ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「対話」

2023-02-28 16:25:02 | 芝居
2月21日俳優座スタジオで、デヴィッド・ウィリアムソン作「対話」を見た(俳優座公演、演出:森一)。



調停人ジャック・マニングが今回取り組むのは、既に結審した事件の、加害者家族らと被害者の両親との修復――「心を癒すのではなく
摩擦を減らす」試みだ。服役者スコットの母親と弟妹、伯父、かつてのセラピストと被害者家族――の7名が出席。

オーストラリアを舞台に、日本ではまだ馴染みのない「修復的司法」を紹介しつつ、人間関係の修築と、その先の希望を描いて
好評を博した『面と向かって』(2021年)に続く「ジャック・マニング」シリーズ第2弾!
加害者・被害者の狭間で、マニングは如何に耳を傾けるのか(チラシより)。

過去にも何度かレイプ事件を起こしたスコットは、数か月前、20歳のドナをレイプ、しかも全身に暴行を加えて殺した。
舞台上手には、被害者ドナの父デレク(斉藤淳)と母バーバラ(安藤みどり)夫妻。
下手に加害者スコットの母コーラル(山本順子)、伯父ボブ(河内浩)、姉ゲイル(天明屋渚)、弟ミック(辻井亮人)が座る。
中央に調停人ジャック・マニング(八柳豪)とスコットのセラピストだったローリン(佐藤あかり)。
この8人が、これから話し合いをすることになるわけだが、両者の歩み寄りは非常に困難なことは目に見えている。
だからみんな、いやいや、あるいは仕方なく集まって来ていた。
この会を開いて欲しいと頼んだのは、スコットの母親だった。
彼女は、加害者の家族である自分たちもどんなに心を痛め、苦しんでいるかを伝えたかった。
デレクは「この会にどんな意味があるんだ!?」とジャックに食ってかかる。
彼は当然ながら、加害者の一家に憎しみと恨みをぶつけてやろうと思って来ていた。

スコットの一家は貧しく、母はシングルマザーで3人の子を育て、夜も仕事で忙しかった。
彼女は長男スコットを溺愛した。彼は人を笑わせるのが得意で、人の真似もうまい。
だが生まれた時から乱暴で、欲しいものは腕づくで自分のものにした。
忙しい母は、中小企業の経営をしている自分の兄に、スコットの父親代わりになってくれと頼んでいたが・・。
姉ゲイルは一家で一人だけ大学卒。
弟の起こした事件の背景には、社会問題も一つの要因として存在する、と主張する。
オーストラリアにも格差があるらしく、彼らは貧困層の住む地域に住んでいる。
一方、被害者一家の家は富裕層の多い地域にある。
弟は学歴もなく、将来の見通しもなく、欲しいものは力で奪い取るしかなかった、と彼女は言う。

バーバラは、娘ドナの思い出を語る。
ドナは小さい頃から人気者で、大勢の友人に囲まれていた。
自分と娘の関係も最高によかったと言い出すが・・・。

スコットの弟ミックは、小さい時から兄スコットにいじめられていた。
彼から見れば、兄は生まれながらのワルだ。
事件当時、彼ら兄弟は同じスーパーで働いていた。
その店に客として来ているドナに、兄が目をつけているのに気づいていた。
兄にやめろ、と言ったが、兄は「おれの言うことなんか聞かない」。
ドナに忠告しようとしたが、ドナは「おれの服としゃべり方を見て」軽蔑の目を向けて去った・・・。

セラピストとしてレイプ犯スコットと何度も面談していたローリンも話し出す。
何十回も面談して報酬をもらっていたくせに事件を防ぐことができなかった、とデレクに責められた彼女は、これまですべてのケースでうまくいってきました、
この件だけなんです、うまくいかなかったのは、と主張するが・・・。

ここにいる全員が、深く傷ついていた。
バーバラは教師の仕事を辞めた。
ローリンも、現在、治療のための休暇を取っているが、もうセラピストの仕事を続ける気はないと言う。

ここに集まった一人一人が、語るべきことを持っていた。
この忌まわしい事件は、各人の、小さな、本当にちょっとした言葉や行動で、未然に防ぐことができたかも知れない。
そのことが、次第にわかってくる。
その、雲が晴れてゆくような芝居の進展が面白く、集中力が途切れることがない。
非常によくできた戯曲だ。

役者たちは、みな驚くほどうまい。しかも熱演。
バーバラ役の安藤みどりがうまいことは知っていたが、他にもデレク役の斎藤淳、セラピスト役の佐藤あかり、など皆さん好演。
キャスティングもいい。
伯父役の河内浩と末の弟役の辻井亮人も、的確で味のある演技を見せる。
俳優座は本当にレベルが高くて素晴らしい。
ただ、今回みんな、ちょっと泣き過ぎではないだろうか。

この劇作家の『面と向かって』を2021年に見た(森一演出、俳優座劇場)。
あれも面白かったが、女性の描き方がステレオタイプで古臭く、いささか辟易した。
幸いこの作品は、そんなことはなかった。
設定があまりに暗く重苦しいので、一体これが本当にどうにかなるのか、と疑問に思ったが、後味もいいし、驚くべき名人芸のような書きぶりだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「騒音。見ているのに見えない。見えなくても見ている!」

2023-02-22 11:23:40 | 芝居
2月18日、KAAT 神奈川芸術劇場 大スタジオで、エルフリーデ・イエリネク作「騒音。見ているのに見えない。見えなくても見ている!」を見た(地点公演、
演出:三浦基、音楽監督:三輪眞弘)。




2004年にノーベル文学賞を受賞したオーストリア人作家の最新戯曲。日本初演。

舞台装置:円形の舞台を透明なビニールがすっぽり覆っていて、それが時々少しずつ上昇する。完全に上がってしばらくすると、また少しずつ下降。
     所々にスリットがあり、役者たちはそこから出入りする。
音楽:ガムラン。1時間35分の公演中、途中に一度、間を置いて、同じものが絶え間なく演奏される。単調だが、その代わり、まったく
   芝居の邪魔にならないことは確か。
仕草:ウィルス、マスク、ワクチンを表わすという3種の仕草が、プログラムであらかじめ説明される。
   「ウィルス!」と一人が言うと、役者たちは片手をひらひらさせて歩く。
   「マスク!」と言うと、みんな左手で口を覆い、右手を斜め前方に挙げて「カミカミカミサマ、カミカミカミサマ・・・」と唱えつつ歩く。
   「ワクチン!」と言うと、みんな片手を差し出し「コロナコロナキタ、コロナコロナキタ・・・」と唱えつつ歩く。
   時々「ディスタ~ンス!」とも言われる(笑)。
   また時々「ルイ!」と言うと、両手で口を押さえる。これは意味がわからない。誰か教えて。
 
マスコミや科学者(専門家)の言葉が引用され、巷に噂やデマが蔓延する。
「このウイルスは、本当は全然たいしたことありません。インフルエンザの方がよっぽど恐いんです」
「でも死者の数が多いでしょう?よく計算し直して下さい」
「アメリカが中国を陥れようとしたのか」
「中国がアメリカを陥れようとしたのか」

その他、膨大なセリフの中から印象的なものを挙げると、
「オデュッセウスは故郷に帰りたかった」
「帰っても14日間は外に出られないんですよ」(笑)
「あなたのワクチン接種・・」
「在宅勤務です」

「あのアジア人たちは、いつもマスクをしている」
「音楽の勉強のために留学している」
これにはドキッとした。明らかにウィーンに留学している日本人音大生のことだろう。
郷に入っては郷に従ってほしい。
でないと現地の人々に気味の悪い思いをさせてしまう。

役者たちは滑舌もよく、よく訓練されていて、統率のとれた動きを見せる。
特に膨大なセリフを受け持つ安部聡子の記憶力には感心した。

客席はほぼ満席。
日本人って真面目だな~と改めて思った。
だってこんな、人気俳優も出ないし中身もよくわからない芝居をわざわざ見に来るなんて。
ノーベル文学賞受賞作家の作品というので何か得るものがあるだろうと期待して来たのだろうが(評者もその一人)、
見終わった後も、特に何を感じるでもなかった。

「私たちが生きていることの意味を、誰も教えてくれないのです」というセリフは、もちろん心に響いたけれど、だから何?という感じ。
そんなことは、これまで多くの人が既に書いて来ているではないか。
何を今さらです。

言葉を区切って発音したり、イントネーションをわざと普通とは違う風に変えたりするのは、確かに面白い。異化効果ってやつだ。
(ただし、チェーホフなどは、できれば御免被りたい)

「地点」の公演は、2016年12月に吉祥寺シアターで、チェーホフの「かもめ」と「桜の園」を見たことがある。
「かもめ」は最悪だったが、「桜の園」は意外と面白かった。
その時得た教訓がこれだ。
早々に見切りをつけてはいけない。こりゃダメだ、と見放すのは、もう一つくらい見てからにすべし。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画「イニシェリン島の精霊」

2023-02-16 20:12:43 | 映画
2月8日吉祥寺オデオンで、マーティン・マクドナー監督の映画「イニシェリン島の精霊」を見た(脚本:マーティン・マクドナー)。



ネタバレあります注意!

舞台は1923年のアイルランドの孤島。
パードリック(コリン・ファレル)は親友コルム(ブレンダン・グリーソン)を誘って、いつものようにパブに行こうとするが、
突然断られる。彼にはわけがわからない。すっかり取り乱す彼。まるで恋人に振られた男のようだ。
コルムはフィドラー(バイオリン弾き)で作曲もしている。やりたいことがあるのに、先のことを考えると時間が足りない。
だからパードリックのおしゃべりにつき合っているのが嫌になったと言う。
パードリックは困る。困ってしきりに嫌がるコルムにつきまとい、ますます嫌われてゆく。
放っておいて欲しいというのがコルムの唯一の願いなのに、それができない。
そのために、次々と予想もしないことが起こってしまう。
コルムは彼に対して奇妙なことを宣言し、それを実行に移してゆく。
それは、もはや狂っているとしか思えないことだ。

当時、島での暮らしは貧しく、単調だった。
男たちは午前中、牛の世話などをすると、もうやることがない。
午後はパブでビールを飲みながら、仲間と世間話に興じて時間をつぶす。
その話し相手に嫌われたら、もうお手上げだ。
今ならテレビやスマホがあるから、どんな人でも時間をつぶすのは簡単だけど。

パードリックは妹(ケリー・コンドン)と二人で住んでいて、ジェニーと名づけたロバを可愛がっている。
妹は読書好きで、本さえあれば退屈しない。
このように兄妹は全然タイプが違うが、非常に仲が良く、深く愛し合っている。
貧しいせいか寝室まで同じなのは、ちょっとどうかと思うが。

この島には「マクベス」に出てくる魔女を彷彿とさせるような不気味な老婆がいて、予言したりする。
郵便局の女性は、村人に届いた封筒を勝手に開けて中の手紙を読むし、警官は何かというとすぐ人を殴る。
ここは無法地帯か。この島には法律も届かないのか。

コルムが一人住む家はマッチ箱のように小さいが、中には住人の趣味を表わすように、さまざまな物が飾ってある。
天井からは、何と能面までぶら下がっている。

二人のいさかいはあっと言う間に島中に知れ渡るが、個人主義が徹底しているようで、誰も仲介して仲直りさせてやろうとはしない。
唯一、司祭がとりなそうとするが、まるでうまくいかない。
誰かに「12歳か?!」と言われる通り、二人の行動は、とても大人のやることとは思えない。
パードリックは嫉妬とやきもちの塊で、どんどん過激で危険な行動に出る。
コルムは知的な男なのだから、もっと穏便な言い方で、友人の気持ちを傷つけることなく、彼から距離を置くことができたはずだ。
しかも、彼が友人を避けるために取った方法は、自分のフィドラーとしての生命が断たれるようなことだった・・・。
二人共、常軌を逸しているとしか思えない。
この話はひょっとして寓話なのだろうか。
そう思うしかないかも。いや、きっとそうだ。そうに決まってる。

この島には子供の姿が見えない。
学校はあるのだろうか。島の人々の教育はどうなっているのか。
寓話だから深く考える必要はないのかも知れないが。

一方、アイルランドの孤島の風景は、素晴らしい。
さらに音楽がいい。背景に流れる曲も、コルムたちが演奏するケルト音楽も。
そして、件のロバを始め、牛・羊・犬ら、動物たちが可愛い。
笑えるシーンもある。
特に司祭とコルムのシーンでは、映画館内に笑い声が響き渡った。

妹は島の未来に見切りをつけ、最愛の兄と別れ、本土で自分に合った職を見つける。
船で島を離れる彼女の顔は、希望に満ちて輝く。
彼女の存在が爽やかな風をもたらし、明るい印象を残すのが救いだ。

字幕がいい。
reading (読書)という語が2回言われるが、2つ目を「本かあ・・」と訳していたのが、特に忘れられない。

久し振りに映画館で映画を見た。
「本年度アカデミー賞最有力!」「主要8部門ノミネート」という文句にひかれたこともあるが、作者(脚本&監督)に興味があるからだ。
マーティン・マクドナーの戯曲はたくさん見てきた。
「ビューティー・クイーン・オブ・リーナン」、「スポケーンの左手」、「イニシュマン島のビリー」、「ハングマン」、「ピローマン」。
いずれも一筋縄ではいかないものばかりだが、奇妙な味わいがあって、いつまでも心に残る。
この映画も、やはり余韻が半端ない。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「わが町」

2023-02-07 22:12:17 | 芝居
2月2日東京芸術劇場 シアターイーストで、ソーントン・ワイルダー作「わが町」を見た(東京演劇道場公演、構成・演出・翻訳:柴幸男)。



<1幕>
大勢の白服の男女が、登場人物たちの人形を操ってストーリーを進めるが、何人もの人が説明しながらなので、いつまでたっても物語の中に入り込めない。
しかも、同じ人形をいろんな人が交代で操るので、非常に違和感がある。
これは、意図的に感情移入させないようにしているのだろう。

舞台は1901年の米国の、とある田舎町。
当時、こののどかな町では玄関に鍵をかける人などいなかった。まだ車も走っていない。
町のあちこちに教会がたくさんある。メソジスト派、長老派、カトリック・・・。それぞれ少し離れたところに位置している。
医者ギブスとその妻ジュリアには息子ジョージがいる。
ジョージは、同級生で勉強好きなエミリーに宿題を教えてもらっている。
彼は野球が大好きで、伯父さんに可愛がられており、伯父さんは自分の農場を彼に継がせようと言ってくれている。
ジョージもその気でいる。
<2幕>
「3年後」と字幕が出る。つまり1904年。ところが白い幕が張られ、そこには「2023年東京」と出る。何?
画面にエミリーとジョージの人形登場。2人が結婚に至る経緯がほのぼのと描かれる。
そして結婚式の朝。いろいろあるが、皆に祝福されて無事に結婚式を挙げる。

~ここで休憩~
<3幕>
9年後、つまり1913年。
町を見下ろす墓地に新しい墓が掘られている。それはエミリーの墓だった。
彼女は2人目のお産で命を落とした。
彼女の義母ジュリアは3年前に死去したという。
墓地で死者たちが語り合っていると、町の人々がやって来る。
新しく死者の仲間となったエミリーも来て、死者たちに懐かしそうに声をかける。
義母にも話しかけるが、義母は、もう生きていた時のことをだいぶ忘れている。
死者は死んでしばらくすると、生きていた頃のことを次第に忘れていくらしい。

最後にエミリーが、もう一度、人生の中の一日だけを、あっち(現世)に行って見てみたい、と言う。
望めばそれが可能らしい。
彼女は自分の12歳の誕生日の日を選び、その日の自分の家の中を覗き見る。
朝、母がキッチンで朝食の用意をしながら子供たちを呼ぶ。
父は講演に行った先から帰って来る。娘へのプレゼントを持って。
だがエミリーは、途中で、もう見ていられない。
「やっぱりお墓に帰ります」
「生きてる人たちって、狭い箱の中にいるよう。せかせかして・・」

「永遠なるもの」という言葉が繰り返し口にされる。
原作より多いかも知れない。
死者の心の中から、現世の出来事や思いが少しずつ消えていき、代わりにそこに永遠なるものが入って来る・・。
こういう台本を書いた人の気持ちには深い共感を覚えるが。

役者たちは滑舌がよくて演技もうまい人が多い。
しかも若い人が多い。
そこに希望がある。
「東京を舞台に」とあるので翻案かと身構えたが、そうではなくてホッとした。
東京タワーとスカイツリーが出てきて、2幕で使われる映像が現代の東京の風景だっただけ。

2幕の結婚式のシーンで、新郎新婦役の人が次々と変わるのが、非常にわかりにくい。
話に集中するのがメチャメチャ難しい。
3幕の墓地のシーンでもエミリー役が次々と代わり、数えたら全部で10人!目まぐるしいったらない。
観客を混乱させたいのか。
それほどまでに感情移入させたくないのか。
結局、この芝居の印象は「混乱と困惑」。
今回の演出には、とても賛同できない。

この作品は、2011年1月に、新国立劇場中劇場で見たことがある。
宮田慶子の演出で、小堺一機が舞台監督(語り手)の役だった。
あの時も感情移入は難しかったし、役者たちがあまりよくなかったが、演出はとてもよかった。
今回とは逆(笑)。
これまで、宮田慶子の演出で嫌な思いをしたことは一度もない。
彼女は評者が最も信頼する演出家です。
原作の戯曲も、大学時代に少し読んだ記憶がある。
風変わりだが、心に沁みる優れた作品だと思う。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「黒い湖のほとりで」

2023-02-03 22:11:02 | 芝居
1月30日池袋シアターグリーンで、デーア・ローアー作「黒い湖のほとりで」を見た(演出:西本由香)。



4年ぶりに再会した2組の夫婦。
自ら死を選んだ子供たちが残した言葉は
永遠に解き明かされることのない問いとして
4人の前に投げ出されている。
堂々巡りする「なぜ」。
もう決して解り得ないものを
それでも解ろうとする極限状態の中で
繰り返される後悔と疑惑、
欺瞞、自責他責の言葉。
やがてその言葉の群れは四重奏となり
湖に広がっていく(チラシより)。

ネタバレあります。

舞台中央の天井から真っ白い布製の小舟が吊ってある。
ニーナとフリッツが心中した日から4年後、彼らの両親が再会する。
4人は初めて出会った日のことを懐かしく思い出し、なぜか急に、その日の行動を再現し始める。
夕方、すぐ近くの湖に行って、ボートに乗り、子供のようにはしゃいで水に落ち・・。
だが見ているこちらは全然面白くない。
観客そっちのけではしゃぐ人たち・・。

クレオ(井上薫)とエディー(南保大樹)は小さなビール工場を経営している。
ジョニー(沢田冬樹)は銀行に勤めていて、3年ごと位に希望して、あちこちの支店に異動してきた。
クレオはジョニーに会いに行き、ビール工場への融資を増やしてほしいと頼んだ。
クレオはその時のことを思い出し、息子フリッツがそれを見ていたかも知れないと言う。

ジョニーの妻エルゼ(山崎美貴)は生まれつき心臓が弱く、心臓に負担にならないような楽なパートの仕事をしている。
夫が転勤ばかりするので、その都度一緒に引っ越しし、その地でさまざまな職についてきた。
ジョニーは彼女と結婚する時、彼女を守ると決心し、ずっと彼女の体調を気にかけてきたと言うが。

クレオたちの家に彼らの息子フリッツの写真が貼ってあるのに自分の娘ニーナの写真がないことに気づいたエルゼが、どうして?と問う。
エディーたちは答えをためらう。
ニーナはフリッツの家に来ると、半分裸のような格好で家の中を駆け回っていたという。
クレオは一度だけ、ニーナに「もう帰ってちょうだい。しばらくフリッツを一人にしておいてほしい」と言ったことがある。

エルゼは「私たちはフリッツが大好きだった」と言う。
フリッツが家に来ると、ニーナの部屋で二人で音楽を聴き、笑い合い、それから静かになった。
そういうことが繰り返された。
その間、両親は二人の静かな時間を尊重して邪魔しないようにしていた。

エディーは20歳の頃、16歳の少女への暴行容疑をかけられたが、本人曰く、冤罪だった。
その後アイルランドに1年間行き、ビールの製造法などを見た。その後、クレオに出会った。

クレオが語る。
子供たちは居間のガラスのテーブルを壊した。
破片が散らばり、その下に90ユーロ置いてあった。
50€札が1枚、20€札が1枚、そして10€札が2枚。
手紙もあった。
「テーブルを壊してごめんなさい。このお金で新しいテーブルを買ってください。私たちは出かけます。ここは美しくない。ニーナとフリッツ」
二人は湖にボートを漕ぎ出し、手首を革の紐でゆるく結び、睡眠薬を飲み、ボートの底に小さな穴を開けた。
少しずつ水が入り、いっぱいになる頃には二人は眠りこけていた・・・。

エディーは物に執着しない。息子の死後そうなったのか、以前からそうなのかは不明。
とにかく何でも欲しい人にあげてしまう。家具も服も。
だから家の中はがらんどう。
工場の経営はすべて妻任せ。

クレオは家を出てリヒャルトという男と暮らそうかと思った時期があった、と爆弾発言。
その時、彼女はリヒャルトの子を身ごもっていた。
もし本当に家を出て彼と暮らしていたら、そしてその家にフリッツの部屋もあって、フリッツの弟か妹が生まれていたら・・
そうしたらこんなことにはならなかったかも・・
彼女は一人、妄想し続ける。
・・・だけど私はそうはしなかった。
そうする勇気がなかったの。
お腹の子は始末した。そして私は今もここにいる。

エディーはクレオに近づいて平手打ちする。
エルゼは突如、小さなピンか何かで手首を切る。
血が流れて真っ白な床にポタポタ落ちる。
夫があわてて傷口に口を当てて血を止めようとすると、夫の口の回りも血だらけになる。
上空に吊ってあった白いボートが下に降りている。
エルゼはボートの上に倒れ、動かなくなる・・・幕!?

作者は「タトゥー」を書いた人だった。パンフレットを見てそれを知った時、しまった、と思ったがもう遅い。
「タトゥー」は2009年5月に初台で見たことがある。
 
作者はドイツ国内で多くの賞を受賞しているようだが、最近評者は賞というものをあまり信用しなくなった。
ピューリツァー賞とかも、時々納得がいかないことがあるし、ついでに言うと、賞ではないが世界遺産というのも場所によっては実に怪しい。
プログラムには文化庁長官の「最後まで楽しんで御覧いただき」という言葉が載っているが、こんな芝居、どこをどう楽しめと言うのか?

人間の中の闇、人間の持つ非合理性を表現したいのだろうか。
でもそんなことは、特に芝居にしてくれなくても、ある程度生きていれば誰だってぶつかることではないだろうか。
ネガティブ・ケイパビリティということが最近注目されているように、私たちは答えの出ない状況の只中で、それでもそれに耐えて生きて行かねばならない。
それが言いたいのか?ならば、特に言わなくてけっこうです。

芝居を見る楽しみというのは、笑ったり泣いたり胸に迫ってくるものにジーンとしたり、何かそれまで気づかなかったことに気づかされたり、
新しいこと、面白いことを発見したり、そういう日常生活では味わえない経験をすることだ。
たとえそういう経験ができなくても、たいていの場合、最低限、始めはわからなかったことが少しずつ霧が晴れるように見えてくる、という喜びが
味わえるはずだが、この作品の場合、それもない。
むしろどんどん霧が深くなってゆく(笑)。
そもそもこの(不条理な)世の中に生きていくというだけでも大変なのに、なんでまた劇場に行ってまで
わけのわからない思いをしなければならないのか。

「タトゥー」と違っておぞましくはなかったのが救いと言えば救いか。
うんと好意的に見れば、これは詩なのかも知れない。
ドイツ語で演じられるのを聞けば、美しいのかも知れない。
何しろセリフに繰り返しが多い(だから退屈でもある)。
全体で1時間35分という短さだが、繰り返しを除けば1時間で終わったかも。
始めは作者の才能のなさを感じたが、詩だと思えばわかる気もする。
「太郎を眠らせ太郎の家に雪降り積む・・・」とか、草野心平の蛙の詩とか、詩には繰り返しを味わう作品もある。
2009年の「タトゥー」について書いた評者自身のブログを読み返してみたら、すでに「独特の詩的センスと劇的言語が特徴らしいので、
翻訳では面白さがよく伝わらないのかも知れない」と書いていた。

思い切って言うと、ドイツ人には演劇は向いてないのではなかろうか。
ドイツは詩と音楽の国。
かの地に演劇の伝統はなかった。
そう思えばこの戯曲も、セリフを語る時、繰り返し、韻律を味わうように語られていた。
チラシにも「四重奏」とあるように、これはカルテット、つまり音楽のつもりで書かれたのだろう。
だが芝居というのは、言葉だけではない。
ストーリーだって重要なんです。
でないと観客は置いてきぼりにされてしまいます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする