ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「夏の夜の夢」

2021-10-25 10:25:25 | 芝居
10月11日吉祥寺シアターで、シェイクスピア作「夏の夜の夢」を見た(演劇集団 円公演、翻訳:松岡和子、上演台本・演出:鈴木勝秀)。
アテネの公爵の前に若い娘ハーミアが引き出される。彼女は父の決めた婚約者ディミートリアスがありながら、ライサンダーという青年と恋に落ちたというのだ。
父親は古いアテネの法律を持ち出す。それによると、娘は死刑か修道院に入るか、二つに一つしか道はない。公爵は、一週間後の自分の結婚式までにどちらかを選ぶよう
娘に告げる。ライサンダーとハーミアは、森でおちあって遠い町に駆け落ちすることにする。そこにディミートリアスに恋する娘ヘレナが来る。
二人は彼女に駆け落ちのことを打ち明けて去る。ヘレナはそのことをディミートリアスに教えたら、彼はきっとハーミアを追って森に行くだろうと思うが、それでも
好きな彼に会って彼を追いかけるという倒錯した喜びのために、教えることにする・・。
一方、森を支配する妖精界では妖精の王と女王が諍い中で、王は妖精パックを使って女王である妻にいたずらしようとする・・。
また、庶民の側では、職人たちが、公爵の結婚式の余興に、素人芝居を披露すべく、稽古を始める・・・。

その千秋楽を見た。
上演台本ゆえ、だいぶ刈り込んでいる。そして、その代わりに細かいところを繰り返したり、間を持たせたりと、例によっていじくっている。
今回は「正攻法で」行く、という話だったが。

衣装は、妖精たちが真紅で統一されていてわかりやすいが、その代わり、全然妖精らしくない。

2組の恋人たちのセリフの早口なこと。頑張って覚えてきたから全部吐き出すぞ、という感じ。
愛する人への賛美の言葉には形容詞も多い上に、「ダフネがアポロを追いかける」といった、日本人にはあまり聞き慣れない表現があり、咀嚼し理解するのに時間がかかる。
だから、もっとゆっくり大事に口にしてほしい。ドタバタ劇のようになってしまうのではつまらない。
シェイクスピア劇はセリフを味わうものだ。

妖精の女王ティターニアの寝床がない!ここはどんなにシンプルな舞台でも、精巧に作り込んだ見事なベッドが出現するものだが。
緑の葉と花々で一杯の、柔らかそうな、ふかふかの大きなベッドに、ロバ頭のボトムが招き入れられると、観客も夢の世界に引き込まれるのだが。
そこに手間を惜しまないでほしい。

ティターニアが妖精たちに、ボトムをもてなすよう命じると、みな嫌そうにして言うことを聞かなかったりする。
こんな演出は初めて見た。あまりに人間的。妖精なんだから下手な小細工はせず、原作のままでいい。

ロビンが間違えて、すでに相思相愛の方のライサンダーの目に惚れ薬を垂らしてしまい、かえって大騒動を巻き起こしたことが判明し、それを妖精の王オーベロンに
咎められると、彼は王の指示に忠実に従ったまでだ、と言い返し、王もさすがに憮然として、そうか、確かに、と納得する。そこが今回の演出で一番気に入ったところ。
原作にはこのシーンはないので、原作を適切に補ってくれているのだ。

職人たちのシーンは日本人には難しい。うまくいったためしがない。今回は歌舞伎調も加え、何とかこの難所を乗り切ったという印象。

役者では、ティターニア役の吉田久美が素晴らしい。

この演出家は、2014年上演のベン・ジョンソン作「錬金術師」で、余計なシーンをやたらと付け加える人だと思ったが、今回は「正攻法で」行く、というので
見ることにした。なぜ上演台本にするのかと思ったが、確かにこの芝居の場合、差別語が頻発するし、やたら冗長だし、そうしたい気持ちはよくわかった。




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The Weir -堰-

2021-10-16 10:56:02 | 芝居
9月22日 Pit 昴で、コナー・マクフィアソン作「The Weir -堰-」を見た(劇団昴公演、演出:小笠原響)。

アイルランドの片田舎にある小さなバー。夜な夜なその止まり木にとまる男たち。ある日、ダブリンからこの町に越してきた女がやってくる。
小さなバーに風が吹き、暖炉がぼんやりと夜のとばりを照らす頃、男たちは時の記憶を手繰り寄せ、埋もれた日々を語り始める。
4人の男、そしてひとりの女と妖精たち。今夜も人々の物語が紡がれていく・・・(チラシより)。

幕が開くと、そこはこじんまりした酒場。壁際に酒瓶がたくさん並んでいる。カウンターと、いくつかの椅子とテーブル。暖かい色調が心地良い。
常連客が三々五々やって来る。その中の一人が、都会から引っ越してきた若い女性を連れて来たものだから、酒場はいつもとは違ったムードに。
男たちはどういうきっかけからか、地元に古くから伝わる怪奇譚を語り始める。
すると、誰も予想していなかったことだが、最後に女性が自分の身に起こったことを語り出す・・・。

アイルランドというところは、超自然的な存在が身近に感じられる場所のようだ。
人々は話好きで、物語を互いに語り合うという文化的伝統が長く受け継がれているという。

彼らは話をしながら、とにかく驚くほどよく飲む。それも主にビールを。
今ではノンアルコールビールがあるから臨場感があるが、少し前だったら、こんな芝居では、なかなか難しかったことだろう。
麦茶やアイスティーだったら泡も出ないし。

作者はかつて見た「海をゆく者」(Seafahrer、2009年上演 ) の作者だった!
小日向文世さんがキーパーソンの役で、平田満、吉田鋼太郎らが出てて。
実に懐かしい。また見たくなった。

帰宅後、夜一人でいると、物音にびくつく自分がいたw。どうもこういう芝居は後が怖くていけない。
2015年に「ウーマン・イン・ブラック」(スーザン・ヒル原作、勝村政信と岡田将生の二人芝居)を見た後も大変だった。


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「グッドピープル」

2021-10-09 15:01:37 | 芝居
9月15日亀戸文化センター カメリアホールで、デビッド・リンゼイ=アベアー作「グッドピープル」を見た(演出:鵜山仁)。
ネタバレあります注意!!

マーギー(戸田恵子)はマサチューセッツ州のサウスボストンに住む中年のシングルマザー。1ドルショップのレジ係として働きながら、早産により障害を持って生まれた
30代の娘ジョイスを養っている。そんなある日、遅刻の多さから勤め先をクビになってしまったマーギー。突如収入が断たれ、途方に暮れる彼女は、ジョイスの面倒を
見てもらっているアパートの大家ドッティ(木村有里)と高校の同級生ジーン(阿知波悟美)に相談を持ち掛ける。するとジーンから、高校時代の恋人マイク(長谷川初範)
が医師として町に戻って来ていることを知らされる。意を決したマーギーは、仕事を紹介してもらおうとマイクに会いに行くが・・・(チラシより)。

2011年に上演されたブロードウェイ版では、同年のトニー賞でフランシス・マクドーマントが主演女優賞受賞とのこと。
まず予備知識として頭に入れておくべきこと。
マーギーが暮らすサウスボストン(通称サウシー)は、今ではお洒落スポットとして人気だが、その昔はギャングやマフィアが横行する犯罪都市として知られていた。
逆にマイクが暮らすチェスナットヒルは、ボストンの隣町ブルックライン(大統領ジョン・F・ケネディの生誕地)にある高級住宅地の由。

マーギーはお気楽で楽天的な性格で、遅刻が続けばクビだと警告されていたにもかかわらず、とことんまで追い詰められないと問題解決に向けて行動しない。
友人たちがいるため何とかなると思っているふしがある。だが追い詰められると、けっこう図々しい振る舞いに出る。
マイクの妻ケイト(サヘル・ローズ)は黒人で大学教授。2人目の子供がほしくて不妊治療中だが、そのことで夫とギクシャクしている。
この人は実に好感の持てる女性で、突然押しかけて来たマーギーに対しても、終始フレンドリーな態度だが・・・。

見終わって、謎が残る。なぜマーギーは32年前(高校生の時)、お腹の子の父親がマイクだと知りながら、それを彼に告げず、自分から別れを切り出したのか。
彼の大学進学の邪魔になると思って身を引いたのか。その後もなぜ手を尽くして彼に連絡しようとしなかったのか。
にしても32年は長い。今さらだが、それでもなぜ最後まで噓を貫くのか。しかも彼の現在の暮らしを壊したくないからだとしたら、それは美しい犠牲的行為であり、
感動的だが、それにしては激しく意地悪くしつこく、彼と妻との関係をかき乱すではないか。
娘ジョイスのことを考えても、マイクが実の父親だとしたら、二人を会わせるべきではないだろうか。
彼にはそれを知る権利がある。たとえどんなに狼狽し、困惑するとしても。

最後の場面で、舞台上方に大きな金色の十字架がきらめき続ける。実に意味深。演出家の意図は明らかだ。
やはり、彼女の選んだ行動を、自分を犠牲にする勇気ある行為としてとらえ、感動してほしいようだ。
マーギーの行為は善意から出たものだから神様がこれからも見守ってくれる、周囲も(ビンゴで得た賞金を貸してくれたスティーヴィーのように)彼女の苦境を
放ってはおかない、何とかしてくれるさ、ということを表しているらしい。
だが評者にはどうしても納得いかない。
ケイトが言う通り、子供のためを思えば、マイクに連絡したはずではないか。

マイク役の長谷川初範は発声が変。日本語の発音も外人ぽくて変だ。練習してほしいが、今頃言っても遅いか。
マーギー役の戸田恵子は期待通り達者なもの。
ケイト役のサヘル・ローズも好演。

長い。初演が2011年だから、それほど古くないのに、繰り返しが多くて現代の我々には退屈。
特にビンゴのシーンがやたらと長くて苦痛。何とか切り詰められないか。

格差が大きなテーマ。
「サウシー出身で医者になった初めての男」マイク!
片や高校中退のマーギー。
マイクのことを「あなたは運が良かっただけ」と意地悪く決めつけるマーギー。
ただ運が良くて環境に恵まれていただけで現在の幸せを手に入れたと思われ心外なマイクは、自分としても相当努力したんだ、と言い返す。
マーギーは、自分の歩んで来た道に「選択の余地はなかった」と主張する。
いずれにせよ観客としては、マーギーのあからさまな嫌がらせを聞かされて、あまりいい気分ではない。
彼としては、かつて彼女にひどい仕打ちをしたわけでもないに、なぜ32年もたった今、こんな目に合わないといけないのか、わけが分からないだろう。
下層階級からのし上がった者に対するひがみとしか言いようがない。

蛇足だが、マーガレットの愛称は Maggie やMargie などたくさんあるが、母音が短い前者はマギー、長母音の後者はマージ―と発音する。
細かいことを言うようだが、この戯曲の主人公の場合、マーギーでなく、マージーと訳すべきだと思う。







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「熱海殺人事件」

2021-10-05 10:50:41 | 芝居
9月3日文学座アトリエで、つかこうへい作「熱海殺人事件」を見た(演出:稲葉賀恵)。ネタバレあります注意!

熱海の浜辺で一人の女性が殺された。「くわえ煙草伝兵衛」の異名をとる部長刑事・木村伝兵衛(石橋徹郎)と、富山から赴任してきた新任刑事・熊田留吉(上川路啓志)、
そして婦人警官のハナ子(山本郁子)は、容疑者・大山金太郎(奥田一平)を取り調べる中で、事件を「華麗に」改ざんしていく・・・。

1973年に、つかが25歳の若さで文学座に書き下ろし、翌年、最年少で岸田國士戯曲賞を受賞した不朽の名作。
今回、初演版台本を再構築し、48年ぶりに文学座アトリエで上演の由。

伝兵衛は終始ハイテンションで、「警察の捜査方法に実存主義を導入したのは私なんだよ」と自慢するw。
熊田刑事も負けてはいない。「昨日ママンが死んだ。」熱海の海辺で、熱い砂、まぶしい太陽に興奮したのか、唐突にカミュの「異邦人」冒頭の有名な文句を口走るw。
ハナ子も被害者である女工・山口アイ子に扮し、容疑者・金太郎を相手に、事件当日の場面を何通りも再現する・・・。

4人とも熱演。と言うか、この芝居は、熱がないと上演できない!
ベテランの3人は当然うまいが、金太郎役の、若い奥田一平がうまいのには驚いた。
この役は意外と難しい。何度も気持ちが揺らぐし、後半、せっかく嫌疑が晴れて(いや、正確には彼の自供が刑事らの求めるイメージに反していたため)「もう帰っていいぞ」と言われたのに、「ちょっと待ってください」と言って、逆に自分が犯人だと主張し始める。この難役を、彼はなかなかの説得力で表現して見せる。

キャスティングもいい。石橋徹郎の鬼気迫る演技と言い、他の3名の適材適所な配役と言い、文学座の実力を(久々に)感じさせた。

時代が少々古いので、ブスなどという差別語や、工員や女工に対する侮蔑の発言など、現代の芝居では決して聞かれなくなった言葉が頻発する。
富山弁と長崎弁が出てくるが、長崎弁の方は、例によって変だ。どこの言葉かと思った。

初演当時は教養主義というものがあったから、「異邦人」だの実存主義だのは、大学生なら誰もが知っていたし、しかもみんな大いに関心を抱いていたから、
途中何度も爆笑が起こったことだろう。今日では、さてどんなものか。我々シニアは大いに楽しませてもらったが。

ラストの伝兵衛のセリフが生演奏の音でかき消されて一部聞こえなかった。わりと重要な箇所なのに。
それと、ここのセリフの言い方を、もっと工夫してほしい。すべてが彼の妄想だったということが、観客にはっきり伝わるようにした方がいいと思う。
これは演出の問題だが、彼の狂気が伝わるようにしないと。この芝居の、そもそもの意味と構造が、ここで初めて観客に明かされるのだから。

あの頃の熱い空気が懐かしくなった。初演を見ていたら、さぞかし興奮したことだろう。残念だが、今回見られただけでもよしとせねば。
熱に浮かされた芝居を存分に楽しむことができた。
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