ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「尺には尺を」

2016-07-15 22:49:22 | 芝居
6月7日彩の国さいたま芸術劇場大ホールで、シェイクスピア作「尺には尺を」をみた(演出:蜷川幸雄)。

今回、図らずも蜷川さんの追悼公演となってしまった。

ウイーンの町を治める公爵(辻萬長)は全権をアンジェロ(藤木直人)に委任し、国外へ出る。実は公爵は修道士の姿に変装して国内に留まり、
権力が人をどう変えるのか観察したいと思ったのだ。公爵の統治下で法に寛容であったことに不満を持っていたアンジェロは、町を厳しく
取り締まる。折悪しく、クローディオという若い貴族が、結婚の約束をした恋人ジュリエットを妊娠させてしまう。厳格な法の運用を決めた
アンジェロは、「結婚前に関係を持つことは法に反する」と彼に死刑を宣告する。クローディオの友人ルーチオは、修道院にいるクローディオ
の妹イザベラ(多部未華子)を訪ね、アンジェロに会って兄の死刑の取り消しをするよう頼む。兄思いのイザベラはアンジェロに面会し慈悲を
求めるが、何とアンジェロはイザベラに恋をしてしまい・・・。(チラシより)

一言付け加えると、彼は恋したのではないと思う。ただ一度肉体関係を持つことだけを望んだのだから。それを言うなら情欲でしょう。

アンジェロ役の藤木直人は熱演だが、セリフの言い出しに力が入り過ぎて、やや生硬。
イザベラ役の多部未華子は全体に声が高過ぎるし、一本調子。
音楽は多過ぎる。特にアンジェロの最初の独白のバックにしみじみとした曲を流すのはいただけない。せっかくの場面に陳腐な色をつけて
しまった。
翻訳は松岡和子。「人は時にエンジェルのように・・・」というセリフが面白い。アンジェロという名前と響き合うように、敢えてこう
訳したのだろう。

演出の工夫のせいか、何度も笑いが起こる。クローディオと妹のイザベラの面会のシーンで何度も笑ったのは初めて。人一人の命がかかっている
というのに、と違和感が残ったが。総じて明るい。

公爵役の辻萬長はいつもながらうまいが、修道士に化けている間、妙に軽く明るいのが気になった。変装がバレないためかとも思うが、仮にも
公爵があんな振る舞いをするだろうか。

相変わらず大事なセリフの直後に雷鳴のような効果音が入るのは、蜷川演出の特徴だから仕方がないが、やっぱりやめてほしい。

この作品は蜷川さんの遺作にふさわしく、ラストも明るく終わる。イザベラに向かって公爵が「私の妻になってくれ」と、皆がえっと驚く
ような申し出をすると、多部イザベラは微笑んで彼の手を取る!普通は言われた側は無反応で、公爵は少し(虚しく)待ってから次のセリフに
移るのだが。
また、死刑を免れたクローディオは身重の愛人ジュリエットと抱き合うが、自分を見捨てた妹イザベラとは手も握らず冷たく無視することが
多いが、ここでは妹ともしっかり抱き合い、さらに高く抱き上げる。

冒頭とラストで、白い衣のイザベラが一羽の白い鳩を手で包んで舞台奥から登場し、鳩を大空に放つ。無垢の象徴。

訳が違うせいか(評者の手元にあるのは小田島訳)、特に後半で新鮮な印象を受けた。

役者について。
立石凉子はとにかく声がいい。この人の声はどんな衣装をつけていてもすぐにそれと分かる。今回は修道院長と女郎屋の女将の役など。
シェイクスピア劇に欠かせない役者だ。
マリアナ役の周本絵梨香(さいたまネクストシアター)は初めて見たがうまい。声もよく、多部未華子が霞むほど。
ルーチオ役の大石継太とポンペイ役の石井愃一も好演。






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映画「マクベス」

2016-07-03 00:24:58 | 映画
5月25日立川シネマシティズンで、映画「マクベス」を見た(監督:ジャスティン・カーゼル)。

赤子の葬儀・埋葬シーンから始まる。これは戯曲にはないが、マクベス夫人のセリフに「私は赤ん坊に乳を与えたことがある」というのがあるので、
二人にはかつて子供がいたが、どうも亡くしたらしいと分かる。むしろ原作に忠実な構成だ。
この時は、よしっ!と期待に胸が踊ったが・・・。

魔女3人に少女が1人加わっている。意味不明。
戦闘シーンをスローモーションにするのは絶対やめてほしい。蜷川の真似か??
時間が時々前後するのもやめてほしい。

マクベスの館はただのテント!原作である戯曲からすっかり逸脱している。だって「廊下」を通ってダンカン王の寝ている部屋に行くはずなのに、
テントの中には廊下なんてないし。
そして王の一行が館に入る前には、高いところに鳥がいるというセリフもあるのに。
短剣の幻を見るシーンも妙。
寝ている老王を殺すのに、なぜ何度も執拗に刺す必要がある?とにかくやたらと血が吹き出るシーンが多い。そういうのがこの監督の好みなのだろう。

殺害直後、王子に会うのには驚いた(これもマクベスの幻覚かと思った)。しかも涙を流す王子に向かって冷静にゴタクを並べるマクベス。
この時彼は恐怖におののき、我を忘れているはずなのに変だ。まったく興ざめ。
王子はその直後、一人馬に乗って逃亡する。

門番のシーンはカット。

翌朝、王の死を皆が知った時、本当は一人で部屋に入ったマクベスが、おつきの二人をその場で殺すはずが、同僚たちのいるそばで殺す。

宴会シーンでマクベスがバンクォーの亡霊を見て「出て行け」と叫ぶと、その席にいた部下と少し離れた席にいた妻らしき女性の二人が、自分たち
が言われたと思ったらしく立ち去る。これは新しい。

マクダフと妻子はなぜか野外で馬に乗って別れる。
その直後、マクダフの妻子はマクベスの部下たちに追われて森の中を逃げ惑う。そして城の外で、何と火あぶりの刑に処せられる。
マクベス夫人はもはや夫を止めることができず、ただ見つめるのみ。
目の前で彼らの死を見せられたら、彼女のショックはそりゃ大きいだろうが、そんなことをしなくても原作のままで十分なのに。
彼らは「暗殺」されたのだ。そして彼女はその話を伝え聞くのだ。それで十分だろう。

マクベス夫人の夢遊病のようなシーンはない。妙な小屋の中で「地獄は薄暗い・・・」とかのセリフを言うのみ。だから医者とおつきの女の
シーンもカット。ここはぜひほしいシーンなのに。
マクベス夫人はベッドに横たわっており、医者がそばに立ち、マクベスが話しかけると「お妃が・・・」と彼女の死を告げる。マクベスは
「明日、また明日・・・」というトゥモロウ・スピーチの途中、妻を抱き上げ、床に下ろす。

「バーナムの森がこっちに向かって来る」から怖いのであって、「森がバーナムに向かって」どうする?全然怖くないし。そんなもの、勝手に
向かわせるがいい!それに森に火を放ってどうする?

ラスト、マクベスはマクダフの上に馬乗りになって首に剣を突きつけ、そのまま殺せたのに、マクダフが自分の出生の状況について告げると、
やる気をなくして立ち上がり、殺される。こんなことがあっていいのか。
まったく、突っ込みどころがあり過ぎて(ポロー二アスじゃないが)息が切れてしまう。

マクベスは首も切り落とされず、地面に倒れることもなく、ひざまずいて首を垂れたまま死ぬ。

フリーアンスがやって来て、地面に突き刺さった剣を抜き、それを持って走り去る。
冒頭の子供の葬儀とここだけは納得いくが。

これまでポランスキー、黒澤明、オーソン・ウェルズ、ボグダノフ、フリーストンといったそうそうたる監督たちが、「マクベス」を映画化してきた。
彼らの作品と比べると、残念だがこれは魅力に乏しい。
ただマクベス夫人役のマリオン・コティヤールは美しかった。特に鼻の形。
マクベス役はマイケル・ファスベンダー。

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