ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「幽霊たち」

2011-07-26 15:32:28 | 芝居
6月28日パルコ劇場で、ポール・オースター作「幽霊たち」をみた(構成・演出:白井晃)。

枠構造。一人の男が或る物語を語り始める。ブルーという名の私立探偵(佐々木蔵之介)がホワイト氏(奥田瑛二)に依頼され、
ブラック氏(奥田瑛二)を見張ることになる。ブラック氏のアパートの向かいのアパートに用意された部屋に行ってみると、
机といすとタイプライターまで置いてある。彼は目的が分からぬまま、その部屋に引っ越し、恋人(市川実日子)に電話して、
仕事でしばらく会えなくなる、と告げる。
ブラック氏は一日中読書するかタイプライターで何かを書くばかり。何の変化もなく2か月がたち、彼はさすがに苛立ってくる・・・・。

この主筋の中に、いくつかの脇筋があり、それらが面白い。主人公がかつて解決した2つの事件。監視の仕事にうんざりした彼が外出し、
映画館で見る映画の内容。ホーソーンの短編の中に出てくる風変りな話・・。

彼の父は刑事だった。父は或る事件で犯人を深追いし過ぎて殉職したのだった・・。

謎解きを期待していると肩すかしを食う。カフカ的迷宮に迷い込んだよう。これもまた不条理。
しかし、とびきりスタイリッシュな舞台とスピーディな展開に目を奪われ、充分楽しめた。
映画のストーリーが舞台で繰り広げられる時は、いかにも映画音楽らしい音楽が流れて臨場感が溢れる。
ただし、あそこまで役者たちに多様で細かな動きを覚えさせる必要があるだろうか、とは思った(マクバーニー演出の「春琴」でも感嘆しつつ感じたことだが)。


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「モリー・スウィーニー」

2011-07-17 08:56:30 | 芝居
6月16日シアタートラムで、ブライアン・フリール作「モリー・スウィーニー」をみた(演出:谷賢一)。

チラシのあらすじを読んだだけでストーリーが予想できることがたまにある。
モリーは生まれつき目が見えない。彼女の夫フランクは彼女に光を見せたかった。「元天才眼科医」ライスは彼女
の手術を成功させて、人生の光を取り戻したかった。3人は困難な手術に挑むことを決める。「失敗したところで、
何も失うものはない」と。
手術は成功し、モリーは初めて世界を目で見る。40年間見えない世界に生きてきた彼女には何が見えるのだろう。

モリーの父は裁判官、母は神経を病んで入退院を繰り返していた。モリーは生後10か月で視力を失った。盲学校
には行かなかったが、41歳でフランクと出会った時(まさに彼女にとっては運命の出会いだった。この男とさえ
出会わなければ、・・と思わざるを得ない)、彼女はスポーツクラブでマッサージ師として働き、友人もいて、
水泳を楽しみ、自分に自信のある落ち着いた女性だった。何一つ欠けた所はなかった。なのに夫と医者は「手術
の結果、仮に失敗したとしても、彼女に失うものなどない」と考えたのだった。

手術が成功し、目が見えるようになったモリーのもとに夫がやってくると、彼女は「私どう見える?変じゃない?」と聞く。
これは変だ。普通逆だろう。
初めて彼女から見られる立場に立った夫の方はもっと緊張するだろうし、彼女の方は初めて見る夫の姿をしげしげと見つめるはずではないか。
こういう場合、自分が人からどう見えるかを気にするだろうか。
例えば「フランク、あなたがフランクなのね・・・」とか言うのではないだろうか。

モリー役の南果歩は声も顔も美しく、熱演だが、残念ながらセリフが時々聞こえない。語尾を飲み込む癖がある。
たとえば「イランのヤギ」が「イランのヤ」、「モリー・スウィーニー」が「モリー・スウィー」という調子。
こういう箇所はこちらが想像力を働かせて補ったが、他に補えなかった箇所がいくつもあった。演出家は気をつけてダメ出ししてほしい。
ライス医師役の相島一之は舞台出身だけあってさすがに聞こえないセリフはほとんどなかった。ただし、後ろを向いて「神よ・・」と祈る部分だけは
残念ながら聞き取れなかったが。
夫フランク役の小林顕作は面白いが、声が時々大き過ぎて割れてうるさい。定職につかず、大人になりきれない夫を好演。
こういう男性、いかにもいそうだ。この役は役者が変わればだいぶ印象が変わってくるだろう。
果歩さんは感情過多。まず基本にしっかりした発声があって、それからそこに肉付けしていくべきではないだろうか。
それでも、泳ぐことの楽しさを恍惚として語るあたりは真に迫っていた。

ラストは主役にとって大変な趣向が凝らされている。

この女性は遺伝的に精神病の危険性を抱えているのだから、術後の精神的ケアが特に重要であることは、医師も予測できただろうに。

途中、ものを見るということについての哲学的考察が披露されたのには面食らったが、なかなか興味深かった。
風変りな夫の造形、そして人生に挫折した医者の造形は深みがあり、説得力がある。

だがいずれにしても、この脚本には致命的な欠陥がある。
先ほども触れたように、女を見られる対象としてしか捉えていない、信じ難い偏りに、大きな違和感を感じた。
女も「見る主体」なのだ。特にこの話は、女が視力を回復する話ではないか。
初めて自分の夫を見た時に何も感じないはずがあろうか。男である作者の想像力のなさが情けない。


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井上ひさし作「雨」

2011-07-08 22:52:30 | 芝居
6月13日新国立劇場中劇場で、井上ひさし作「雨」をみた(演出:栗山民也)。

江戸は両国、大橋のたもと。雨宿りに入った金物拾いの徳(市川亀次郎)は新顔の浮浪者から「喜左衛門さまでは?」と声をかけられる。どうやら平畠藩の紅花問屋「紅屋」のご当主、喜左衛門と間違えているらしい。莫大な財産と平畠随一の器量よしの女房おたか(永作博美)を残して行方が分からなくなっていると聞き、本物の当主になりすまそうと江戸をあとにする徳。北へ向かうにつれ変わってゆく言葉に戸惑いながらも、喜左衛門として一世一代の大勝負を打つ日々が始まる・・。

山形への道中少しずつ言葉が変わるのに閉口する徳。このあたり、実に井上ひさしらしい。
紅屋にたどり着くと、天狗にさらわれた旦那様が帰ってきたと皆大騒ぎ。しかし顔や姿はそっくりでも何せ全くの他人。知らないことや分からないことが
いろいろ出てくるが、危なくなると何とかごまかして、徳は無事おたかの夫におさまる。見ているこちらはひやひやさせられるが、後半、女郎花虫(梅沢昌代)の
一言のセリフから謎が生まれる。その謎が、最後のシーンで雲が晴れるように一気に解き明かされる、その快感。
これまで見た井上ひさし作品の中で最高に面白い。

音楽は井上ひさしの芝居には珍しく、ストイックで全く問題なかった。鈴などを使うのみ。ただ、冒頭の歌は退屈だった。

残念ながらよく分からない点もある。喜左衛門はなぜ花虫に大事な帳面を預けたのか。徳が彼女に殺意を抱くための苦肉の策としか思えないが。
それに、行方不明の彼が見つかったという噂を彼女が耳にしていなかったということも考えにくい。
言葉(東北弁)が難しかったからよく理解できなかったのかも知れないが・・。

訳も分からず大きな陰謀に巻き込まれてしまった男の哀しさが胸に迫る。
役者はみな達者。主演の市川亀次郎も永作博美も期待通り素晴らしかった。

またしても東北弁を滝のように浴びて、しばらくは頭の中を回っていた。何と美しくて面白い言葉だろう。東北弁恐るべし。
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