ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

シャンリー作「ダウト」

2021-12-28 11:35:26 | 芝居
12月6日風姿花伝で、ジョン・パトリック・シャンリー作「ダウト」を見た(演出:小川絵梨子)。

2004年ブロードウェイにて、ストレートプレイとしては異例の一年以上のロングラン上演を記録し、ピューリッアー賞、トニー賞最優秀作品賞など数多くの演劇賞を
受賞した作品。1964年のニューヨーク・ブロンクスのミッションスクールを舞台に、「疑い」をめぐって繰り広げられる緊迫した濃密な会話劇(チラシより)。
ネタバレあります注意。

校長シスター・アロイシス(那須佐代子)、フリン神父(亀田佳明)、教師シスター・ジェームス(伊勢佳代)、ミラー夫人(津田真澄)の四人芝居。
学校はカトリックで、有能なフリン神父は生徒たちに人気があるようだ。
チャペルで説教もするが、男子生徒たちにバスケットボールの指導をするのも手慣れており、子供たちの気をそらさず、時に笑いを取り、そつなくこなす。
だが彼が、ある時ドナルドという黒人少年と二人だけで部屋にいたことがわかる。
しかもその後ドナルドの様子がおかしいことに、若い教師シスター・ジェームスは気がつく。
彼女から報告を受けた校長は、疑惑を抱く。
神父を呼び出し、詰問するが、彼は頭が良くて弁が立ち、うまくごまかしてしまう。
善良で経験の浅いシスター・ジェームスは、すぐに彼の言葉を信じて安心するが、校長はそう簡単にだまされはしない。
その場では一応「納得しました」と言うが、内心どうやってこの男の尻尾をつかもうかと考えている。
彼女はこの学校の生徒たちを守らねばならないのだ。

中庭の場面。薔薇に霜囲いをする校長に、シスター・ジェームスが「もう霜が降りたんですか」と言うと、校長は「降りてからでは遅いんです」と答える。
この言葉が効いている。
この後、二人が交わす、「何もなかったのかも」「何かあってからでは遅いんです」というセリフと呼応している!

校長はドナルド少年の母親・ミラー夫人と面談する。
結局、思ったほどの成果は得られなかったが、母親が出ていった後、フリン神父があわててやって来る。
ここからの二人の緊迫したやり取りが素晴らしい。
校長は勝負に出る。
彼の前任校に電話し、同僚の神父にではなくシスターの一人に彼のことを尋ねた、と神父に告げる。
神父同士は互いに守り合うから、神父に聞いても正直に答えてくれるとは限らないからだ。
それを聞いて神父の様子が変わる。
「あなたは罪を犯したことはないんですか」「それは重罪ですか」「あなたには慈悲の心はないんですか」と悲痛な声で、すがりつくように言う・・・
つまり自ら罪を犯したことを認めたのだった!
だが過去に同様の事件を起こしたことがあるとわかっただけでは、彼を辞めさせることはできない。
そのため彼女は、職を辞して訴えます、とまで言い、捨て身の覚悟であることを知らせる。
追い詰められた彼は、ついに敗北を認め、この学校を去るしか道はなくなる。
校長は最後まで落ち着いている。
「しばらくここにいて心を静めなさい。必要なら電話を使っても構いません」とまでアドバイスして自分の部屋を出てゆく。確信に満ちて。
神父は椅子に座り、呆然とするが、思い直して受話器を取り、司教に電話する・・・。

結局彼は司教の力によって別の学校に異動することになったが、それは栄転だった。
校長の力では、それ以上のことは無理だった。
だが彼女は、少なくともこの学校の生徒たちを彼から守ることはできたのだった。

校長は、シスター・ジェームスより人間をよく知っている。
特に人間の性欲、ずる賢さ。
「自分を基準にものを考えるのをやめなさい」と校長は彼女に言う。
若い女性にありがちだが、自分が性的に淡泊な場合、世の中には自分の欲望が抑えられず子供に手を出すような破廉恥な人がいる、ということが想像できないのだ。

だが校長自身も問題がないわけではない。
教育者として首をかしげたくなるような頑迷さ、(特に男子生徒に対する)偏見、不寛容に凝り固まっている。
教師が特定の教科に情熱を注ぐことをも、よくないことだと言う。どの教科も同じように扱うべきだと。
そんなことは人間的とは言えないのではないだろうか。
町で人気の可愛らしい歌のことを、異教に導く邪悪な曲、とか言う(笑)ので、真面目で素直なシスター・ジェームスはびっくりしておののく。
この辺でフリン神父の言うことはまことに人々の共感を得やすい。「我々はもっと人々に近づいたらどうでしょう」
だが校長は、「人々は私たちが遠くにあることを望んでいます」と言う。
ただ、どちらも間違っているとは言えない。
この二つの立場はいつだって教会、いや宗教界に存在するものだ。
宣教にとって、教会の敷居を低くした方がいいのか、高いままの方がいいのか。
それはなかなか難しい問題で、簡単に答えが出せるものではない。

この芝居は2008年に吉祥寺シアターで、文学座の公演を見たことがある(演出:望月純吉)。
寺田路恵、清水明彦、渋谷はるか、山本道子の座組で、戯曲の内容の濃さと迫力ある展開に心奪われ、またシスター・ジェームス役の渋谷はるかの初々しい演技に
特に感銘を受けた。
その後メリル・ストリープ主演の映画も見た。
こちらは映画ならではの描写で、やはり素晴らしかった。
そして今回。戯曲の魅力にますます引き込まれたが、一方で、特にシスター・ジェームスの造形に違和感を覚えた。
時に大声を挙げ、震え上がるといった極端で過剰な演技に客席からは笑いが起こった。
この人を笑いものにしていいのか。戯画化する必要があるのか。
これはそういう話ではないし、焦点がぼやけてしまうではないか。演出家の意図がわからない。

ただ戯曲が優れているので、シリアスな内容だが他にあちこちで笑えるシーンがある。
神父がメモ魔で、校長との会話から得た思いつきをすぐに次の説教に使おうとするのも面白い。
だが何と言っても二人の緊迫した議論が圧巻。こちらに息もつかせない迫力だ。

役者はみなうまい。那須佐代子は期待通り素晴らしい。亀田佳明も好演。

問題の男は才能に恵まれている。
弁舌の才、子供たちと親しくなれる教師としての才、言葉巧みに相手を丸め込む詐欺師としての才。
その男の罪をあばき出すためには、この校長のような大胆な人でないと難しいのかも知れない。
何しろ証拠がないのだから。
ラスト、シスター・ジェームスは校長が神父に噓をついたと聞いてショックを受ける。
校長は言う「大きな悪に立ち向かうには、神から離れねばなりません」。

厳格なヒエラルキーのあるカトリックの世界ゆえ、下の者は上の者の悪事や犯罪を知っても、また子供を守るためにそれを告発したとしても、問題を解決するのは難しい。
数十年前から欧米で大問題となっている神父による児童への性的虐待が、まさにそれだ。
そう、この芝居は、それを実にわかりやすく観客に伝わるように描き出してみせる。
しかも単なる問題提起にとどまらず、演劇としての高みにまで到達していて見る者の心を鷲づかみにして離さない。

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「鷗外の怪談」

2021-12-20 21:38:54 | 芝居
11月30日東京芸術劇場シアターウェストで、永井愛作・演出の「鷗外の怪談」を見た。

2014年初演の作品。ネタバレあります注意!
1910年の大逆事件をめぐり、明治天皇暗殺を企てたとされる被告たちの弁護側と、被告を処刑したいと考える政府側の双方の相談に乗り、板挟みとなる
文豪、森鷗外。一方、家庭内では妻と実母の間に立って右往左往する家長という意外な姿があった。

森林太郎・鷗外を演じるのは松尾貴史。家族は7か月の身重の妻しげ(瀬戸さおり)、母・森峰(木野花)、先妻の産んだ長男(この時すでに大学生)、
それに幼い娘たち。
この家に出入りするのは「すばる」の編集者で弁護士の平出修(渕野右登)、「三田文学」の編集長・永井荷風(味方良介)、賀古鶴所(池田成志)ら。
平出修は大逆事件の弁護士の一人となり、裁判の件で鷗外に相談する。
永井荷風は鷗外の紹介で慶応義塾大学文学部教授となったという縁。だがいつも、どこかの芸者にうつつを抜かしている。
賀古鶴所は、かつて鷗外と軍医として同僚だった。森家は代々続いた軍医の家柄で、鷗外は母と彼に勧められて軍医となった。

評者の知らなかった事実が多くて興味深い。二度目の妻しげは、元々文学少女で鷗外の小説を愛読していたとか、彼女もバツイチだったとか、鷗外に勧められて、しげも
小説を書き始め、しかも文芸雑誌に連載されて好評だったとか。18歳も年下なので、鷗外はこの人を時に子供のように扱う。
また、時の元老・山縣有朋の私的諮問機関のメンバーに、大臣や学者らと共に鷗外と賀古鶴所も加わっており、大逆事件の処理方針についてもここで検討された
可能性が高いという。だからこそ、鷗外は事件の判決について自らの責任を感じないわけにはいかなかった。
大逆事件の判決が下り、24名の死刑が決まったと知らされた後、鷗外と賀古鶴所とは緊迫したやり取りを繰り広げる。
賀古は政府側の意向を代弁すると共に、親友として鷗外と森家の今後のことを心配するが、鷗外は政府側の真の目的を見透かし、初めから死刑という結論ありきの
秘密裁判を認めるわけにはいかない。権力の危険な暴走を止めようとし、ただ真実のみに忠実であろうとする。よく練られた論戦に興趣が尽きない。

ある時、Verräter(裏切り者)! というエリーゼの声が鷗外の脳内に響き渡る。前後関係から何とか推測できるが、日本語の字幕があれば親切だろう。
鷗外の母役の木野花が大活躍。古い価値観の代弁者だが、安定した演技で楽しい。
永井荷風役の味方良介が面白い。演技にも切れがある。この人の名前は覚えておこうと思った。
妻しげ役の瀬戸さおりも、若く生命力溢れる妻を生き生きと演じて魅了する。

百年も昔の話だが、時代は変わったと言えるのだろうか。昨今の日本の政治状況を見ると、権力というものは常に監視していないと、いつの間にか我々国民を
とんでもないところに連れて行ってしまうものだと痛感する。そのことを決して忘れまいと思う。
この作品は永井愛の代表作のひとつで、芸術選奨文部科学大臣賞など数々の賞に輝いた作品というのも納得できる。
密度の濃い芝居と達者な役者さんたちの演技を楽しむことができた。


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オペラ「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

2021-12-09 13:15:33 | オペラ
11月24日新国立劇場オペラハウスで、ワーグナー作曲のオペラ「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を見た(指揮:大野和士、オケ:都響、演出:イエンス=
ダニエル・ヘルツォーク)。



独語上演、日本語と英語の字幕付き。
ワーグナーの作品では唯一の喜劇。神話や伝説から離れ、中世ニュルンベルクの市民を主役にしている。マイスタージンガーとは職人の親方であると共に
歌の作法にも通じている者のこと。ザックスは実在の人物(音楽の友社「名曲ガイドシリーズ「歌劇」より)。
評者にとって今年最大のイベント。5時間半のオペラ(この日は結局5時間50分かかった)。第1幕への前奏曲は有名だが全曲上演は珍しいそうで、
生で聴いたのは人生初!

騎士ヴァルターは金細工師の親方ボーグナーの娘エーファに一目惚れする。ヴァルターは、エーファが翌日の歌合戦で勝利者の花嫁となることを知り、自分も
参加しようとするが、歌合戦の資格試験に落第する。靴屋の親方ザックスだけは彼の歌の自由な精神と才能を認める。やもめのザックスも密かにエーファに想いを
寄せていたが、若い二人のために身を引く決心をする。ザックスの教えによって、ヴァルターはライバルのベックメッサ―を退け見事歌合戦で優勝する。一同は
ザックスを讃える(チラシより)。

<第1幕>舞台上で合唱する女性たち。終わると我々観客に背を向けて聴いていた人々(現代の服装の男女)が立ち上がって拍手。枠構造のようだ。
ヴァルターやエーファが出て来て物語が始まっても黒服のスタッフたちが動き回っていて、やや煩わしい。
ヴァルターに話しかけられ、エーファも彼に好意を抱く。
ドイツの徒弟制度は歌のマイスターでも同様で、マイスターになるには一人の師について何年もかかる由。誰に習ったか、どの学校で勉強したかが重要。
また歌と詩(詞)にはたくさんの規則があり、それらをすべてクリアしなければ試験に合格できない。試験では7つ以上ミスをしたら不合格。
審査員で記録係のベックメッサーは、エーファとの結婚を目論んでおり(つまり恋敵)、ヴァルターがミスするたびにボードに✖をつけてゆく。
ヴァルターは誰にも習ったことがなく、規則も知らなかったため、試験に落ちてしまう。
字幕が日本語と英語なので、つい両方を見比べてしまう。日本語の方は、時々非常に親切。

<第2幕>靴屋ザックスの仕事場にエーファがやって来る。彼女はザックスに、ヴァルターがマイスターになれる可能性を聞くが、見込みはないと言われ、
ヴァルターと駆け落ちしようとする。だが二人は、なぜかその後も二階にいて下の人々を見たり、そこにあるいろんな道具を触ったりしている。
この辺の演出の意図が分からない。

<第3幕>この3幕への前奏曲が素晴らしい。ワーグナーはこの曲を、独立して演奏できるように書き直すことをしなかったため、第1幕への前奏曲のように
演奏会でたびたび演奏されるということがないという。だから、こんなにいい曲なのに、めったに聴くことができないわけだ。実に惜しい。

歌合戦の当日、ヴァルターはザックスに教えられて自分の歌をマイスタージンガーの様式で完成させる。ザックスは若い二人が似合いのカップルであることを
認め、エーファを諦める。歌合戦が始まり、ベックメッサーが歌うが散々な失敗に終わる。次にザックスによって紹介されたヴァルターが歌い、一同を魅了する。
ヴァルターは優勝とエーファを勝ち取る。
驚いたのはザックスが若いエーファに向かって想いをぶちまけるシーン。本棚の本を床に次々と投げてうっぷんを晴らし、「男日照りの娘が『結婚して』などと
私をからかう・・」とまで言う。ここの訳はいささか踏み込み過ぎなのかも知れない(原文を知らないのでわかりません)。
だが、しまいには「私は『トリスタンとイゾルデ』のマルケ王のような幸福は望まない」と言う。その時流れるのは、もちろん『トリスタン・・・』の曲!
ザックス役のT.J. マイヤーが素晴らしい。
敵役ベックメッサーも面白い。うまく造形された敵役は、小説にしろオペラにしろ話を先に運んでいくために必要不可欠な存在だが、このオペラにとっても
同様だ。コミカルに演じるA・エレートがまたうまい。当たり役として世界中からオファーが絶えないのもうなずける。
他にダーヴィット役の伊藤達人も声がいい。

今回の公演は、8月に東京文化会館で上演されるはずだったものと同じプロダクションで、評者は元々そちらに行くはずだったが、コロナ禍のため中止となったのだった。
その時のチラシがこれ。


今回、日本語の字幕の情報量が、なぜか英語のより圧倒的に多い!実に親切に、分かりやすいように補って訳してくれている。たぶん別のソースから訳しているのだろう。
特にラストでドイツ、ドイツといちいち国名を挙げて強調するのが引っかかったが(英語の方にはない)、ヒトラーがこの曲を大好きだったことと関係があるのだろう。
演出家は今回のラストで思い切ったことをするために、わざとこういう訳を使ったのだろうか。
ラストで恋人たちは、結婚の条件であるはずのマイスター制度を否定するかのように、親方の肖像を破って出ていく。つまり、まるで駆け落ちなのだ。
伝統を全否定する必要があるのかと戸惑ったが、この幕切れはナチスとの関わりが問題視されてきたという。それを聞いてなるほどと思った。

2幕までは意外と地味で驚いたが、3幕がよかった。前奏曲も素晴らしいし、その後の音楽も心に沁みる。白眉はもちろん、ヴァルターが歌合戦で披露する
「朝は薔薇色に輝いて・・・」という歌。

かつてアマチュアオケでヴィオラを弾いていた頃、この曲の前奏曲を弾いたことがある。ラスト近くでヴィオラパートにメチャ難しい箇所があった。16分音符で
速くて、しかもきらめく管楽器の陰に隠れて客席からはほとんど聞こえない、という代物。汗をかきつつ練習した日々を懐かしく思い出した。


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