12月6日風姿花伝で、ジョン・パトリック・シャンリー作「ダウト」を見た(演出:小川絵梨子)。
2004年ブロードウェイにて、ストレートプレイとしては異例の一年以上のロングラン上演を記録し、ピューリッアー賞、トニー賞最優秀作品賞など数多くの演劇賞を
受賞した作品。1964年のニューヨーク・ブロンクスのミッションスクールを舞台に、「疑い」をめぐって繰り広げられる緊迫した濃密な会話劇(チラシより)。
ネタバレあります注意。
校長シスター・アロイシス(那須佐代子)、フリン神父(亀田佳明)、教師シスター・ジェームス(伊勢佳代)、ミラー夫人(津田真澄)の四人芝居。
学校はカトリックで、有能なフリン神父は生徒たちに人気があるようだ。
チャペルで説教もするが、男子生徒たちにバスケットボールの指導をするのも手慣れており、子供たちの気をそらさず、時に笑いを取り、そつなくこなす。
だが彼が、ある時ドナルドという黒人少年と二人だけで部屋にいたことがわかる。
しかもその後ドナルドの様子がおかしいことに、若い教師シスター・ジェームスは気がつく。
彼女から報告を受けた校長は、疑惑を抱く。
神父を呼び出し、詰問するが、彼は頭が良くて弁が立ち、うまくごまかしてしまう。
善良で経験の浅いシスター・ジェームスは、すぐに彼の言葉を信じて安心するが、校長はそう簡単にだまされはしない。
その場では一応「納得しました」と言うが、内心どうやってこの男の尻尾をつかもうかと考えている。
彼女はこの学校の生徒たちを守らねばならないのだ。
中庭の場面。薔薇に霜囲いをする校長に、シスター・ジェームスが「もう霜が降りたんですか」と言うと、校長は「降りてからでは遅いんです」と答える。
この言葉が効いている。
この後、二人が交わす、「何もなかったのかも」「何かあってからでは遅いんです」というセリフと呼応している!
校長はドナルド少年の母親・ミラー夫人と面談する。
結局、思ったほどの成果は得られなかったが、母親が出ていった後、フリン神父があわててやって来る。
ここからの二人の緊迫したやり取りが素晴らしい。
校長は勝負に出る。
彼の前任校に電話し、同僚の神父にではなくシスターの一人に彼のことを尋ねた、と神父に告げる。
神父同士は互いに守り合うから、神父に聞いても正直に答えてくれるとは限らないからだ。
それを聞いて神父の様子が変わる。
「あなたは罪を犯したことはないんですか」「それは重罪ですか」「あなたには慈悲の心はないんですか」と悲痛な声で、すがりつくように言う・・・
つまり自ら罪を犯したことを認めたのだった!
だが過去に同様の事件を起こしたことがあるとわかっただけでは、彼を辞めさせることはできない。
そのため彼女は、職を辞して訴えます、とまで言い、捨て身の覚悟であることを知らせる。
追い詰められた彼は、ついに敗北を認め、この学校を去るしか道はなくなる。
校長は最後まで落ち着いている。
「しばらくここにいて心を静めなさい。必要なら電話を使っても構いません」とまでアドバイスして自分の部屋を出てゆく。確信に満ちて。
神父は椅子に座り、呆然とするが、思い直して受話器を取り、司教に電話する・・・。
結局彼は司教の力によって別の学校に異動することになったが、それは栄転だった。
校長の力では、それ以上のことは無理だった。
だが彼女は、少なくともこの学校の生徒たちを彼から守ることはできたのだった。
校長は、シスター・ジェームスより人間をよく知っている。
特に人間の性欲、ずる賢さ。
「自分を基準にものを考えるのをやめなさい」と校長は彼女に言う。
若い女性にありがちだが、自分が性的に淡泊な場合、世の中には自分の欲望が抑えられず子供に手を出すような破廉恥な人がいる、ということが想像できないのだ。
だが校長自身も問題がないわけではない。
教育者として首をかしげたくなるような頑迷さ、(特に男子生徒に対する)偏見、不寛容に凝り固まっている。
教師が特定の教科に情熱を注ぐことをも、よくないことだと言う。どの教科も同じように扱うべきだと。
そんなことは人間的とは言えないのではないだろうか。
町で人気の可愛らしい歌のことを、異教に導く邪悪な曲、とか言う(笑)ので、真面目で素直なシスター・ジェームスはびっくりしておののく。
この辺でフリン神父の言うことはまことに人々の共感を得やすい。「我々はもっと人々に近づいたらどうでしょう」
だが校長は、「人々は私たちが遠くにあることを望んでいます」と言う。
ただ、どちらも間違っているとは言えない。
この二つの立場はいつだって教会、いや宗教界に存在するものだ。
宣教にとって、教会の敷居を低くした方がいいのか、高いままの方がいいのか。
それはなかなか難しい問題で、簡単に答えが出せるものではない。
この芝居は2008年に吉祥寺シアターで、文学座の公演を見たことがある(演出:望月純吉)。
寺田路恵、清水明彦、渋谷はるか、山本道子の座組で、戯曲の内容の濃さと迫力ある展開に心奪われ、またシスター・ジェームス役の渋谷はるかの初々しい演技に
特に感銘を受けた。
その後メリル・ストリープ主演の映画も見た。
こちらは映画ならではの描写で、やはり素晴らしかった。
そして今回。戯曲の魅力にますます引き込まれたが、一方で、特にシスター・ジェームスの造形に違和感を覚えた。
時に大声を挙げ、震え上がるといった極端で過剰な演技に客席からは笑いが起こった。
この人を笑いものにしていいのか。戯画化する必要があるのか。
これはそういう話ではないし、焦点がぼやけてしまうではないか。演出家の意図がわからない。
ただ戯曲が優れているので、シリアスな内容だが他にあちこちで笑えるシーンがある。
神父がメモ魔で、校長との会話から得た思いつきをすぐに次の説教に使おうとするのも面白い。
だが何と言っても二人の緊迫した議論が圧巻。こちらに息もつかせない迫力だ。
役者はみなうまい。那須佐代子は期待通り素晴らしい。亀田佳明も好演。
問題の男は才能に恵まれている。
弁舌の才、子供たちと親しくなれる教師としての才、言葉巧みに相手を丸め込む詐欺師としての才。
その男の罪をあばき出すためには、この校長のような大胆な人でないと難しいのかも知れない。
何しろ証拠がないのだから。
ラスト、シスター・ジェームスは校長が神父に噓をついたと聞いてショックを受ける。
校長は言う「大きな悪に立ち向かうには、神から離れねばなりません」。
厳格なヒエラルキーのあるカトリックの世界ゆえ、下の者は上の者の悪事や犯罪を知っても、また子供を守るためにそれを告発したとしても、問題を解決するのは難しい。
数十年前から欧米で大問題となっている神父による児童への性的虐待が、まさにそれだ。
そう、この芝居は、それを実にわかりやすく観客に伝わるように描き出してみせる。
しかも単なる問題提起にとどまらず、演劇としての高みにまで到達していて見る者の心を鷲づかみにして離さない。
2004年ブロードウェイにて、ストレートプレイとしては異例の一年以上のロングラン上演を記録し、ピューリッアー賞、トニー賞最優秀作品賞など数多くの演劇賞を
受賞した作品。1964年のニューヨーク・ブロンクスのミッションスクールを舞台に、「疑い」をめぐって繰り広げられる緊迫した濃密な会話劇(チラシより)。
ネタバレあります注意。
校長シスター・アロイシス(那須佐代子)、フリン神父(亀田佳明)、教師シスター・ジェームス(伊勢佳代)、ミラー夫人(津田真澄)の四人芝居。
学校はカトリックで、有能なフリン神父は生徒たちに人気があるようだ。
チャペルで説教もするが、男子生徒たちにバスケットボールの指導をするのも手慣れており、子供たちの気をそらさず、時に笑いを取り、そつなくこなす。
だが彼が、ある時ドナルドという黒人少年と二人だけで部屋にいたことがわかる。
しかもその後ドナルドの様子がおかしいことに、若い教師シスター・ジェームスは気がつく。
彼女から報告を受けた校長は、疑惑を抱く。
神父を呼び出し、詰問するが、彼は頭が良くて弁が立ち、うまくごまかしてしまう。
善良で経験の浅いシスター・ジェームスは、すぐに彼の言葉を信じて安心するが、校長はそう簡単にだまされはしない。
その場では一応「納得しました」と言うが、内心どうやってこの男の尻尾をつかもうかと考えている。
彼女はこの学校の生徒たちを守らねばならないのだ。
中庭の場面。薔薇に霜囲いをする校長に、シスター・ジェームスが「もう霜が降りたんですか」と言うと、校長は「降りてからでは遅いんです」と答える。
この言葉が効いている。
この後、二人が交わす、「何もなかったのかも」「何かあってからでは遅いんです」というセリフと呼応している!
校長はドナルド少年の母親・ミラー夫人と面談する。
結局、思ったほどの成果は得られなかったが、母親が出ていった後、フリン神父があわててやって来る。
ここからの二人の緊迫したやり取りが素晴らしい。
校長は勝負に出る。
彼の前任校に電話し、同僚の神父にではなくシスターの一人に彼のことを尋ねた、と神父に告げる。
神父同士は互いに守り合うから、神父に聞いても正直に答えてくれるとは限らないからだ。
それを聞いて神父の様子が変わる。
「あなたは罪を犯したことはないんですか」「それは重罪ですか」「あなたには慈悲の心はないんですか」と悲痛な声で、すがりつくように言う・・・
つまり自ら罪を犯したことを認めたのだった!
だが過去に同様の事件を起こしたことがあるとわかっただけでは、彼を辞めさせることはできない。
そのため彼女は、職を辞して訴えます、とまで言い、捨て身の覚悟であることを知らせる。
追い詰められた彼は、ついに敗北を認め、この学校を去るしか道はなくなる。
校長は最後まで落ち着いている。
「しばらくここにいて心を静めなさい。必要なら電話を使っても構いません」とまでアドバイスして自分の部屋を出てゆく。確信に満ちて。
神父は椅子に座り、呆然とするが、思い直して受話器を取り、司教に電話する・・・。
結局彼は司教の力によって別の学校に異動することになったが、それは栄転だった。
校長の力では、それ以上のことは無理だった。
だが彼女は、少なくともこの学校の生徒たちを彼から守ることはできたのだった。
校長は、シスター・ジェームスより人間をよく知っている。
特に人間の性欲、ずる賢さ。
「自分を基準にものを考えるのをやめなさい」と校長は彼女に言う。
若い女性にありがちだが、自分が性的に淡泊な場合、世の中には自分の欲望が抑えられず子供に手を出すような破廉恥な人がいる、ということが想像できないのだ。
だが校長自身も問題がないわけではない。
教育者として首をかしげたくなるような頑迷さ、(特に男子生徒に対する)偏見、不寛容に凝り固まっている。
教師が特定の教科に情熱を注ぐことをも、よくないことだと言う。どの教科も同じように扱うべきだと。
そんなことは人間的とは言えないのではないだろうか。
町で人気の可愛らしい歌のことを、異教に導く邪悪な曲、とか言う(笑)ので、真面目で素直なシスター・ジェームスはびっくりしておののく。
この辺でフリン神父の言うことはまことに人々の共感を得やすい。「我々はもっと人々に近づいたらどうでしょう」
だが校長は、「人々は私たちが遠くにあることを望んでいます」と言う。
ただ、どちらも間違っているとは言えない。
この二つの立場はいつだって教会、いや宗教界に存在するものだ。
宣教にとって、教会の敷居を低くした方がいいのか、高いままの方がいいのか。
それはなかなか難しい問題で、簡単に答えが出せるものではない。
この芝居は2008年に吉祥寺シアターで、文学座の公演を見たことがある(演出:望月純吉)。
寺田路恵、清水明彦、渋谷はるか、山本道子の座組で、戯曲の内容の濃さと迫力ある展開に心奪われ、またシスター・ジェームス役の渋谷はるかの初々しい演技に
特に感銘を受けた。
その後メリル・ストリープ主演の映画も見た。
こちらは映画ならではの描写で、やはり素晴らしかった。
そして今回。戯曲の魅力にますます引き込まれたが、一方で、特にシスター・ジェームスの造形に違和感を覚えた。
時に大声を挙げ、震え上がるといった極端で過剰な演技に客席からは笑いが起こった。
この人を笑いものにしていいのか。戯画化する必要があるのか。
これはそういう話ではないし、焦点がぼやけてしまうではないか。演出家の意図がわからない。
ただ戯曲が優れているので、シリアスな内容だが他にあちこちで笑えるシーンがある。
神父がメモ魔で、校長との会話から得た思いつきをすぐに次の説教に使おうとするのも面白い。
だが何と言っても二人の緊迫した議論が圧巻。こちらに息もつかせない迫力だ。
役者はみなうまい。那須佐代子は期待通り素晴らしい。亀田佳明も好演。
問題の男は才能に恵まれている。
弁舌の才、子供たちと親しくなれる教師としての才、言葉巧みに相手を丸め込む詐欺師としての才。
その男の罪をあばき出すためには、この校長のような大胆な人でないと難しいのかも知れない。
何しろ証拠がないのだから。
ラスト、シスター・ジェームスは校長が神父に噓をついたと聞いてショックを受ける。
校長は言う「大きな悪に立ち向かうには、神から離れねばなりません」。
厳格なヒエラルキーのあるカトリックの世界ゆえ、下の者は上の者の悪事や犯罪を知っても、また子供を守るためにそれを告発したとしても、問題を解決するのは難しい。
数十年前から欧米で大問題となっている神父による児童への性的虐待が、まさにそれだ。
そう、この芝居は、それを実にわかりやすく観客に伝わるように描き出してみせる。
しかも単なる問題提起にとどまらず、演劇としての高みにまで到達していて見る者の心を鷲づかみにして離さない。