ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

太宰治作「新ハムレット」五戸真理枝版

2023-06-28 21:42:40 | 芝居
6月22日パルコ劇場で、太宰治作「新ハムレット」を見た(上演台本・演出:五戸真理枝)。






太宰治が初めて書き下ろした長編小説は、『ハムレット』のパロディだった・・・。
共感度100%の日本人的な”新しい”ハムレットがここに誕生!(チラシより)。

太宰治が昭和16年(1941年)に戯曲形式の小説として書いた作品の舞台化。

舞台右奥から左手前にかけて、灰白色の大きな石の床と何段かの階段。
始めに全員で、原作の「はしがき」を輪読。
あらかじめ読んで臨んだ者としては余計だったが、観客に知っておいてほしいという気持ちはわかる。

驚いたことに、ハムレットは薄いピンク色のジャージの上下。途中で黒い上着を上から羽織るが。
全体に、衣装がいけない。おふざけなのか、という感じ。
オフィーリアは中学校の制服のような丈の短いジャンパースカート。袖が異様に長く、先にフリルが一杯ついている。
王と王妃は妙な金の冠をかぶり、服は白と赤でちゃちな感じ。
これはシェイクスピアではありません、ということを視覚的にも伝えたいのだろうが、何だか安っぽい。

台本は原作に忠実で好感が持てる。

ガートルード役の松下由樹が好演。
ポローニアス役の池田成志は、まさにはまり役。
そもそもこの作品ではポローニアスが主役を食うくらい大活躍するから、このキャスティングで大正解。
ハムレット役の木村達成もいい。初めて見たが、熱演で好感が持てる。
クローディアス役の平田満は、途中までよかったのに、珍しく何度かセリフが出て来ず、ハラハラさせられた。
コント集団「ザ・ニュースペーパー」の言う「セリハラ」だ。

ガートルードとオフィーリアが二人だけで語り合うシーンで、王妃ガーティは裸足になって草の上(と見なした床)を歩く。
オフィーリアは妊娠中なのに、階段をピョンピョン飛び降りるのは変だ。
劇中劇に出演する3人(ハムレット・ホレイショー・ポローニアス)は、平安時代風の着物をまとう。
その時、オフィーリアは首から太鼓を下げ、亡霊(ハムレットが演じる)が語る間、ドロドロという風に、化け物的な効果音を出す。

音楽はちゃち。ラスト近くでポローニアスが殺された後、押しつけがましいドラマチックでセンチな曲が流れる。
途中、天井から赤くて丸いものがたくさん落下。
これは何?血でしょうかねえ。
蜷川幸雄演出で上空から落下したハンバーグのタネみたいなものを思い出した。
彼はこれを、戦闘シーンでよく使ったものだった。

いろいろいちゃもんをつけたが、総じて面白かった。
新聞の評は辛口で否定的だったが、評論家の評は意外と当てにならないものだと改めて思った。

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太宰治作「新ハムレット」

2023-06-21 10:41:34 | 
先日、太宰治の「新ハムレット」を読み直した。



近々これを元にした芝居を見る予定なので、その前にと。
昔読んだ時は、正直、呆れかえってうんざりしたものだが、今回は(年取ったお陰か)面白く感じた。
なお、現在某劇場で上演中の作品なので、ネタバレ注意です。
結末を知りたくない方は、読まないでくださいね。

この作品は、太宰治の最初の書き下ろし長編小説で、昭和16年7月に刊行された由。
作者によると、これは「作者の勝手な、創造の遊戯に過ぎない」「人物の名前と、だいたいの環境だけを、沙翁の『ハムレット』から拝借して、
一つの不幸な家庭を書いた」「狭い、心理の実験である」という。
さらに彼は、これは戯曲の形のようだが、あくまで小説である、と断りを入れている。
自分は戯曲の書き方を知らないからと。
以下、登場人物の名前の表記は現代風に直しています。

冒頭、新王クローディアスは「ですます調」でしゃべる!しかも家臣たちが居並ぶ前で、長々と。
まずここで、評者などはげんなりするが。

ハムレットばかりか、義父も母親もオフィーリアもホレイショーもポローニアスも、みな驚くほど冗舌。
しかもすぐ泣く。実にウェットで嫌らしい。

オフィーリアは妊娠している!
だからハムレットの最大の悩みはそのことだというのだから呆れるじゃあありませんか!
そして先王の亡霊の噂は、ホレイショーからもたらされる。
彼によると、デンマークの城内で起こったこの噂は国中に広がり、何とドイツのウィッテンベルクにまで伝わったという。
でも、それなのに城内にいるハムレットが一度も耳にしたことがない、というのは、あまりにも非現実的ではないか?

ポローニアスはクローディアスの犯行を目撃していた!
そのため彼は、ハムレットの代わりに悩み、正義という言葉を何度も口にする。
ハムレットとホレイショーに、そのことを打ち明けようとするが、邪魔が入ってうまくいかない。
さらに彼は、娘オフィーリアの妊娠を知って苦しみ、とうとうクローディアス王に向かって「あの日、わしは見た・・・」と口走ってしまい、殺される。
そう、ここではポローニアスを殺すのはクローディアスなのだ!
ロゼギル(ローゼンクランツとギルデンスターン)はいない。
ハムレットは復讐せず、王は死なないまま物語は終わる!
いや、そもそも王子は父王の亡霊から復讐せよと命じられていないし。

それでも、これはこれで一篇の作品として面白い。
シェイクスピアの原作を元に、これだけ遊んだっていいだろう。
もちろんツッコミどころはある。
たとえば、ホレイショーはオフィーリアの妊娠を知って「夢のようです」と驚くが、当時、宮廷内では男女の交際はかなりゆるく、大っぴらだったはずで、
ハムレットとオフィーリアもすでに深い仲になっていたというのが上演の際の一般的な演出だ。
当時の大学生と言えば、もう立派な大人だし。
だからホレイショーがそんなことを思ってもみなかったというのはおかしい。
またここではハムレットの年齢は23歳となっているが、30歳というのが定説。
それから、ハムレットは父王の急死の知らせを聞いて留学先のドイツのウィッテンベルクから帰国したわけだが、それから2ヶ月しかたっていないのに
オフィーリアの妊娠を知って悩むというのは、ちょっと無理っぽいのじゃなかろうか。
これもまた、斉藤美奈子の言う、いわゆる「妊娠小説」に、無理矢理仕立てようとしたためだ。
二人が深い仲になるというだけなら、2ヶ月もあれば十分可能なのだが。
面白いところもたくさんある。
たとえば、クローディアスが幼いハムレットから「山羊の叔父さん」と呼ばれていたとか、ハムレットを城の外のいかがわしいところに
連れて行った(!)とか。(だからハムレットは叔父を全然尊敬できないわけだ)
ポローニアスがフランスに遊学する息子レアティーズに与える、やたら細かい訓話で「カンニングはしてもいいから落第だけはするな」と
長々と言って聞かせるシーンとか(笑)
彼は娘に「お前はクイーンの冠を取りそこねた」と言うし。
ハムレットは恋人の妊娠のことでびくびくしており、義父クローディアスのことを「いったい山羊め、どこまで知っているものかな?」と心配するし。

昭和16年という時代だから仕方ないとは言え、ガートルードの女性としての魅力について過小評価されているのが残念だ。
たとえば「総入れ歯」だの「茶飲み友達」だの・・。
これはハムレットのセリフだから、特に息子から見た母親はこんなものなのかも知れない。
ガートルード自身も「みっともない事ですが、このデンマークの為とあって、クローディアスどのと、名目ばかりですが夫婦になった」と言う。
このセリフは戦時中の日本人としては自然なものだろう。
原作ではクローディアスと彼女はバリバリの現役なのだが。
それでもクローディアスがガートルードのことで何とポローニアスに嫉妬する(!)という意外な場面もあってびっくりさせられる。




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オペラ『メデア』

2023-06-10 10:50:51 | オペラ
5月28日、日生劇場で、ケルビーニ作曲のオペラ『メデア』を見た(原作:エウリピデス、ピエール・コルネイユ、台本:フランソワ=ブノワ・オフマン、
演出:栗山民也、指揮:園田隆一郎、オケ:新日フィル)。



愛と憎しみに苦しみぬいた先に待つものは・・・。
ギリシア悲劇に基づく、王女メデアの壮絶な復讐劇。
ケルビーニの劇的音楽が紡ぐ、メデアの激情と葛藤から、
不条理と矛盾に満ちた人間の本質が、鮮烈に浮かび上がる(チラシより)。

日生劇場開場60周年記念公演
全3幕。イタリア語上演、日本語字幕付き。
日本初演!
作曲者はベートーヴェンと同時代の人。
ベートーヴェンは、この曲の序曲を好んだという。

オペラではたまにあることだが、この作品も開幕前の前日譚が長くて複雑なので、まずはそれを押さえておきたい。
パンフレットに掲載の長屋晃一氏の解説が大変ありがたい。
以下は、ほぼ長屋氏の解説からの引用です。

<前日譚> (カッコ内はオペラでの呼び名)
イアソン(ジャゾーネ)は、テッサリア王国の王子だったが、叔父ペリアスが国を治めていた。
成長して叔父に王権の返還をもとめると、叔父は金羊毛と引き換えに返そうと条件を課す。
金羊毛とは文字通り黄金の羊の毛皮であり、コルキスという地で恐ろしい竜に守られていた。
つまりペリアスは無理難題をつきつけたのである。
イアソンは勇者を募り、船団を組んで出港した。
コルキスは今の黒海沿岸にあり、ギリシアを中心とするヘレニズム世界にとっては地の果てと言ってよい。
そのコルキスを治めていたのはアイエテスという王で、その娘がメーデイア(メデア)だった。
メーデイアは、はるか遠くから現れた美青年イアソンに一目惚れする。
さてアイエテス王もまた、イアソンに難題を吹っ掛け、金羊毛を渡すまいとする。
イアソンに助けを求められると、メーデイアはひとたまりもない。
父と祖国を裏切って、竜を眠らせる薬草をイアソンに渡す。
父王の怒りを買ったメーデイアは、イアソンと共に逃げる。その際、自分の弟を八つ裂きにして遺体をばらまき、追跡を遅らせたというから恐ろしい。
金羊毛とメーデイアを手に入れ帰国したイアソン。
だが叔父ペリアスは王権を返そうとしない。メーデイアはイアソンのため、魔術と計略を用いた。
ペリアスの娘たちに若返りの術を伝授する。古い血を流し、薬を塗りこめば若返るという。
娘たちは親孝行のつもりでぺリアスに剣を突き立て、血を流させる。
しかし、そのまま王はこと切れる。
娘たちに父親を殺させる、このことがテッサリアの民を恐怖に陥れた。
イアソンは国にいられなくなる。そこで逃れたのがコリントスだった。
・・・以上。
この何ともおぞましいストーリーの後に、このオペラは始まる。
以下のあらすじは、やはりパンフレットに掲載の岸純信氏の文章を要約したものです。

<第1幕>
コリントの王の娘グラウチェ(横前奈緒)はテッサリア出身の武将ジャゾーネ(城宏憲)を深く愛しているが、結婚への不安を抑えきれない。
侍女たちは王女を慰め、愛の神の加護を祈る。
王女の父クレオンテ(デニス・ビシュニャ)がジャゾーネを連れて現れ、皆で愛の神に祈りを捧げる。
そこに衛兵の長が現れ、怪しい女が忍び込んだと告げる。それはメデア(中村真紀)その人だった。
彼女は名乗りをあげ、一同は恐怖に駆られる。
クレオンテはメデアを退けようとし、グラウチェは天の加護を祈るが、メデアはジャゾーネに「永遠の愛に結ばれている私たち。
私は実の弟を犠牲にしてまであなたを守ってあげたでしょう?」と問いただし、アリア<あなたの子供たちの母親は>を歌い、
悔悟の念と孤独の心を元夫に訴える。
続けてメデアはジャゾーネの裏切りを非難し、婚儀を呪う。ジャゾーネは、コリントから去れと脅す。
<第2幕>
メデアは「子供たちと引き離されようとしている」と独白。侍女ネリスが「コリントの民がメデアの血を欲しがっている」と伝え、逃げるよう勧める。
クレオンテが来て、改めて「この国を去れ」と彼女に命じる。メデアは子供たちのためにお情けを!と懇願、その必死の頼みにクレオンテは一日の猶予を与える。
ジャゾーネが現れ、メデアは子供たちへの愛を口にし、「お前たちを二度と見ることはないだろう」と悲痛に歌い上げる。
ジャゾーネはその言葉に心動かされるが、メデアは一方で「あなたは私の偽りの溜息や苦しみに、大きな代償を払わされることになる」と独白。
一人になったメデアはネリスに、グラウチェの婚礼の際に、王冠とぺプロス(古代ギリシアの女性が着た衣服)を贈るように、と命じる。
結婚の合唱が聞こえ、クレオンテとグラウチェとジャゾーネが結婚の神に祈る声も届くので、メデアは呪い、怒り狂う。
人々の喜びの声を背景に、メデアは復讐の時を待つ。
<第3幕>
メデアは地獄の神々に祈り、二人の子供を生贄に捧げようと独白。
ネリスが現れ、グラウチェが贈り物を身につけたと伝え、子供たちを連れてくる。
だがメデアは子供たちを見て「ジャゾーネの目つきだ!」と口を開く。ネリスが驚き「お気を確かに!」と叫ぶので、
メデアも正気に返り、子供たちを抱きしめ、アリア<私の心をくじく誇り高き苦しみには>を歌う。
彼女は改めてグラウチェへの贈り物について尋ね、彼女がそれを身につけたと聞いて喜び、「王冠に仕込んだ毒がグラウチェを蝕むだろう」と告白する。
ネリスは驚き、「もうたくさんです。お子様たちとお別れを」と強く言って、子供たちを急いで連れ去る。
だがメデアは錯乱、「ジャゾーネの子らに憐れみをかけられようか!」と口走り、復讐の女神に訴え、子供たちを殺そうと決意する。
宮殿内から人々の恐怖の叫び声が聞こえ、メデアは喜ぶ。ジャゾーネの悲しみの叫びも聞こえる。
ジャゾーネ登場。神に向かって「子供たちをお守り下さい!」と絶叫。人々も「女の血で償いを!」と叫ぶ。
ネリスが飛び出してきて、メデアが子供たちを追いかけていると伝える。
するとメデアが現れ、ジャゾーネに向かって「子供たちの血が仇をとってくれた!」と吐き捨てる。
火の手が上がり、人々が逃げ惑う中で幕が降りる。

このオペラは「劇的音楽の頂点」と称されたそうだが、一時埋もれていた。
だが1952年にフィレンツェで、マリア・カラスがタイトルロールを演じ、その熱演ぶりが大評判になったことから上演回数が倍増したという。

音楽はドラマチックで素敵だが、たまにアリアの序奏が長いため、その間、歌手が舞台をゆっくり動き回って間を持たせるなどしていた。
演出家泣かせの箇所だ。

歌手はみな、歌も演技も驚くほど達者で非の打ち所がない。
特にメデアの侍女ネリス役の山下牧子が出色。
主役のメデアを演じた中村真紀は、この役にぴったりで圧倒的な存在感。
ラストで、恋人と子供たちを殺されて絶望のあまり地にうずくまるジャゾーネを、傲然と見下ろす姿が忘れ難い。
この後、彼女も自害するわけだが、死ぬ前に、元夫への復讐の成就を目に焼きつけようとするのだ。
この演出もいい。
彼女は元夫を殺しはしない。殺さずに苦しみと絶望の内に生かしておくことの方が復讐にふさわしいと考えたのだ。

これまで単に、嫉妬に駆られた女性が我を忘れて可愛いわが子に手をかける・・という話だと思っていたが、全然違っていたと分かって衝撃を受けた。
以下、少し長くなるが、長屋氏の分析があまりに面白いので、引用したい。

メデアと元夫ジャゾーネの二重唱から
 ジャゾーネ:王の力は強大だ。
       王の怒りを恐れるがいい!
 メデア  :私の父も王だった。
       その父を私は裏切った
 ジャゾーネ:そして今、お前は死へとひた走る!
 メデア  :私は死ぬだろうが、お前に
       記憶を植え付けてやる。
       お前は未来永劫
       私を忘れられぬだろう!
 ジャゾーネ:お前は死ぬのだ、
       凄惨な死がお前を待つ!
 メデア  :だが、死ぬ前に、
       復讐を果たしてみせる!

この会話にはおかしなところがある、と長屋氏は指摘する。
確かに、よく読むと、メデアは常にジャゾーネの言葉に反応しているのに、ジャゾーネは、メデアの言葉になんら返答していない。
この二重唱では、ジャゾーネが一方的に言いたいことを言い、メデアの言葉に聞く耳を持っていないことを表している。
つまり、会話全体を通して、怒りで我を忘れ、言いたい放題のジャゾーネの性格が見えてくる。
反対に、メデアはジャゾーネの言葉を一言も聞きもらすまいと耳をそばだて、頭を使っている。
この会話からわかるように、理性を持っているのはメデアの側で、我を忘れているのはジャゾーネの側なのだ。
ここに、メデアとジャゾーネの性格とこの場の状況が見事に表現されている。
このように、この作品は音楽が素晴らしいばかりでなく、台本も実に巧妙だということがわかった。

<情と理> 
メデアはクレオンテとジャゾーネの情に訴える。
彼らはメデアを拒絶したことを後ろめたく思っている。なぜなら彼女の方に理があるからだ。
体面と権力にこだわる男性側は、メデアをしりぞけ、自分たちの利害を守ろうとするため、後ろめたさを感じずにはいられない。
そのため、クレオンテは一日の猶予を与え、ジャゾーネは子供たちと過ごすことを許す。
だが、彼らは犠牲と言えるようなものをまったく払っていない。
メデアが自らの技術を用い、国や親兄弟を捨てた犠牲とは比較にならない。
この取引はまったく釣り合いがとれていない。

メデアは復讐を果たすべきだという理と、母親としての情の間に引き裂かれる。
彼女は何度も自問自答し、葛藤した後、ついに親としての情を断ち切る。
以上、長屋氏の解説から引用させていただきました。
子殺しとはおぞましいが、メデアは元夫がそれを知って苦しむのを見た後、自害すると決めていたのだから、実質、心中だろう。

ついにブラボー解禁!
終演後のカーテンコールでの手つなぎも復活!
満場の人々と感動を共にでき、興奮を表すこともできて、胸が一杯になった。

特に期待していなかったが、これが今年一番のイベントになるかも。

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「われら幸運な少数」

2023-06-01 23:21:35 | 芝居
5月25日ピット昴(サイスタジオ大山第一)で、イモジェン・スタッブス作「われら幸運な少数」を見た(劇団昴公演、演出:千葉哲也)。



第二次世界大戦下のロンドン。実在した女性だけのツアー劇団「オシリス・プレイヤーズ」をモデルに女たちの奮闘を描く。
シェイクスピア、バーナード・ショウ・・イギリス演劇を観てもらうため、どんなに遠くても、野宿をするような悪条件でも、約1500回の
公演を遂げたパワフルな女性たちがいた。彼女たちを駆り立てた情熱と涙とそれぞれが持つドラマ(チラシより)。
本邦初演。ネタバレあります注意!

開幕前に流れていたピアノ曲はブラームスの間奏曲。中で弾かれるのもブラームスのピアノ協奏曲第1番。

枠構造。冒頭は現代。15年前にこの倉庫を引き継いだという女性と一人の男性とが、懐中電灯を手に入って来る。
彼らが出て行くと、亡霊たちが出て来る。話を聴いていたらしく、「失礼ね」とか言いながら。

時代は第二次世界大戦前夜。
男たちが戦地に駆り出され、芝居の上演ができなくなったため、ヘティ(高山佳央理)とフローラ(湯屋敦子)は女だけで劇団を結成して全国を回ろうと考える。
役者を募集し、オーディションするが、来たのは全くの素人ばかり。
そこに、ユダヤ人の親子がドイツから逃れて来る。母親ガートルード(磯辺万沙子)はドイツ語しか話せず、息子ヨーゼフ(町屋圭祐)が片言の英語で通訳する。
プロの俳優ヘレン(林佳代子)も加わり、政府の助成金を申請するが、大臣はなかなか認めない。
それでもめげずに工夫して、ようやく認められ、いよいよ公演が始まるが・・・。

オーディションが始まり、一人ずつ自分の好きなシェイクスピア劇のセリフを口にし出した時は、シェイクスピア・フリークにとって
これほど楽しい芝居があろうか!?と胸が高鳴ったが・・。

この戯曲の難点はと言えば、翻訳した芦沢みどり氏が書いている通り「とにかく長い」「ロンドンでの上演時間は3時間だったというから、
日本語上演だと4時間近くかかるはずだ」
翻訳すると、それくらい長くなるのです。
ただ今回、演出の千葉哲也氏がだいぶカットしているので、何とか3時間に収まったが。
それでも、まるで大河ドラマを見たような印象。

そしてその中に、あまりに多くを詰め込み過ぎ。
ざっとあらましを書くと、
「マクベス」上演、劇団内でカップル誕生、ヘレンのせいであわや解散か!?、ヘレンと娘の確執、妊娠騒動、
ヘティの過去(息子の存在)が明らかに、ヨーゼフが前線に、息子の結婚に反対する母、女性2人が恋に落ちる、
爆撃で妊婦が・・、義母が赤子を・・、
終戦、砂浜で「ヘンリー五世」上演、新聞の戦死者の欄に・・、聖クリスピンの例の演説・・、
乳母車に赤ん坊、その子の名前・・
・・・とまあ、盛り沢山の内容。
この作品は、作者が初めて書いた戯曲だというから、あれもこれも入れたい気持ちはわかるが。
これだけ盛り沢山だと、面白くはあるが、せっかくの名場面の印象が拡散してしまう。

次に問題なのは、とにかく感傷的過ぎること!
世界的に見ると、日本人はかなりウェットで情緒的な方だと思うが、その日本人もびっくりなくらい。
みんなよく泣くし。
だが舞台上で泣くのは難しい。
下手すると役者だけが感動していて、客席は置いてきぼりにされ、白けてしまう。
今回も、劇中劇の上演中だというのに、個人的なショックのため、勇ましい名演説の途中で絶句してしまう主人公には驚いた。
きついことを言うようだが、プロ意識に欠けるのではないか。
これは役者のせいでも演出家のせいでもなく、原作の戯曲の失敗だと思う。

タイトルは「ヘンリー五世」の有名な演説からの引用。
英国軍はフランスに進軍したが、兵の数では圧倒的に多いフランス軍を前に、厭戦気分が蔓延していた。
その時、若き国王ヘンリーが語り出す。
我々は人数は少ない。だが、少ないことが、かえって我々の名誉となるのだ。
今日の戦いに勝って国に帰り、家族や友人たちに戦場でのことを話して聞かせよう。
今日の戦いと勝利のことが、親から子へ、子から孫へと何世代にもわたって語り継がれるだろう。
その時、この戦いに参加しなかった者は、地団駄踏んで悔しがるだろう・・。
この演説が兵士たちの心に火をつけ、ついに信じられないような奇跡的な勝利を勝ち取るのだ。
ここは、そのままやっても十分感動的なシーンなのだが。
そこに、ヘティの悲劇的な運命を重ね合わせると、さらにいいかも、と作者が思って相乗効果を狙ったのだとしたら、逆だった。
かえって相殺されてしまい、せっかくの最高に感動的なシーンが、気の抜けたものになってしまった。

それと、いくつか冗長な部分があるので、そこもカットした方がいい。
老人が幕間の挨拶をするシーンや、恋人たちをみんなで祝福したり励ましたりするシーンも退屈だった。
演出については、他にも腑に落ちないところがいくつかあった。
たとえば劇中劇「マクベス」のラストで、マクベスとマクダフの一騎打ちの際、マクベスは、すでに戦う気力を無くしているはず。
なのに彼は、わりと元気に戦い続けるし、逆に、復讐心に燃えているはずのマクダフが弱くて何度もやられそうなのは変だ。

あちこちにシェイクスピア好きを喜ばせるものが散りばめられている。
最初の方で「マクベス」第5幕の「女から生まれたのではない」についての問答を聴かせておいて、ラスト近くで妊婦に対して義母がそれと同じことをしたり。
ガートルードが小道具の天使の羽根をちぎって息子の妻の顔に近づけるのは、「リア王」のラストシーンから。

シェイクスピア劇からの引用は劇団昴の大先輩である福田恆存の訳を使った由。
ヘティのモデルとなったナンシー・ヒューインズという人について、翻訳した芦沢みどり氏が詳しく書いてくれている。
この人と彼女たちの劇団のことは、この戯曲が書かれるまで忘れられていたという。
埋もれていた彼女たちの功績を甦らせてくれた作者には、大いに感謝したい。
ただ、本国の英国でもこの作品があまり上演されないのは、やはり長過ぎて、感傷的過ぎるためだろう。

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