ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「冬のライオン」

2022-03-29 17:18:38 | 芝居
3月15日東京芸術劇場プレイハウスで、ジェームズ・ゴールドマン作「冬のライオン」を見た(演出:森新太郎)。



1183年、イングランド国王ヘンリー二世が迎える心休まらぬクリスマス。
跡目争い、領土紛争、王妃と若き恋人の確執・・・今日こそ決着をつけようと、王妃が、息子たちが、敵国の若き王が、愛妾が、それぞれの思惑を胸に王の城に集まる。
愛と憎しみと欲望と。権謀術数渦巻く、高貴な人々の赤裸々な攻防。その結末は?
1966年にブロードウェイで初演以来、映画化、テレビ映画化され、世界の名優たちが演じてきた歴史ドラマの名作(チラシより)。

評者はこの作品を、2010年1月に平幹二郎と麻実れいの主演で見て圧倒された(演出:高瀬久男、東京グローブ座にて)。
あの時の名優たちの印象が強過ぎて、あれを超えるものはあるまい、と思い、今回いささか躊躇しつつも楽日に出かけた。
ところが!いざ幕が開くと、予想はいい方に裏切られた。

今回もバイユーのタペストリーが用いられる。
王妃エレノア(高畑淳子)はサングラスをかけて登場。彼女は夫である王によって10年間も城の中に幽閉されている。
王ヘンリー(佐々木蔵之介)曰く「俺とリア王は似ている。どちらも3人の子供がいる王だった。だが奴は王国を子供たちに分け与えた。俺はそんなことはしない」。
長男リチャード(加藤和樹)は妃のお気に入り。
次男ジェフリー(永島敬三)は、私は誰にも愛されたことがない、両親は私には無関心だ、と鬱屈を抱えている。
三男ジョン(浅利陽介)はまだ16歳。背が低く、おっちょこちょいでおつむも少々軽い。道化役のよう。
だが父王は、そんな彼をなぜか可愛がっており、王位を継がせようと思っている。
こういう家族だから、そしてそれが王家だから、これは大問題だ。
3人の息子たちの一体誰が父の王国と領土を継ぐのか?!
そこに、フランス王女でヘンリー王の愛人であるアレー(葵わかな)の弟フィリップ(水田航生)が若きフランス王として乗り込み、かつて自分の父であるフランス王が
ヘンリーと交わした約束を実行するようにと迫る。それは、アレーと長男リチャードとを結婚させるか、仏国内のアキテーヌの領土を返すか、どちらかを選ぶ
というものだった。
しかもアレーは7歳の時フランスから英国に渡り、エレノアの手で育てられたという!
まるで、ウッディ・アレンと、彼の妻ミア・ファローの養女で後にアレンの妻となる中国系少女のような関係!?
つまりヘンリーは、自分の息子のフィアンセとなるはずの少女に手を出した、ということらしい。

このように重苦しいストーリーのはずが、演出家が「王道のシチュエーションコメディ」と書いているように笑えるセリフがたくさんあり、実におかしくて楽しい。
王妃エレノア役の高畑淳子が、まるで宛て書きされたかのよう!高貴な生まれの女人のはずなのに、品のないセリフに加えてしぐさも・・・。
時代が12世紀と古いから、人々も素朴でナイーブ(荒削り)なのだ。
それに彼らが性懲りもなく繰り広げるパワーゲームは、演出家の言う通り、喜劇以外の何ものでもない。
そんな喜劇のもつ魅力を引き出すセンスが彼女には備わっている。
今までも彼女を何度か見てきたが、この日、一気に心を鷲づかみにされた。
ヘンリー王役の佐々木蔵之介ももちろんすごい。
ただ、彼は元気一杯で若々しく舞台狭しと飛び跳ね、動き回る。口では自分のことを「老いぼれ」「こんなじじい」と言うが、
(当時の50歳は、本当にもう老人だった)実にセクシー。
そこが魅力ではあるが、自分の後継者を早く決めなくては、と焦っているのを見ていると、まだそんなに焦らなくても、と思ってしまう(笑)。
それがこの戯曲の主筋なのだが。
観劇後、演出家が書いたものをよく読むと、彼はこれが「人生の冬の時期に差し掛かった夫婦の話でもあるので、彼ら二人の不屈のエネルギーを存分にお見せして、
その年代のお客さんにエールを送れるよう」と意図したという。なるほどそういうことでしたか。

客席はほぼ満席で、若い女性が異常に多い。終わると彼女らが、今日も一斉にスタンディングオベーション。誰がお目当てなのかこちとらにはわかりませぬ。
役者たちはみな熱演。王と妃はさすがの貫禄。膨大なセリフを見事に消化していた。
実によくできた芝居だ。
予想に反して、素晴らしい時を過ごすことができた夜でした。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「サンシャイン・ボーイズ」

2022-03-25 15:50:43 | 芝居
3月14日下北沢・本多劇場で、ニール・サイモン作「サンシャイン・ボーイズ」を見た(演出:堤泰之)。



ニューヨークの古びたホテルの一室で、悲惨な生活を送るひとりの男、ウィリー・クラーク(加藤健一)。元はヴォードヴィルの大スターコンビであった
ウィリーは、ひとりとなった今でも役者としての自分は終わっていないと必死にもがくものの、その気持ちとは裏腹になにもかもが上手くいかず仕事に
ありつけない。ある日、テレビ局の副社長が頭をさげてお願いするほどの大仕事を、ウィリーの甥でありマネージャーのベン・シルバーマン(佐川和正)が
持ってくる。ウィリーは当然引き受けると思いきや、出演の条件は元相棒アル・ルイス(佐藤B作)との「サンシャイン・ボーイズ」による往年の名作コント
だと聞いて出演拒否の一点張り!
喜劇の黄金時代が生んだ史上最高のコンビとまで言われたルイス&クラーク、11年ぶりの名コンビ復活となるのか!?
ラストショーの最後に待ち受けるふたりの運命は・・・?(チラシより)

加藤健一事務所創立40周年、加藤健一役者人生50周年記念公演第1弾。
ニール・サイモン追悼公演。
その楽日を見た。
ネタバレあります。注意!

11年前、相棒のアルが突然引退表明して去ったため、ウィリーはピン芸人になるしかなくなり、アルからの電話にも出ず、ずっと彼を恨み続けていた。
仕事にも恵まれず一人で古びたホテルに引きこもっている。甥のベンが彼のマネージャーを引き受け、週に一度は食料品などを届けてやっている。
一方アルは、2年前、妻リリアンを亡くし、今はニュージャージー州の娘の家に住んでいる。足が悪くなり、杖をついている。
ウィリーはセリフを覚えられず、チップスのCM の仕事もダメになる。
そんな叔父に久しぶりにテレビ局から大きな仕事が入り、ベンは大興奮。彼自身、伝説の「診察室のコント」を生で見たいのだ。
ベンは、渋るウィリーをあの手この手で説得し、承諾させることに成功する。
第2幕
診察室の書き割り。二人のリハがようやく実現し、その掛け合いのコントは少し時代を感じさせるものの、結構おかしくて笑いの連続だが、途中やっぱり
アルの「つば」と「指つつき」問題でウィリーが怒り出し、アルも言い返し、結局アルは去り、ウィリーは心臓発作を起こして倒れる。
テレビ局は仕方なく昔の録画を流す。
次のシーンはウィリーの病室。
看護師、いやこの時代に即して言えば、看護婦が常駐。あちこちに花が活けてあり、お菓子やチョコの箱が置いてある。
ベンが来て、ウィリーに、引退し、うちに来て(彼の妻)ヘレンと子供たちと一緒に暮らすか、それともニュージャージー州のアクターズホームという
引退した俳優たちのホームに入るか、どちらかを選んだらどうかと勧める。彼はすでにそこを下見してきており、いいとこだよ、とパンフレットを見せる。
そして言う、アルが毎日いろんな偽名で花やお菓子を送ってきた、ウィリーに会いたがっている、彼が倒れたことで胸を痛めている、とも。
ウィリーは嫌がるが、謝罪するなら受けよう、と急に元気になり、ベッドから降りて上着を引っ掛け、椅子に座る。
アルが来てウィリーの容態を気遣うが、ウィリーは相変わらず虚勢を張り・・・。
ラストでベッドに戻ったウィリーのそばに座り、アルは延々と昔話をしゃべり続ける。幕!

このエンディング!これは評者がこれまで「三谷式エンディング」と呼んできたものだ。思うに三谷さんは、この作品の影響を受けて、あの独特の
エンディングをしょっちゅう使うようになったのではあるまいか。

佐川和正が人のいいベンを好演。相変わらずメリハリの効いた演技で、見ていて実に気持ちがいい。
ベンの存在が、主演二人のアクの強さを際立たせると同時に、二人の間に風を送ってすがすがしい気分にさせてくれる。
加藤健一と佐藤B作のお二人には、ただもう感謝しかない。彼らの芸をたっぷり堪能させてもらった。

ある評に「ナンセンス」とあったので、評者は少々腰が引け、おっかなびっくり出かけたが、蓋を開けてみると、まったく問題なく、面白くて楽しいひと時だった。
ナンセンスもコントの中でなら全然問題ないのでした。
連発されるギャグも決して古臭くなっていなかった。
もちろん、若い女性の肉体美を強調した流れは今日ではあり得ないが、昔の作品として、観客もみんな受け止めていたようだ。
この二人の名優コンビがいてこそ実現した公演だ。
将来、彼らを継ぐ人が果たして出てくるだろうか。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「夜の来訪者」

2022-03-22 10:42:02 | 芝居
3月10日俳優座劇場で、J.B.プリーストリー作「夜の来訪者」を見た(脚本:八木柊一郎、演出:西川信廣)。



1940年(昭和15年)の春。娘の婚約者を迎え、一家団欒の夜を過ごす倉持家。そこに影山と名乗る警部(瀬戸口郁)が突然訪れる。影山はある女の死を告げ、
家族に質問を重ねていく。
初めに倉持幸之助(柴田義之)。企業の経営者である彼は、かつていわれのない理由で彼女を解雇していた。次に娘の沙千子(尾身美詞)、婚約者の黒須(脇田康弘)、
母親のゆき(古坂るみ子)、そして息子の浩一郎(深堀啓太朗)と・・・彼女はなぜ死んだのか?!
疑問を投げかけ影山は去るが、残された家族のドラマはそこから始まるのだった・・・(チラシより)。

1945年ロンドンで初演された社会派ミステリーの傑作。
ネタバレあります。注意!

影山によって次第に明かされる真実に、一家は戦慄する。
父親ばかりか娘も、その婚約者も息子も母親も、何と全員が、哀れな女の運命の転落に深く関わっていたのだった。
死んだ女は美しいばかりでなく、まっすぐな気性の持ち主だったようだ。浩一郎のくれる金が会社から盗んだものだと知ると、受け取ることを拒むだけでなく、
部屋に入れてもくれなくなった。その時彼の子を宿していたというのに。その結果、当然ながら困窮し、婦人慈善協会に助けを求めたが・・・。

あとになって皆が気がついたように、警部は死んだ女の写真を一人ずつ別々に、他の人から隠すようにして見せていた。
つまりそれが同一人物でない可能性もあるわけだ。
警察手帳も見せなかったし、娘の婚約者には写真を見せず、女の偽名を言うだけだった。
このことをどう解釈したらいいのか。謎は謎のまま残る。

初めはギスギスしていた姉と弟の関係は、この衝撃的な出来事の後、互いの心の傷を理解し合い、温かいものへと変わっている。
すべてを穏便に済ませようとする他の3人と対立する形で。

この作品は、2009年2月に紀伊國屋ホールで見たことがある。
演出は段田安則。高橋克実、渡辺えり、段田安則、岡本健一、梅沢昌代、八嶋智人ら、そうそうたる座組だった。その時のチラシには、はっきり「翻案」とあり、
それぞれの役名も今回とは違う。
内村直也氏による翻案で、舞台を1972年(昭和47年)の日本に置き換えたものだった。

今回の演出家によると、作者は冒頭のト書きで「時は1912年春」とはっきり指定しているという。
そのため、初演時(1945年)の現代ではなく、今回、脚本家はその少し前の1940年(昭和15年)に設定した由。
今回も、脚本家の名前はあるが、やはり「翻案」と書いた方がいいのではないだろうか。国も時代設定も原作とは全然違うのだから。

役者はみなピッタリ。
母親役の古坂るみ子は堂々と尊大な奥様を演じるが、少々オーバーかも。

「アカ」とか「曖昧宿」とか若い人にわかるだろうか。
劇団チョコレートケーキみたいに「用語解説」が必要かも。

ラストのひとひねりが効いている。
死んだ女は、影山がこの家を訪問した時点では、まだ死んではいなかった。影山は未来に起きることを伝えにやって来たのだった。
時間を超えてやって来た彼は、ただの怪しい男ではない。超自然的な存在だ。
よくできた戯曲だと思う。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三島由紀夫作「薔薇と海賊」

2022-03-18 11:33:39 | 芝居
3月8日東京芸術劇場シアターウエストで、三島由紀夫作「薔薇と海賊」を見た(演出:大河内直子)。



童話作家の楓阿里子邸。そこに、阿里子の童話のファンで30歳の松山帝一が訪ねてくる。帝一は、自分を童話の中の主人公・ユーカリ少年だと信じている
知的障害の青年で、後見人の額間に付き添われてやってきた。楓邸は童話の世界のように仕立てられ。阿里子は19歳の娘・千恵子にも登場人物の
ニッケル姫の扮装をさせていた。帝一はこの家にずっと住みたいと言い出し、阿里子と帝一の夢の世界のような純愛が始まる。
帝一の登場で、阿里子の夫の重政、その弟の重巳との館での生活にもひずみが生まれていくのだが・・・(チラシより)。
ネタバレあります。注意!
<1幕>
始めの方で、庭の手入れと掃除をボランティアでしている男女の老人二人が登場し、男性の方が長々と身の上話をするが、それが何とも退屈。
ストーリーとも関係ないし、ここは不要ではないだろうか。もっと短くした方がいい。
阿里子(霧矢大夢)は帝一(多和田任益)と初めて会い、彼の語ることを聴いて心を惑わされ、「あなたは危険だわ」と言う。
彼女は女学生だった20年前、重政(須賀貴匡)によって、夜の公園で襲われたのだった。その時妊娠し、激しく後悔した彼と結婚して娘を産んだものの、
彼に対しては心を閉ざし、たまたま文才があったために童話作家として成功した。夫の方は働かず彼女に養われていた。彼の弟・重巳(鈴木裕樹)も邸に居候している。
重政は浮気が公認されており、邸には彼と重巳の、それぞれの愛人たちも出入りしている。
娘の千恵子はコスプレ姿で「私は先生(=母)の秘書兼女中ですもの」と自嘲しつつも、時々母に対して鋭いことを言って母を涙ぐませる。
<2幕>
額間(大石継太)がいつも短剣で帝一を脅して言うことを聞かせている、と帝一から聞き、皆は憤って額間からその短剣を取り上げようとする。
千恵子が色仕掛けで首尾よく取り上げて帝一に渡すと、今度は逆に帝一が額間を短剣で脅し、額間は異常なほど怯える。
勝ち誇った帝一が意気揚々と阿里子と二階へ去ると、額間は残った人々にそのわけを話す。
帝一はその短剣に魔力があると信じており(元々額間がそう信じさせたのだが)、それで悪者(と彼が思う者)を本当に殺すつもりだ、というのだ。
額間は帝一の親族から後見人として彼を託されており、それを仕事としていた。

帝一はすでに大人だが、性欲がない。医者がそう言っていると額間から聞いて、重政と重巳はかえって危険を感じ、不安にかられる。
この時、なぜか二人は阿里子に惚れ直し、ますます阿里子に執着するようになる。

帝一が眠っている間に重巳が短剣を取り返し、額間に渡す。また関係逆転。
すぐに帝一を連れて帰ると言う額間に、阿里子はせめて今夜の夕食までいてほしい、と頼む。
<3幕>
正式の晩餐会風。長いテーブルにみなこちらを向いて座っている。そろそろ食事も終わりに近づき、コーヒーとデザートが出る。
重政は重巳に、これからも三角関係を続けるのか、などと話している。それぞれの会話。
玄関でピンポンと音がするが、誰もいない。皆が不思議がっていると、冒頭の老人二人が白装束で登場するが、彼らの姿は誰にも見えない。
彼らは食卓の人々にいたずらして回る。重巳にコーヒーをかけたり、重政に何かしたり。ここはマーロウの戯曲「フォースタス博士」を想起させる。
男性は、千恵子の髪をなで、額間の髪をなでる。これがきっかけで、二人はすっかりいい感じになる。
男性はまた、額間の胸の隠しから短剣を取り、ゆっくりテーブルを回り、皆があわてる中、それを帝一の手に渡す。
帝一はテーブルの上に仁王立ち。「海賊は皆殺しだ!」「額間、死にたいか?」額間は弱々しく首を振る。
千恵子は母に額間との結婚を宣言し、二人は手に手を取って出てゆく。
驚いたことに、重政と重巳も帝一から短剣を突きつけられ、結局出てゆく。
ついに二人だけになった阿里子と帝一は抱き合う。白装束の二人が祝福すると、その時初めて阿里子たちに彼らが見える。
男性は、自分たちが事故にあって幽霊になったと説明し、「これからお二人の結婚式を挙げましょう」とびっくりするようなことを言い出す。
庭に面した掃き出し窓を開けると、阿里子の書く童話に出て来るたくさんの生き物たちが登場!
みな、白や銀の衣装(扮しているのは重政、重巳、千恵子、額間、愛人たちら)。少し振り付けあり。
老人らが二人に薔薇の冠をかぶせる・・・。完!?

この戯曲の執筆のきっかけは、作者がニューヨークでバレー「眠りの森の美女」を見たことだという。
それを知って、サーッと視界が晴れた。
なるほど、そういうことか。楓先生は20年前のおぞましい事件によって愛に絶望し、その後(結婚はしたものの)夫の愛を拒絶して心を鎧で覆い、
20年間、邸で眠り続けていたところに、純粋な青年・帝一が現れて、彼の純愛によって目覚めたというわけか。

阿里子役の霧矢大夢が素晴らしい。
役者はみな、膨大なセリフをよく消化して熱演。
驚いたことに、ほぼ満席。どうも帝一役のイケメン青年が目当てらしい。

影響を受けやすい評者の脳内では、翌日「よくってよ」「・・・ですものねえ」といった具合に、当時の東京弁が流れていた(笑)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヘンデル作曲のオペラ「ジュリオ・チェーザレ」

2022-03-11 11:30:29 | オペラ
3月3日川口総合文化センター リリア音楽ホールで、ヘンデル作曲のオペラ「ジュリオ・チェーザレ」を見た(演出:中村敬一、指揮:濱田芳通、オケ:アントネッロ)。



1724年ロンドンで初演された作品。
紀元前48年、ジュリオ・チェーザレ(ジュリアス・シーザー/ユリウス・カエサル)はローマ内戦で政敵ポンペーオ(ポンペイウス)を破り、事実上ローマの頂点に立った。
逃げたポンペーオを追ってエジプトへ遠征した彼は、若き女王クレオパトラと出会う。当時のエジプトは彼女と弟の王トロメーオ(プトレマイオス13世)
の姉弟が共同統治していた。
チェーザレが重臣クーリオを伴いエジプトに上陸すると、ポンペーオの妻コルネ―リアと息子セストが来て彼の命乞いをする。そこへエジプト王トロメーオ付きの
軍人アキッラが参上し、チェーザレへの献上品としてポンペーオの生首を差し出す。味方だと思っていたエジプトに裏切られ、絶望する母子。
アキッラはそんなコルネ―リアの美貌に目を奪われる。チェーザレも、宿敵とは言えローマの偉大な指導者の虐殺は許し難く、トロメーオを非難して
アキッラを追い払う。コルネ―リアとセスト母子はトロメーオへの復讐を誓う。
クレオパトラは従者ニレーノからトロメーオの残忍な仕業を聞き、自分の方が王にふさわしいと、トロメーオと王座をめぐって姉弟けんか。トロメーオも
チェーザレへの貢ぎ物が失敗したことを知り、チェーザレを逆恨みする。
クレオパトラはリディアという名の侍女に扮してチェーザレのもとに乗り込み、彼をメロメロに誘惑する。
コルネ―リア母子はトロメーオの前で復讐を宣言するが、あっけなく捕らえられてしまう。アキッラと同様、トロメーオもコルネ―リアが気に入り、彼女に言い寄るが、
もちろん彼女が従うはずがない。母子は別々に幽閉される。コルネ―リアはアキッラの求愛をきっぱり拒絶し、セストとの別れを悲しむ。
ここで前半終了。
今回、ここに日本語の幕間劇が挿入される。敵方のはずのアキッラとクーリオが酒盛りしている。そこにニレーノも加わり、3人で上司の悪口を言い合い盛り上がる。
後半。
チェーザレはシトロンの森でリディア(に扮したクレオパトラ)に会い、すっかり魅了される。
幽閉されているコルネ―リアは、まだアキッラとトロメーオにしつこく求愛され、拒絶し、トロメーオに「無粋な女」となじられる。
クレオパトラの寝室でチェーザレとリディア(クレオパトラ)が逢瀬を楽しんでいるところに、トロメーオ一派がチェーザレ攻めを決めた、とクーリオが
駆け込んで来る。戦いに出るというチェーザレに、クレオパトラはうっかり自分の正体を明かしてしまう。驚くチェーザレ。
セストはトロメーオの部屋に忍び込み、刺そうとするが、アキッラが彼を捕まえる。アキッラはチェーザレが海に落ちて死んだと告げ、褒美にコルネ―リアを
所望するが、トロメーオにすげなく断られる。愕然とした彼は、クレオパトラ軍に寝返ることを決める。
クレオパトラ軍とトロメーオ軍が衝突し、トロメーオ軍が勝利する。捕虜となったクレオパトラは弟にさんざん罵倒され、我が身の不幸を嘆く。
チェーザレは海で死んだと思われたが、助かっており、一方アキッラは瀕死の重傷を負っていた。セストとニレーノはアキッラから懺悔を聴き、勝利の要である
印章を受け取る。2人はチェーザレと共に、コルネ―リアとクレオパトラ救出のために王宮へ向かう。
クレオパトラは死んだと思っていたチェーザレと再会し、喜ぶ。風向きが変わった、と勝利を確信する二人。
トロメーオの部屋では、コルネ―リアがしつこく言い寄るトロメーオに刃を向けていた。そこにセストが突入。トロメーオを倒してついに悲願の復讐を果たす。
アレクサンドリアではみなが勝利を祝っている。チェーザレはクレオパトラにエジプトの王位を戴冠。二人は愛と忠誠を誓い合う。<終わり>

バロックオペラゆえ、繰り返しが多い。旋律は美しいが、やはり現代人にはつらい。
もちろんそこを何とかしようと、今回も映像を駆使して楽しませてくれている。正面の大きなパイプオルガンとその周囲の壁一面に青い海原が現れたり、また時には
そこが緑や金色の美しい映像で覆われる。クレオパトラがチェーザレを魅了する場面では、薔薇を中心に一面濃いピンクに。ある時はまた、緑溢れる森や果樹園に。

歌手はエジプト側が断然すごい。
まずクレオパトラ役の中山美紀が素晴らしい。
ニレーノ役の彌勒忠史も絶品。演技も素晴らしく舞台を席巻。客席を大いに沸かせてくれた。
アキッラ役の黒田祐貴は背も高く舞台映えし、声もよく、また後半、挫折し悲劇的な最期を遂げる人物にふさわしい。
チェーザレ役の坂下忠弘は、見るからに誠実で優しそうな好青年で、とても女たらしと評判のシーザーには見えない。それがちょっぴり残念だが、
ラブロマンスの主人公としては申し分ない。

幕間劇で、日本語での他愛ない会話が繰り広げられる。こういう面白い演出の工夫がありがたい。

字幕がたまにひどい。「寝って」とか「・・したです」とか。

ストーリーは史実とはだいぶ違うらしい。
コルネ―リアはポンペーオの5番目の妻ではあるが、セストの母ではないとか。
このオペラの内容は、当時のイギリスの王位継承問題に密接に関わっているらしい。
つまり、その時の時事問題について政治的な主張を宣伝することに主眼があり、そのために歴史や神話を素材として使ったに過ぎないという。
パンフレットの三ヶ尻正氏の解説を読むと、面白くはあるが、、実に複雑・・。
だが、それを知っていなくてもオペラとして十分楽しめるのだから助かる。

当時は貴族たちが長々と飲み食いしながら鑑賞していたという。ちょうど昔の歌舞伎見物みたいに。
だからこんなに繰り返しが多くても問題なかったわけだ。
だがまさか現代で、飲み食いしながらというわけにはいかないでしょうねぇ。

それはともかく、次から次へと素晴らしいアリアが続いた3時間半。
演出家の親切な工夫と歌手たちのおかげで、バロックオペラの魅力を堪能しました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「シラノ・ド・ベルジュラック」

2022-03-05 11:17:15 | 芝居
2月16日東京芸術劇場プレイハウスで、エドモン・ロスタン作「シラノ・ド・ベルジュラック」を見た(脚色:マーティン・クリンプ、演出:谷賢一)。



17世紀フランスに実在した、詩人にして剣豪であるシラノを主人公にしたエドモン・ロスタンの戯曲。
シラノは鼻が異常に大きいことがコンプレックス。
従妹ロクサーヌに想いを寄せているが、そのために、どうしても気持ちを伝えることができない。
そんな彼にロクサーヌが、二人きりで話がしたい、打ち明けたいことがある、と言い出すので、彼はつい期待してしまう。
だが彼女は、彼の部隊に新しく入った青年クリスチャンに一目ぼれしてしまい、シラノに対してクリスチャンを守ってほしい、と頼むのだった。
クリスチャンもロクサーヌに惹かれるが、彼女は文学を愛する女性で、恋の相手にも美しい言葉で求愛することを要求する。
ところがクリスチャンは女性相手にうまく話すのが苦手。まるで言葉が出て来ず、呆れられ、嫌われそうになり、絶望する。
そこでシラノが一計を案じる。彼は詩人であり、言葉を操ることにかけては誰にも負けない自信があるのだ。
シラノが台本を書き、クリスチャンに覚えさせ、話させると、ぎこちないが、何とかうまく行き、ロクサーヌも満足する。
だが戦争が起こり、二人共戦場へ。シラノはそこでも毎日ロクサーヌに手紙を書き続け、危険をも顧みず戦場を通って届け続ける。
ロクサーヌは手紙の主(だと誤解している)クリスチャンへの思いが高まり、戦場へ赴き、今ではあなたの見た目を愛しているのではなく、あの手紙に
書かれたあなたの心を愛しているのだ、と告げる。クリスチャンはそれを聞いてショックを受け、絶望し、シラノに、本当のことを彼女に告げるべきだ、と言う。
だがシラノがそれを言えないでいるうちに、クリスチャンは敵の砲弾に当たって・・・。

冒頭、人物紹介をラップで少々。シラノとロクサーヌなど。
舞台は階段状になっていて客席を向いている。
劇中劇の「ハムレット」で、主演の人気俳優がシラノから見ると下手くそなので、シラノが剣を抜き、相手も抜いて切り合いになる場面で、二人共剣を持っていない。
いわゆる「エア」。シラノが相手を倒し、劇場支配人が怒り出すと、彼は大金を払って弁償するが、これもエア、と言うか、払うふりやもらうふりといった動作すらない。
なぜこんなことをするのか不明。奇をてらっているとしか思えない。
評者は剣も見たいし、金を渡すシーンも見たい。この芝居を初めて見る観客の方々にとっても、その方がはるかに親切だろう。

新入りのクリスチャンが、部隊の男たちから忠告されているにもかかわらず、わざと「ハナ」という音を強調してシラノに話しかける。
みんなあわてて止めようとするが、次々にハナという語を使って話しかける。この青年、見かけによらず頭の回転が早いらしい。度胸もある。
ところがシラノは、クリスチャンのことをよろしくとロクサーヌに頼まれているので、全然気にしないそぶり。みなびっくり。
だが、この面白い場面で、クリスチャン役の人の言い方が、「ハナ」という語を独立させて発音するので、かえってセリフの意味がわかりにくい。
ここは普通に発音した方がいい。これは演出家への注文です。

ロクサーヌとレジが勇敢にも馬車で戦場に乗りつける場面でも、彼女らが持参する、食料のいっぱい詰まったバスケットがない。
飢えた兵士たちが喜んで飲み食いする場面も、すべてエア!と言うか、その動作すらない。この辺で不満がつのってくる。

驚いたのは、邪悪なド・ギーシュが「みなに悪いことをした」と反省すること!なぜこの男が反省する?原作ではもちろんこんなシーンはない。

クリスチャンは絶望して前線に立ち、敵の砲弾に倒れる。だが舞台ではいつまでも立ったまま。なぜ倒れない???早く倒れてくれ!
彼が倒れるシーンを目の当たりにすることで、我々観客は、ただイケメンなだけでなく一途で心根の美しかった彼の不運に涙することができるのだが。

こんな風に書き連ねてゆくとキリがない。とにかく、今回の脚色と演出には失望を通り越して啞然、呆然、開いた口が塞がらない。
後半では、さらにおぞましいものを見聞きしてしまった。
おそらく原作を知らないであろう若い女性客たちはスタンディングオベーションだったが、これが「シラノ」だと思われては困る。
途中で帰った方がよかったかも。
かつてシェイクスピアの「十二夜」の上演で、あまりの改悪に、怒り心頭で休憩中に席を蹴って帰ったことがあった。
今回も、原作の素晴らしいセリフをごっそり削って、凡庸な言葉をたっぷり聴かされてしまった。
脚色のマーティン・クリンプという人は1956年生まれの由。
想像するに、中年の彼は、原作のままでは若い人に受けない(理解できない?)だろうと思って、こんな改悪をあえてしたのだろう。
だが、若い人を侮っているのではないだろうか。
さらに言えば、文学の、言葉の持つ普遍的な力を信じていないのではなかろうか。
これがローレンス・オリヴィエ賞の最優秀リバイバル賞を受賞したというのだから驚きだが、その賞も大したことないんだな、とわかった。

ただシラノ役の古川雄大はうまい。この人を知ることができたことだけが今回の収穫。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする