった・・。

ラストでイルは男たちに首を絞められる時、途中するりと身をかわして、近くでみんなの動作を見下ろす。
みんなはそのまま首を絞めるふりを続け、死んだと見るや布で包んで棺に入れるふり。
なぜこんなことをするのか理解不能。

町の人々の衣装が次第に黄金色に変わってゆくのが面白い。
赤毛のクララが、長年の恨みを晴らした後、そのカツラをとって薄茶色の髪になって去ってゆくのも深く心に残る。
久しぶりに秋山菜津子さんを見ることができた。相変わらず演技も存在感も素晴らしい。

イルの妻の気持ちが分からない。
最初、クララの要求を聞いた時は驚いて夫にしがみついたのに、その後は他の人たちと同じように、のんきに毛皮のコートをツケで買ったりして浮かれている。
夫が殺されるかも知れないというのに、正気の沙汰とは思えない。

今回改めて思ったこと。
クララの気持ちはもちろんよくわかるが、彼女は決してレイプされたわけではない。
都々逸に「こうしてこうすりゃこうなるものと、知りつつこうしてこうなった」というのがある。
言いにくいが、彼女には人(男)を見る目がなかったし、想像力も足りなかった。
若い娘は自分で自分の身を守らないといけない。
「ジェイン・エア」が書かれる少し前に、英国で、住み込みの家庭教師がその家の主人の子を妊娠し、追い出されて赤ん坊と共に路頭に迷うという事件があった。
その恐ろしい噂は瞬く間に広がり、女子寄宿学校では、そのことを教訓として、そんなことにならないようにと生徒たちを戒めたという。
現代では少なくとも2人が死ぬことはないが、当時は彼らを守ってくれるものは何もなかった・・。

もちろん男のしたことはひどい。
現代でも赤ん坊を認知しない男はたくさんいるが、そのために2人の男を買収して「彼女と寝た」と偽証させるというのは、相当悪質と言わざるを得ない。
そのため彼女は、誰とでも寝るふしだらな女、お腹の子の父親が誰かもわからないとんでもない女という烙印を押され、この町にいられなくなってしまい、
知らない町で娼婦として生きるしかなくなった。
シングルマザーは今ではごく普通にたくさんいるが、当時はまだ保育園(託児所)もなく、女性の職業も少なかった。
出産後、子はすぐに施設に引き取られたので、一度しか顔を見ていない。一年後、市役所から死亡したという葉書が届いたという。

彼女の恨みは理解できるが、だから彼の命を取るというのは違う。
それは法律が許さないだろう。
この町は無法地帯なのか?
いや、このお話は寓話として読むべきなのだろう。

作者デュレンマットに言いたいこと2点あり。
① 女が臨月で町を去ったことを知らないはずがないのに、イルがしみじみと「僕たちに子供がいたんだね」と言うのはおかしい!
  しかもその前に、裁判で、彼は彼女のお腹の子供の父親でないと主張し、汚い手を使って勝っているのだから。
② 結婚式に新約聖書のコリントの信徒への手紙一の13章が朗読されるのは定番だが、マタイ受難曲の中の合唱曲を歌うわけがない。
  だって受難曲ですよ。それともこれは、男の死の予告、暗い運命のための雰囲気作りなのか?

蛇足ですが、ここでコリントの信徒への手紙一(略してイチコリ)13章をご紹介します。

  たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
  たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、
  愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、
  わたしに何の益もない。
   愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
  不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
   愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
  完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。
  成人した今、幼子のことを捨てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。
  わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、
  この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。             (新共同訳)






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「ルナサに踊る」

2022-06-03 22:15:11 | 芝居
5月31日紀伊國屋サザンシアターで、ブライアン・フリール作「ルナサに踊る」を見た(劇団民藝公演、演出:シライケイタ)。



1936年の夏、アイルランド北西部の村はずれでつましく暮らすマンディ家の5人姉妹。教師の長女ケイトがひとりで家計を支え、三女アグネスと四女ローズは
編み物をしてわずかな収入を得るのみ。末娘のクリスには7歳になる息子マイケルがいる。
そんな一家のもとへ、25年もの間アフリカで働いていた長男のジャック神父が無残な姿で帰ってきた。姉妹はかつて一緒に踊った8月の収穫祭(ルナサ)の
日々を懐かしみ、次女のマギーはラジオから流れる音楽に身を任せ踊り出す。つられて姉妹たちもダンスに夢中になり感情を解き放つが、マイケルの父親ゲリーが
突然現れて・・・(チラシより)。

舞台上手に食卓と椅子が6脚ほどと、オーブンや食器棚やその他の棚。下手は庭で簡素なベンチがある。
ただし、その間に壁もドアも窓もない、珍しいセット。

5人姉妹は上から順にケイト、マギー、アグネス、ローズ、クリス。末娘クリスの息子マイケルは私生児だ。
つまり、彼女たちは誰も結婚したことがないのだった。
大人になったマイケルが過去を懐かしく回想するという形で芝居は進行する。
母親代わりのケイトが唯一の稼ぎ頭だが、彼女は堅苦しく、妹たちを厳しく𠮟りつける。
次女マギーは38歳。ということは、姉妹はみな30代くらいということだ。
四女ローズは知恵遅れか、何らかの知的障害を持っているようだ。
ジャック神父は伝道のためにアフリカに行き、長年宣教師として働いていたため、この村の人たちの尊敬を集め、家族も尊敬されていたが、実際は、ミサをしていたのは
最初の数年くらいで、現地に溶け込むためにスワヒリ語を学び、使い、人々と親しくするにつれ、現地の風習や文化、宗教に惹かれ、どんどん馴染んでいったのだった。
四半世紀ぶりに帰国すると、妹たちの名前を思い出せず、(当然だが)英語がすぐに出てこなかったり、アフリカの友人たちを懐かしがり、現地の踊りを踊り出して
夢中になったり、異教の儀式の話を延々としたりして妹たちを困惑させる。
そのうち彼はすっかり元気になるが、もうミサを再開するという話はしなくなる。
そんなある日、突然マイケルの父親ゲリー(みんなジェリーと発音する)がやって来る。
ケイトは無責任な奴、と怒るが、彼はダンスが得意な軽い男で、庭でクリスと踊り続ける。今は蓄音機のセールスをしていて、これからスペイン内戦に加わる由。
秋になり、ケイトは職を失い、3女と4女の編み物の仕事もなくなる・・・。

ラジオから流れるアイルランドのリズミカルな音楽と、それを聞いた娘たちが、もう我慢できない、体が勝手に動き出しちゃう、という風に踊り出すダンスが面白くて楽しい。
ジャックが踊るアフリカの踊りも素敵で魅了される。
ローズの知的障害のことをもっとはっきり描いてくれないと、分かりにくい(これは原作のせいかも)。

作者の自伝的な作品らしいが、とりとめがなく、焦点がぼやけている。
ジャックは妹たちに現地の風習を語り、中には何かの血を回し飲むといった気持ちの悪いものもあるが、しまいに彼は、「あの人たちは我々と同じなんだよ!」
と熱を込めて言う。現地の人たちと深く知り合うにつれ、彼はそういう認識に達したのだった。
それは素晴らしいことだと思う。
西洋人にありがちだが、彼もまた、未開の人たちにキリスト教を伝えて啓蒙し、救ってあげようという、言わば上から目線の気持ちでアフリカに赴いたのだ。
だが、かの地の人々もまた、自分たちと同じように日々の暮らしを営み、家族を愛し、仲間と共に人生を楽しむ同じ人間なんだ、と気づいたのだった。
評者の個人的な関心からは、その辺のところをもっと深掘りしたいところだが、劇中ではあっさり触れられるだけだった。
伝道という点では失敗だったかも知れないが、彼の認識の大きな転換に加えて、現地の人々もまた、彼を通して西洋人と西洋の世界をいくらかは知ることが
できたわけだから、大いに意味があったと思う。

演出がよくない。終わり近く、全員が夕日を眺めて(客席を向いて)沈黙が続く場面では、沈黙があまりに長いので、誰かがセリフを忘れたのか、それとも
音楽が入るはずが機械が故障したのか、とハラハラさせられた!
芝居の中で音楽が邪魔なことは時々あるが、音楽があればいいのに、と思ったのはこれが初めてだ。
想像力が欠如しているとしか思えない。
舞台上の人々がしみじみしていたら客席もしみじみできるだろうと思ったとしたら大間違いだ。

暗くて辛い話なのに、語り手役のマイケルが終始明るい口調なのも違和感がある。
表面上は穏やかな日常が続くが、その先には悲惨な結末が待っている。
そのことを彼は淡々と告げる。
それを聞かされた観客はどうしたらいいのかわからず困惑する。

役者もあまりよくない。
ケイト役は、工夫すればもっと人間味のある、共感できる人物になっただろう。



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