ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

カレル・チャペック作「母」

2021-05-27 12:52:06 | 芝居
5月17日吉祥寺シアターで、カレル・チャペック作「母」を見た(オフィスコットーネプロデュース、演出:稲葉賀恵)。
1938年初演の作品。(ネタバレあります)

母には5人の息子がいた。長男のオンドラは戦地におもむき医学研究に身を捧げて死んだ。
次男イジ―、双子の三男コルネルと四男ペトルは軍人として戦うことを望むが、末息子のトニは夢見がちで、他の兄弟とは違っていた。
国では日々、内戦が激しくなり、ラジオからは国民に戦争への参加を呼びかけるアナウンスがつづく。
ある日、母のもとに戦死した夫とオンドラが幽霊になって現れ、「僕たちは大儀のための死を悔いてはいない」と語る。
隣国の敵も間近に迫る中、トニだけは戦争にとられまいと母は必死に守ろうとするが・・・。(チラシより)

あらすじから推測して暗く重たい話かと身構えていたらびっくり。
死んだ夫(大谷亮介)の部屋が舞台で、夫の肖像画が飾られているが、当人が、その絵の中からいきなり出て来る。
だが、こういうことは初めてではないらしく、母(増子倭文江)は驚きもせず慣れた様子で普通に会話するのがとにかくおかしい。
なぜか彼女にだけは死んだ家族が見えるのだ。
彼らはこの部屋にだけ現れ、彼女が一人の時を狙って現れ、誰か他の人が来るのを察知するとあわてて消える。
死者は死者同士会話もするし、生きていた時と同じようにそれぞれが個性的だ。
夫は17年間「死んでいる」。つまり現在17歳の五男が母のお腹にいる時に死んだわけだ。
戦争が続き、一人また一人と息子たちが死者の側に行ってしまう。
だが死ねば、先に死んだ父や兄とまた会えるし、話もできるのだ。
こうして、この家では次第に死者の数が増えていき、かえって死者たちが出てきた時の方が、舞台がにぎやかになる。
言わばファンタジーだ。
しまいには亡父まで出て来る(この人は戦争で死んだわけではない)。
死者が登場する芝居はいろいろあるが(「ハムレット」とか井上ひさしの「頭痛肩こり樋口一葉」「父と暮らせば」等々)これほど明るくにぎやかで
ドライな描き方は珍しい。
無事に帰宅したと思った息子が死者たちとあいさつするのを母が不審がると、息子が「うん、実はね、母さん怒らないでね・・」とためらいつつ、実は僕、死んだんだ、と
告げるシーンもおかしい。悲しくシリアスな状況のはずなのに、彼らは、自分が死んだことを知って母が怒ることを恐れているのだから(ただし、怒る前に母は気絶する)。
彼らは母がいなくなると、それぞれ死んだ時の状況を語り、どんなにいやだったか、もうあんな思いはしたくない、と回想する。
戦争の英雄として伝説となった父親でさえ、実は、語られてきたのとは違って、惨めな最期だった。
男たちはすでに死んでいるというのに、戦いの話になると、まるで子供のように熱中する。
そこに作者の辛辣な目を感じる。
たとえばワイルダーの「わが町」では、死者たちは時間がたつにつれ、少しずつ現世での興味関心から離れてゆくが。

前半はとにかく仕掛けがユニークで笑えるシーンも多いが、後半が単調でくどくて残念。
ラストが弱いのも惜しい。
戦争で息子を四人も失った母は、五男だけは戦争にやるまいと必死になる。
彼女の気持ちはもちろん当然だが、そのシーンが長過ぎる。
彼女のセリフはどれもしっかり書かれているが。
言いにくいが、現代では少々陳腐だ。
曰く「この子までいなくなったら私はどうなるの!?」「私にはこの子たちだけしかなかった」等々。

一度だけ「(五男を行かせたくないのは)私のためよ。私のわがままかも知れない」というセリフがあって、助かった。
このセリフをずっと待っていたような気がする。
五男が、戦争に参加すると級友たちと約束したにもかかわらず、母の頼みで自分一人家に残ったとしたら、その後、彼はどうなるだろうか。
戦争の結果がどうなるにしても、一生、みんなから後ろ指を指され、孤独のうちに、後悔にさいなまれて生きることになるかも知れない。
それくらいなら、いっそ戦争に行った方がいいのかも・・。
死なずに済む可能性もないわけではないのだから。
だが母は、参戦を勧めるラジオの女性アナウンサーもまた、戦争で息子を亡くしたことを知る。
さらに、敵が町で女性や子供たちを殺したと知って、母はついに、自分から五男に銃を差し出して「行きなさい」と言うのだった。

チラシによると「本作はヒトラー及び戦争を痛切に批判しているカレルの代表作」とのことだが、途中はともかく、ラストは果たして戦争批判なのだろうか。
彼女の行為は正義感から来るものであり、結局彼女の中で「公」が「私」を乗り越えた、「社会」に初めて目を向けた、という風に描かれているとも思える。
あるいは「復讐の連鎖」「暴力の連鎖」としての戦争を、人間の愚かさとして描いていると言えるのかも知れない。

カレル・チャペックと言えば「ロボット」という新語を作った人として有名だが、評者にとっては「園芸家12ヶ月」という楽しいエッセイの作者だ。
戯曲では「マクロプロス事件」という作品があり、2003年に演劇集団円の上演を見たことがある。
こちらは特異な題材の上に謎解きの興味で、観客を最後まで飽きさせず、グイグイと引っ張ってゆく傑作だ。
彼はわずか48年の生涯で、小説、戯曲、旅行記、エッセイ、童話など多くの作品を残した多才な人だったらしい。



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オペラ「夜鳴きうぐいす」、「イオランタ」

2021-05-04 11:05:49 | オペラ
4月6日新国立劇場オペラハウスで、ストラビンスキー作曲のオペラ「夜鳴きうぐいす」と、チャイコフスキー作曲のオペラ「イオランタ」を見た。
①「夜鳴きうぐいす」・・原作:アンデルセン、台本:ストラヴィンスキー/ミトゥーソフ、作曲:ストラヴィンスキー、演出・美術・衣装:ヤニス・コッコス、
指揮:高関健、オケ:東京フィル    

中国の皇帝は宮中に呼び寄せたうぐいすの声に魅了される。異国の使者が機械仕掛けのうぐいすを献上すると、皇帝はそちらに夢中になり、本物のうぐいすは
宮廷を去る。その後、病が悪化した皇帝のもとにうぐいすが舞い戻り美しい声で歌うと、皇帝は死の淵から脱する。感謝する皇帝に、うぐいすは毎晩
歌いに来ることを約束する(チラシより)。

神秘的な美しい音楽と共に幕が開くと、深いもやの中に森が見えてくる。中国が舞台ゆえ、宮廷シーンの背景はそれらしい。
皇帝の臣下や大勢の召使いが登場。日本からの使者が機械仕掛けのうぐいすを献上する。
皇帝の病が悪化する場面では、背景の大きな猿が両腕を広げて威嚇する。
死神が皇帝の冠を奪おうとするかのよう。
ラストは臣下たちが皇帝の死を覚悟して部屋に入ってくると、彼が何事もなかったかのように「お早う」と言い、皆が頭を下げるというあっさりした終わり方。
うちにあるオペラ辞典に載っていたあらすじとは若干違うが、いくつかヴァージョンがあるのかも。

歌手では何と言っても、うぐいす役の三宅理恵が素晴らしい。

今回、新型コロナウイルス蔓延と緊急事態宣言延長のため、来日できなくなった人(歌手も指揮者も)が多く、指揮は何と高関健氏。
この人を見るたびに思い出すことがある。
個人的な話だが、ずっと昔、彼と二人きりで駅ナカの蕎麦屋に入ったことがあった。
弦楽合奏団の春合宿の帰りで、彼はトレーナーとして来てくれていた。
入り口の機械で券を買うのだが、たまたま小銭を持ち合わせていなかったので、彼に立て替えてもらった。
そしてそれ以来、彼には会っていない。
つまり、お蕎麦の代金を返していないのだ!
もちろん彼の方は、そんなこととっくに忘れていると思うが、こちらはチラシなどで彼の名前を見るたびに思い出して申し訳なく思うのだった。
いつか花束でもお贈りしようかとも思うが・・・。
当時、彼はただの音大生で、その後カラヤンに見出されて活躍するようになるとまでは予想できなかった。

②「イオランタ」・・原作:ヘルツ/ゾートフ、台本:モデスト・チャイコフスキー、作曲:ピョートル・チャイコフスキー、指揮:高関健、オケ:東京フィル

中世のとある山中の城。ルネ王は娘イオランタの目が不自由であることを本人に知られないように育ててきた。城に迷い込んだ青年ヴォデモンは美しく成長した
イオランタに出会い、一目ぼれするが、彼女の目が不自由なことに気づいて衝撃を受けつつも、彼女に光の素晴らしさについて話す。イオランタもヴォデモンに
惹かれてゆく。事態を悟った父王は、娘の目が治癒すれば娘に真実を明かした罪を許すと宣言。イオランタは治癒に耐える決心をし、医者と共に別宮に赴く・・。

目の不自由な少女が愛と希望に開眼する物語を叙情的な音楽で綴ったチャイコフスキー最後のオペラ(チラシより)。

かなりマイナーなオペラで、初めて見たが、音楽はもちろん美しい。
ヴォデモンに向かって、イオランタが小鳥の鳴き声や風の音など自然の音の素晴らしさとそれを聞く喜びについて語るアリアが白眉。
ロベルト伯爵のアリアも楽しい。
ストーリーにもちょっと面白いところがある。
父王が娘の目の治療を成功させようとして、わざと、彼女が好意を抱いているらしいロベルトの命を奪うようなふりをしたり。

ただ、ラストがつまらない。
愛する二人が手を取り合って喜び合う姿を当然期待していたが。
全員で客席を向いて神の愛をひたすら讃える合唱で終わる。
まるで時代錯誤な感じ。モーツアルトかベートーヴェン(エレオノーレとか)のよう。
いやエレオノーレだって夫婦の愛を高らかに歌い上げているというのに。

それと、現代では盲目などの障害を「悪」と決めてかかる扱い方は受け入れ難い。
「アルプスの少女ハイジ」におけるクララの問題で一時話題になったことだが。

ルネ王はなぜ娘に、自分が王であることまでも隠していたのだろうか。
ヴォデモンの友人でイオランタ姫のいいなづけロベルトが面白い。いいアリアも与えられている。
歌手ではこのロベルト役の井上大聞が素晴らしい。

ヴォデモンはイオランタが盲目であることに気がつくと、ショックのあまり顔をそむけて長いこと相手を見ない。
だが彼は「一目ぼれ」したのだ。そして二人は偶然出会ったのだから、ここで別れたら今度いつ会えるか分からないわけだ。
そんな状況で、美しさに打たれて惚れた娘の顔からいつまでも目をそむけていることができるだろうか。
いやでも目が吸い寄せられるのでは?
彼のショックの大きさを表現させようと演出家は考えたのだろうが、納得がいかない。

この作品はあまり上演されないらしい。
その理由は、やはりラストが弱いからだと思う。
途中までは面白いのに残念だ。ロマンチックが足りない。これは大きな欠点だ。
ラストで私たちの高揚した気分がサーッと醒めてしまう。

両作品共ロシア語上演。日本語字幕と英語字幕付き。
この二つが微妙に違っていて気になる。明らかな文法的ミスも。
ロシア語から別々に訳したらしい。たぶん急いで。

時節柄、カーテンコールで歌手たちも指揮者も手をつなぐことができない!
ちょっと残念。親密なムードを出せなくて。

今回、演出家も来日不可能となったため、日本側スタッフとリモートで協働し上演した由。
しばらくはこういうやり方が続くのかも知れない。

 
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