ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「近松心中物語」

2021-09-26 10:14:22 | 芝居
9月10日神奈川芸術劇場ホールで、秋元松代作「近松心中物語」を見た(演出:長塚圭史)。
1979年初演の名作。
飛脚宿亀屋養子・忠兵衛(田中哲司)と見世女郎・梅川(笹本玲奈)、古物商傘屋若旦那・与兵衛(松田龍平)と箱入り娘・お亀(石橋静河)。
境遇の違う二組の一途な恋を綴った本作は、元禄の情景とともに華やかな新町をとりまく境遇の違いが描かれ、格差が問われる現在に驚くほど重なります(チラシより)。

チラシを見た時からいや~な予感がしていた。心中物なのに、この顔ぶれってどうなの?!そして予感は見事的中。
まず、キャスティング✖。
主役の忠兵衛は、女性と付き合ったことがなく、堅物でひたすら純情で生真面目な男。そんな役をどうしてまた田中哲司みたいな人ができるわけがあろうか。
演出家は説得力というものを考えたことがないのか。更に言えば、この作品に対するイメージがおかしいのではないか。
与兵衛役の松田龍平は発声がまるでダメ。腹に力を入れてほしい。「ハラに力を入れんかいっ!」と何度も叫びたかった。彼の厳しい義母なら「腹に力を入れなはれ!」
と言うことだろう。つまり(前にも書いたが)この人は舞台には向いていない。映画に専念して欲しい。
今回の役は、気が弱くてお人好しで無能で、どうしようもない男だから彼にも務まると思ったのかも知れないが、腹に力の入らぬセリフを聴かされ続けてうんざり。

音楽✖。ただ、カネと太鼓でリズムを刻むのみ。
舞台装置✖。ラストの心中場面以外、ほとんど装置無し。その都度、屛風や小さな仕事机をせわしなく並べるのみ。

田中哲司は声が高過ぎる。ラスト、梅川の首を赤い腰ひもで絞めながらキェーッときたない奇声を張り上げる様など、下品としか言いようがない。
誰がこんな男と心中したいと思うだろうか。置いてきぼりにされた観客は、ただもう呆れてシラケるだけだ。
この場合、彼が悪いのか、演出家が悪いのか。
彼は2015年上演の「REDレッド」での知的な前衛画家や、同年の「オレアナ」でのセクハラで女子学生に訴えられる大学教授とかなら十分見応えがあるが、
堅物の純情男が女郎のために命がけの恋をする、などという役は、どう転んでも向いてないし、説得力がないとしか言いようがない。
評者は演出家の責任大だと思う。

2018年に見た、いのうえひでのり演出版(宮沢りえ・堤真一主演)が、いかに素晴らしかったかが、今回よく分かった。
同じ作品が、演出家によってかくも違ったものになるということも。
あの時は、音楽もよかったし舞台装置もよかった。
あれをまた見たくなった。口直しにw。

与兵衛の義母役の朝海ひかるのセリフ回しが美しい。大阪弁が心地良い。この人はもちろんうまいが(今回一番期待したのが彼女)、この役がまた
役者にとっておいしい役。前回見た時は銀粉蝶が絶品だった。朝海ひかるがこんな年齢の役をやるようになったのか、と思うと、いささか複雑な気分ではある。
まだまだ若い役もできると思うし、やってほしい。

義理の親子というのが江戸時代は多かったのかも知れない。家を何としても誰かに継がせないといけなかったからだろう。
忠兵衛は田舎の出で、数年前に大阪の為替問屋に養子に入った身だし、与兵衛も商家の一人娘お亀の婿養子という立場だ。しかも、お亀の実母はすでに亡く、
継母は後妻で、与兵衛の叔母という複雑な間柄。



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「パレードを待ちながら」

2021-09-21 10:57:35 | 芝居
9月7日紀伊國屋サザンシアターで、ジョン・マレル作「パレードを待ちながら」を見た(劇団民芸公演、演出:田中麻衣子)。
1977年の初演以来繰り返し上演され、今もカナダ市民に愛され続けている作品の由。
第2次大戦下、名誉と栄光に駆られた男たちが勇んで戦地に行進していったカナダ・カルガリー。男たちのため国のために銃後を守り奉仕活動に励む5人の女たちは、
おしゃべりと流行歌とダンスで「非常時」を耐え、愛する男たちを待ち続けます。しかし、戦争が長引くにつれ、家族はとても大事だけれど、家族がすべて
ではないことを、愛国心はとても大事だけれど、愛国心がすべてでないことを悟り始めます。行進し続ける軍楽隊のパレードに女性たちは・・・(チラシより)。

20代から50代の5人の女性が、それぞれ戦時下の日々を送っている。
夫が志願兵として出兵し、生活のため働き始めた人。
ドイツ系で、9歳の時親に連れられてカナダに移住した人。父はナチスと疑われ、スパイ容疑で逮捕される。父の紳士服店を引き継いで守っている。
教師で、年の離れた夫が保守的で、話が合わないことに苛立つ人。
父も夫もすでに亡くなり、長男は兵士として輸送船に乗り、17歳の次男が戦争反対のビラを配って警察に逮捕されたためおろおろする母親。
国防婦人会のリーダーとして皆を𠮟咤激励する人。ラジオ局のアナウンサーである夫が志願しないので、皆から後ろ指を指されないようにと頑張っているが・・。

戦争が長引くにつれ、ドイツ系の女性に対する住民からの嫌がらせが次第にエスカレートする。家の中に発煙筒が投げ込まれ、ある朝起きると、家の前に
大きな黒い犬の死骸が置かれていた。すでに腐っていてひどい臭いを放っていた。終戦前にようやく釈放された父は、長い間の収容で身も心も傷ついていた。
体は始終震え、娘のことを「お前はわしの娘じゃない。うまく娘のふりをしているが、違う」と言い、ついに亡くなるまで心を開いてはくれなかった・・。

歌はともかく、幕開けと幕切れにある、国旗を振りながらのダンスのシーンが、現代の我々にはいささか退屈。
初演の時には、戦時中の流行歌で盛り上がったというが、今では知らない曲ばかりなので、国広和毅が新しく作曲した由。
婦人会でのさまざまな活動が興味深い。
灯火管制下、短時間で身支度を整える訓練など。
だが全体に、少々長い。もっと刈り込めるのではないか。

作者はカナダ西部カルガリーの第二次大戦の記憶を劇化するため市民の証言を集めたが、彼の胸を打ったのは女性のウィットとたくましさだった。
歌とダンスとユーモアが苦悩と悲しみに満ちた女性の銃後の暮らしを彩り、男性の愚かしさが今も変わらぬことに警鐘を鳴らしている(チラシより)。

キャスティングがいい。5人それぞれの性格と事情に役者たちがぴったりはまっていて気持ちがいい。
あまり知られていない、戦争中のカナダの人々の暮らしが、ぐっと身近に感じられた。

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ゼレール作「息子」

2021-09-13 22:18:37 | 芝居
9月2日、東京芸術劇場プレイハウスで、フロリアン・ゼレール作「息子」を見た(演出:ラディスラス・ショラー)。
「母」「父」に続く3部作の最後の作品の由。
「父」は2019年に橋爪功主演で日本初演され、評者も見て感銘を受けた。娘役で共演した若村麻由美が今回も出演するというので期待が高まる。

「何かを変えたい。でも、どうしたらいいか分からない」
17歳の二コラは難しい時期を迎えていた。両親の離婚により、家族が離れ離れになってしまったことにひどいショックを受けて動揺し、何に対しても
興味が持てなくなってしまっていた。噓を重ねて学校にも行かずに日がな一日、目的もなく一人で過ごしていたところ、学校を退学になってしまう。
父親ピエールは新しい家族と暮らしていたが、母親アンヌから二コラの様子がおかしいことを聞き、何とか彼を救いたいと、離婚後に距離を置いていた
息子と向き合おうとする。生活環境を変えることが唯一自分を救う方法だと思えた二コラは、父と再婚相手、そして年の離れた小さな弟と一緒に暮らし、
新しい生活をスタートさせるのだが・・・。悩み、迷い、傷つきながら、自分を再発見していく絶望した若者の抒情詩(チラシより)。

ニコラ(岡本圭人)が再婚した父(岡本健一)と一緒に暮らしたいと言い出すので、父も再婚相手のソフィア(伊勢佳代)も戸惑いつつ彼を受け入れる。
ところが家に来た日、父がいない時にニコラは突然狂ったように本棚の本を床に投げ出し、本棚も壊してしまう。その後、父はそのことに全く気づかず、
だいぶたってからソフィアが床に散らばった本を集めて元に戻す。このシーンは二コラの心象風景を表しているのだろうが、この演出は分かりづらい。

ニコラは17歳にしては幼いように思われる。父が別の女性の元に走って母(若村麻由美)と離婚したからといって、あそこまでショックを受けるだろうか。
父は時に強権的だったり威圧的だったりするが、それでも息子のことを本気で心配し、自分の仕事など多くのものを犠牲にするのもいとわない。

意外だったのは、描き方があまりに情緒的でウェットなこと。特に、病院でニコラが「ここにいたくない!家に帰りたい!」と訴え、両親と引き離して彼を
連れて行こうとする医者たちに抵抗して大声で「パパ!パパ!」と叫ぶ場面で、アルビノーニの「アダージョ」がかなりの音量で流れたのには驚いた。まるで
メロドラマのよう。ドライなフランス人というのは評者の勝手なイメージかも知れないが、ここは非常に違和感がある。

父の息子に対する愛情の深さには打たれるが、ニコラのケースは前作「父」の場合と違って非常に特殊なので、なかなか感情移入しにくい。

教訓:医者の言うことを信じよ。患者本人の言うことを信じてはいけない(特に虚言癖のある子供の場合)。つらいことだが、情に溺れないように気をつけよ!

ピエールがあまりにも気の毒で、救いがない。善良な人で、自分にできる精一杯のことをしたのに最悪の結果を招いてしまい、まだ若いのに大きな喪失を抱えて
絶望し、自責の念のあまり死を願うほど追い詰められている。まだ4歳の子供の父親として、これからも生きていかなくてはならないというのに。

アンヌはピエールとよりを戻したい気持ちを隠さない。美しく魅力的だが、すでに別の女性と再婚して子供もいる彼に、楽しかりし過去を思い出させようとして
迫ったりして何とも感じが悪い。彼が電話に出ないからと、二人の家にアポなしで突然やって来て、ソフィアを見てもあいさつすらしない。
まず彼女に対して突然来たことをていねいに謝るべきなのに。ずいぶん失礼な人だ。
ピエールが彼女とうまく行かなくなったのも、何となく分かる気がする。彼が彼女からの電話に出なかった理由も。
若村麻由美はそういうアンヌを実にうまく表現している。
ピエール役の岡本健一は圧巻。欠点も含めて陰影と奥行きのある人物を造形した。

15歳の時に両親が離婚したとは言え、17歳にもなれば、好きなこと、夢中になれることが出てきてもいい年頃だ。
ニコラが「人生は重すぎる」と言うので、ひょっとして男として生きるのが辛く、実は女になりたい性同一性障害なのかと思ったが、違うようだ。
そうだったら、むしろよく理解できたのだが。彼の不登校の原因は、いじめとかの友人関係ではなさそうだし、失恋の痛みでもないという。
謎は謎のまま残る。何もかも両親の離婚のせいにするのもおかしい。
アーサー・ミラーの「セールスマンの死」を思い出した。長男は、父が母以外の女性と浮気していることを知ると、ショックのあまり高校の追試も受けず
(追試を受けることが卒業の条件だった)、人生のすべてに投げやりになる。やはり、あまりに幼く単純だ。その辺から家族全体がおかしくなり、ついに破局に至る。
有名な戯曲だが、その展開にはまったくついて行けない。
この作品にも同様のことが言える。
ニコラは平気で嘘をつき続け、そのことを何とも思っていないように見える。彼は自分のことを客観的に見ることができないのだろうか。
「愛している」と言いながら、相手が一番悲しむことをするとは・・・天国から地獄に突き落とすような仕打ちではないか。そこまで追い詰められているのなら
なぜ正直にそう言ってくれないのか。やはり虚言癖、そして人をだますことを何とも思っていないという彼の大きな問題がある。
両親がどんなに悲しむか、少しでも想像できたなら、あんなことはしないだろう。この息子には想像力も欠落していると言っていいと思う。

とにかくあまりにも救いがない。噓つきの男の子のせいで、大人3人が振り回され、今後もあまりにも苦しい。苦しみだけを残して去って行った子。
一体何のために?何がいけなかったかと言えば、親が子供を愛するあまり、医者の言うことを信じなかったこと。そして、もっと早く精神科に連れて
行っていれば、あるいは違った結果になっていたかも知れない。でもこれってそういう話なのか?
もやもやした気分が残る。何とも後味の悪い芝居だ。

ここまで書いた後、遅ればせながら演出家のインタビュー記事を読んだ。
演出家は「二コラは親にとっては永遠にミステリー」「子供は近くて遠い存在とわかるのが面白い」と言い、問題の種明かしをしない構成を気に入っているという。
なるほど、そういうことか。それにしても、種明かしのないミステリーを好む人がいるのか!?いやあ、人それぞれですね。

アルビノーニの「アダージョ」は、これまで好きだったが、この日以来、急に通俗的な曲に聞こえてきた。
とにかくあのシーンでの選曲はいただけない。




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オペラ「ルル」

2021-09-07 11:11:15 | オペラ
8月31日 新宿文化センターで、アルバン・ベルク作曲のオペラ「ルル」を見た(東京二期会オペラ公演、演出:カロリーネ・グルーバー、指揮:マキシム・パスカル、
オケ:東京フィル)。

かつて貧民街で暮らしていた少女ルルは、新聞社の編集長シェーン博士に拾われ、彼好みの女性として成長する。次第にルルは妖艶な魅力を放つようになり、
シェーンは彼女と関係を持つ。ルルと愛人関係を続けるシェーンだが、彼は高級官僚の娘と交際を始め、ルルを初老の医事顧問と結婚させてしまうのだ。
ある日、ルルの肖像画を描いていた画家が彼女に魅了され、言い寄り始める。事の次第を知った夫の医事顧問は心臓発作で死んでしまう。ルルは画家と
再婚するが、ルルの汚れた過去の真実を知り、彼もまたショックで自殺する。
ルルはついに望み通りシェーンと結婚する。しかし男女を問わず怪しげな信奉者たちとの関係を続けるルルに、嫉妬で常軌を逸したシェーンは、ルルに
拳銃を持たせて自殺を強いるが・・・(チラシより)。

現代音楽は苦手だった(特に無調の曲)。しかもこのオペラは、ストーリーが、何と言うか身も蓋もないので、今まで見たことがなかった。
今回も、改めてあらすじを読んで、なんでまたこんな話に曲をつけたくなるのかと思ったが、演奏を聴いて、ようやく分かった。
コケットな女、femme fatale と、その魅力に何とかして抗しようとあがくが、結局抗しきれずに滅びてゆく男たちというのは、素材としてそそるに違いない。
冒頭からラストに至るまで続く音の豊かな響きと深く多彩な表現力に、この作品が20世紀オペラの最高峰と称えられていることが、やっと納得できた。

初演は1937年。ベルクは2幕までしか完成させておらず、1978年にツェルハという人が3幕を補筆完成させた由。
今回は、2幕の後、ベルク自身が書いた Variationen という部分を演奏し、その間、ルルとルルそっくりの人形が絡み合う演出だった。
原作はヴェーデキントの戯曲「地霊」と「パンドラの箱」で、台本は作曲者自身による。
原語(ドイツ語)上演、日本語と英語の字幕付き。日本語の字幕は左右両サイドに縦書き、英語は上方に横書きで表示された。
例によって目が忙しかったが、楽しかった。
この日はシェーン博士役が宮本益光から加耒徹に変更された。ルル役は森谷真理。

ルルの二人目の夫は原作では画家だが、今回はなぜかフィギュア作家という設定。
それもあり、演出はマネキン(フィギュア)をたくさん使う。冒頭、一体の真っ赤なニーソックスと白い下着のような恰好の、ルル役の歌手と同じ恰好をした人形が
いる。そのうち、それと同じ人形が6体も出てくる。中には本物の人間も混じっている。ただ、その意味するところは不明・・。

見ていてドストエフスキーの「白痴」を思い出した。そこでもやはり、貧しいが美貌の少女が裕福な男に拾われ、育てられ、愛人にされる。彼女は男に結婚話が
持ち上がると、それを阻止するために押しかける(ただ「白痴」の場合、女は特に彼との結婚を望んでいたわけではなく、若い頃に踏みにじられた尊厳への恨みを
何とか晴らしたい一心なのだが)。

途中、音楽だけの場面が長いが、映像を使ったりダンサーが踊ったりして間を持たせるように工夫している。

ラスト、ルルに献身的な愛を捧げるゲシュヴィッツ伯爵夫人のセリフ(歌:ここはツェルハ作曲)があるのに夫人が登場せず、歌声だけが聞こえ、ダンサーが
夫人の代わりにルルと抱き合う。
どうしてこういうことをするのか。またしても意味不明。

演出には若干違和感があったが、この日は久し振りのオペラを堪能できた。しかも20世紀の音楽なのに、心地良く耳に響いてびっくり。私の耳もようやく
ベルクの音楽に慣れてきたらしい。オペラ「ヴォツェック」を2回も見てきたお陰かも。

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