ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「コラボレーション」

2014-11-26 17:20:30 | 芝居
10月16日紀伊國屋サザンシアターで、R.ハーウッド作「コラボレーション」をみた(劇団民芸公演、演出:渾大防一枝、訳:丹野郁弓)。

1930年代ドイツ。大作曲家シュトラウスは、オペラ「ばらの騎士」などを共作してきた長年の友ホフマンスターを喪い、新しいオペラの
台本作家を探していた。ようやく出会えた若き人気作家ツヴァイクとは、17歳の年齢差を越えてお互いを認め合うようになる。
新たな共同制作を通して創作意欲を刺激し合う二人。数々の困難を乗り越えてついに念願の新作オペラ「無口な女」は完成、ドレスデンでの
初演も決まるが、ユダヤ系であるツヴァイクにはナチスから厳しい追及の手が伸びるのだった…。

この芝居は、2011年に加藤健一事務所公演(日本初演・鵜山仁演出)を見たので、いろいろ比較できて面白かった。
まず訳が違うのに気がついた(初演時は小田島恒志・小田島則子訳)。どこが違うかまでは分からなかったが。

開幕まで、オペラ「ばらの騎士」などリヒャルト・シュトラウスの音楽が次々と流れ、ムードを高める。

リヒャルト・シュトラウス役の西川明は、加藤健一と比べると、セリフ回しがいささか重い。

シュトラウス夫人パウリーネ役の戸谷友は、文学座の塩田朋子とはだいぶ違ったタイプのどっしりした奥様を演じるが、張りのある声がいい。
今回の二人はだいぶ年配の夫婦という印象だが、こっちの方が作者のイメージに近いのかも知れない。

作家シュテファン・ツヴァイク役の吉岡扶敏は、滑舌もよく、繊細で気難しい作家を巧みに描き出した。

台本作家とオペラ作曲家との関係が面白い。前者は後者と比べると影が薄いが、後者は前者なしでは手も足も出ない、つまり仕事を始める
ことすらできないのだった。

音楽の使い方が素晴らしいが、誰を褒めたらいいのだろうか。効果(岩田直行)か演出家か?ブラジルに逃亡した作家のシーンを除くと、
もちろんほとんどがシュトラウスの作品。

二人の共同制作であるオペラ「無口な女」の初演に、台本作家であるツヴァイクは立ち会うことを許されない。ユダヤ人だからだ。
その日の演奏を、彼はラジオで聴くしかない。ユダヤ人ばかりでなく、ユダヤ人を助けた者、家族にユダヤ人がいる者へもナチスの
迫害の手は伸びてくる。あのシュトラウスが、晩年にこういう苦しみを味わっていたとは…。

ラスト、作曲家が最晩年に作った美しい旋律が流れ、胸に沁みる。

「ドレッサー」「どちらの側に立つか(テイキング・サイド)」などと共に、これもハーウッドの魅力あふれる重要な作品の一つだ。
今回は、とにかく音楽の使い方が素晴らしかった!


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オペラ「パルジファル」

2014-11-19 18:40:14 | オペラ
10月8日新国立劇場中劇場で、リヒャルト・ワーグナー作曲の神聖祝祭歌劇「パルジファル」をみた(台本:作曲者自身、演出:ハリー・
クプファー、オケ:東フィル、指揮:飯守泰次郎)。

聖杯と聖槍を守る騎士団の長アムフォルタスは、聖槍を魔術師クリングゾルに奪われ、その槍で傷を負っている。この傷を治すには「無垢な
愚者」の登場を待つしかない。ある日、白鳥を矢で射った若者パルジファルが現れる。老騎士グルネマンツは彼こそが王を救う「無垢な愚者」
ではないかと期待するが、若者は聖杯の儀式の意味を理解できない。
パルジファルはクリングゾルの城を訪れ、この魔術師に操られたクンドリーの誘惑を受けるが、それに屈することなく、彼女の接吻で悟りを
開く。クリングゾルはパルジファルに聖槍を投げつけるが、槍は彼の頭上で止まる。
時を経て、パルジファルは聖槍を手に王の元へ帰ってくる。パルジファルがアムフォルタスの傷口に聖槍を当てると、傷はみるみる消える。
パルジファルは聖杯の王となり、聖杯は光り輝く。

14時から19時40分まで(2回の休憩を入れて)5時間40分かかるゆえ、久々におやつと夕食持参で臨んだ。
「今日は体力勝負だから」というお客の声がする。

冒頭、舞台奥から青白い光の筋が稲妻状に伸びてくる。それは床をジグザグに進み、川の流れのようだが、よく見ると青空で、そこには白い
雲が流れているのだった。

解説役の老騎士グルネマンツを演じるジョン・トムリンソンが素晴らしい。

題名役は、(これは言ってもせんないことだが)ヴィジュアル的にとても素朴な若者とは思えないのが残念。

装置のすごさ。稲妻状の発光する床の一部が下降してゆくかと思えば、隆起して上昇したり、そうしているうちに、奥から矢印のような
形をした新しい道が伸びてくる。まるでラピュタのよう。手塚治虫に見せたい。
このようにすごい仕掛けだが、それでいてシンプルで美しい。

聖餐式のテーマ。少年たちが騎士たち一人一人に盃を掲げて聖餐にあずからせる。それをパルジファルはぼんやり見ている。意味が分からないのだ。

クンドリー役のエヴェリン・ヘルリツィウスは、わりと小柄で華奢なのに声量豊か。情感たっぷりで演技もうまい。「私は笑った」と音が急降下
するところなど印象的。

2幕でクンドリーが遠くからパルジファルの名を呼びながら現れる。この時初めて舞台にパルジファルの名が響き渡る。ここの音楽が厳粛で
ロマンチック。劇的光景に客席も静まり返る。

クンドリーの赤いドレス、そしてクリングゾルとのからみがハッとするほど官能的。

クンドリーに呼びかけられてパルジファルは初めて己の名を知り、彼女のキスで己の使命を自覚する。まさにロマンチシズムの極致だ。

3幕。鎧兜はなく、パルジファルはただオレンジ色の布を手に持って登場するのみ。つまり全3幕を通してパルジファルの衣装は変わら
ないが、これではつまらない。一目見ただけでパルジファルと分かってしまうではないか。

彼が鎧と兜を脱ぐ(ふりをする)と、グルネマンツはこの男があの「愚かな若者」だと気がつく。その歌詞に続いてあの時の(1幕の)
音楽が流れる。胸に沁みる瞬間だ。

「時間が空間となる」という謎めいた歌詞のあたり、舞台装置の紗幕がその言葉にふさわしい雰囲気を出していて素晴らしい。

2012年秋に、評者は初めてこのオペラをみた。回り舞台を多用し映像も使っての演出は、しかし心に響いてこなかった。ただやたらと
長くてぐったり疲れた思い出しかない。
今回の上演で、この作品の魅力を初めて知ることができた。
もちろん話のテンポがゆったりしているし、同じことが何度も繰り返されるので、ますます長く感じるし、疲れはしたが、歌手たち、演出、
装置、すべての点で、圧倒的に面白かった。またいつか見たいが、これほど上質なものは、もう二度と見られないのではないだろうか。





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「無伴奏ソナタ」

2014-11-11 15:45:49 | 芝居
9月30日サンシャイン劇場で、オースン・スコット・カード原作「無伴奏ソナタ」をみた(キャラメルボックス公演、脚本・演出:成井豊)。

すべての人間の職業が幼児期のテストで決定される時代。クリスチャン・ハロルドセンは生後6ヶ月のテストでリズムと
音感に優れた才能を示し、2歳のテストで音楽の神童と認定された。そして両親と別れて森の中の一軒家に移り住む。
そこで自分の音楽を作り、演奏すること。それが彼に与えられた仕事だった。彼は「メイカー」となったのだ。
メイカーは既成の音楽を聴くことも、他人と接することも禁じられていた。ところが彼が30歳になったある日、
見知らぬ男が森の中から現れた。男はクリスチャンにレコーダーを差し出して言った。「これを聴いてくれ。バッハの
音楽だ…」

キャラメルボックスには、以前「夏への扉」という名作と出会わせてくれたという大恩があるが、今回は、原作の設定
自体に無理があり、ついていけないものがあった。

芸術は模倣から始まる。少なくとも西洋音楽において、過去の作品を聴くことなく作曲を始めた作曲家はいない。
誰にでもまず習作期間があり、その後も決して外界に(他の作品にも)耳を閉ざすことなく、影響を受けつつ制作活動を
続けたのだ。それを「汚染される」と考え、才能ある人間を外界から隔離して、己の内面からのみ生まれる音楽を作らせ
ようとするのは、単に非人道的のみならず、そうやってできた音楽に、一体何が期待できるだろうか。

そもそも2歳で親と引き離されることによる精神的ダメージの影響の方が、はるかに恐ろしい。

国家は作曲を決して強制してはいないと言うが、人間としての自由を奪っていることに変わりはない。これでは
未来社会と言えども古代や近世の専制政治と同じ、ただの悪夢だ。

ことは音楽に限らない。
子供が絵描きになりたいと思うのは、美しい景色を見た時でなく、(誰かが描いた)絵を見た時だという。かつて
この言葉を聞いて深い感銘を受けたことを思い出した。

わがシェイクスピアに至っては、37編の劇作品のほとんどに、元ネタが存在する。だがだからといってそれらの価値が
下がるわけではない。元ネタの作品は面白くないから読まれることもなく、上演されることもないが、それらを素材として
天才はそこに息を吹き込み魂を入れて、奇跡とも呼ばれる不滅の作品群を作り上げたのだ。

チラシの「バッハの音楽だ…」という文章を読んだ時、バッハの音楽をこよなく愛する者として、主人公がバッハから
どんな素晴らしい影響を受けるのか想像をふくらませたが、作中ではただ、禁止されていた他の音楽を聴くという行為を
犯したことを隠そうとしてバレるきっかけになったに過ぎず、結局バッハでなくても他の誰の音楽でもよかったような
扱いで、失望した。

キャラメルボックスは熱烈な固定ファンに支えられているようで、評者はいささか場違いな感じがした。

せめて天才作曲家たる主人公の作った「シュガーの歌」がもう少しましな曲だったらよかったが、70年代のフォークっぽい曲で、
音楽としてあまりにも凡庸なため、落涙に至らず残念。
「感涙まちがいなしの傑作」という成井氏の言葉と、あらすじの「バッハの音楽」という文字に吸い寄せられて行ったが…むしろ
評者にとってしばしば感涙の元であるバッハを聴くことで、主人公がどれほどの喜びを感じたかが全く描かれていないことが
不思議だった。

芸術におけるオリジナリティとは何か、について考えさせられた一夜だった。


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ブレヒト作「三文オペラ」

2014-11-02 21:18:14 | 芝居
9月26日新国立劇場中劇場で、ベルトルト・ブレヒト作、クルト・ヴァイル作曲の音楽劇「三文オペラ」をみた(演出:宮田慶子)。

19世紀、女王の戴冠式間近のロンドン。稀代の大泥棒メッキース(池内博之)はロンドン随一の色男。乞食たちの総元締め「乞食の友
商会」社長ピーチャム(山路和弘)の娘ポリー(ソニン)と結婚式を挙げることに。怒ったピーチャムは警視総監ブラウン(石井一孝)に
彼の逮捕を要求する。メッキースの親友でもあるブラウンは、悩みながらも彼を追うことに。昔馴染みの娼婦ジェニー(島田歌穂)の元に
身を隠すメッキース。しかしブラウンの娘ルーシー(大塚千弘)にまで手を出していた彼は、とうとう女たちの裏切りに遭い…。

訳が新しくなった(谷川道子の新訳)。

ポリー役のソニンは、始め、話し声が高過ぎると感じたが、歌は精彩があり、魅力的。演技もうまい。
主人公メッキース役の池内博之は、よくいる悪役という感じで、とても主役とは思えない。セリフ回しがわざとらしい。説得力に欠ける。
ピーチャム役の山路和弘は、ナマで見たのは初めてだが、非常に達者。観客を楽しませる才にたけている。

この芝居を初めて見た時のキャストがよかったので、つい比較してしまう。
あれは吉田栄作、篠原ともえらの共演だった。あの時の印象は強烈だった。
今回で3回目だが、それでも毎回それぞれ新鮮で面白い。
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