ロビンの観劇日記

芝居やオペラの感想を書いています。シェイクスピアが何より好きです💖

「オセロー」について Ⅱ

2023-08-26 13:24:57 | シェイクスピア論
<吉田健一のオセロー論>

吉田健一(1912年~1977年)は吉田茂元首相の長男で、作家・文芸評論家・英文学者です。
この人のことは前にも書いたことがありますが、英国留学が長く、ネイティブ並みに英語を操ることができたそうです。
かの地で本場のシェイクスピア劇を見る機会も多々あったことでしょう。
彼は著書「シェイクスピア」の中で9つの戯曲について論じていますが、その中でも「オセロ」が特に独創的で面白いのです。まさに目から鱗です。
あまりに面白いので、少々長くなりますが、以下に引用します。
いや、引用と言うより抜粋です。
例によって彼の文章は分かりにくいので、適宜変えてあります。
人物名は、原文のままにしました。

 ①時間の流れのトリック

  不幸な恋愛を主題として、話が迅速に悲劇的な終末まで運ばれて行く点では、「オセロ」は「ロメオとジュリエット」に似ている。
 事実、シェイクスピアが書いた悲劇の中で、こういう種類の作品はこの二つしかない。
 「ロメオ・・」では、事件が始まってから終わるまで四、五日だが、「オセロ」ではもっと短い。
 ヴェニスで黒人の将軍オセロが、貴族の一人娘デスデモナと内密に結婚したことがその直後に発覚し、オセロの素朴な愛情の告白によって
 この結婚が公認され、それと同時に、トルコ人の襲来に対してサイプラス島の防備に当たるために、オセロが急きょ同島に赴任することを命じられる
 という事件が一晩のうちに起こる。この第1幕を別とすれば、オセロとデスデモナがサイプラス島に着いてから、オセロが旗手のイアゴの奸計に陥って
 デスデモナを猜疑し、その不実な行為の確証を握ったと信じてデスデモナを枕で窒息させて殺すまで、わずか二日間の出来事である。
  勿論、「オセロ」が「ロメオ・・」に似ているというのは、そこまでで終わっている。
 後者は、いかに高く評価するにしてもシェイクスピアの初期の天才が示した一つの開花と見るより他はないが、これに対して「オセロ」は
 彼の爛熟期の作品であり、人物の動きにしても、その台詞の文体にしても、すでに「ロメオ・・」の比ではない域に達している。
 この二つの作品で扱われている主題の性質にも、顕著な相違が認められる。
 「ロメオ・・」では、二人の主人公の恋愛そのものには何も悲劇的な所がなくて、寧ろシェイクスピアが当時好んで描いた甘美なロマンスであり、
 単に外的な事情がこのロマンスの持続を許さない為に悲劇的なのである。
 これに対してオセロとデスデモナは、恋愛以上のもので結び付けられているのであって、それ故にそこに葛藤が生じたことが、それだけで救い難い悲劇を
 書くのに充分な材料となっている。

 「ロメオ・・」を悲劇として成立させる為に、これを四、五日間の出来事で終わらせたのと同じ必要が、「オセロ」では更に強力に働き、
 また更に巧妙に逆用されているのが認められる。
 ・・・中略・・・
 この作品の主題は嫉妬であって、従って二人の主要人物を単に恋人として扱うことは出来ない。・・・
 嫉妬が悲劇の主題として成立する為には、恋愛がその所を得て落ち着き、二人の人物にとって互いに相手を信頼することが彼らの生活の基礎となっている時に、
 その基礎が嫉妬に脅されて、一挙に破壊されるのでなければならない。
 何故なら、ここでも速度が大切だからである。
 夫が妻の貞操を疑ったり、或いは妻が夫を疑ったりして、その煩悶に明け暮れしているのは、悲劇の材料にはならない。
 そしてもし生活の基礎が崩れ去って、それでもなお生きて行くのが現実というもののあり方であるとすれば、そのことから
 人生は劇になり損なったものの連続であるということが考えられる。(→ここも実に面白い(笑))

 しかしシェイクスピアは「オセロ」を一篇の悲劇として完成しなければならなかった。
 それが、決して容易なことでなかったことは明らかである。
 二人の間に生じた葛藤が二人を破滅に導くに足るものである為には、それだけ二人をその時まで結びつけていた感情が強固なものであることが必要だった。
 そのような二人の間柄を、どうすれば舞台の上で表現出来ただろうか。
 時間の経過は、・・・舞台でその実感を伝えるのに最も困難なものの一つである。
 そして二人の人間のそういう親密な関係は、常にある程度の年月の経過から生じた結果であることを我々に思わせる。
  しかし困難はそれだけで止まらなかった。
 この作品では更に、名将ではあっても、どこから来たのかも解らない一人の黒人が、ヴェニスの大貴族の一人娘と、親の目をかすめて結婚するというのが
 筋の重要な一部をなしている。シェイクスピアとしてはこのことをどうしても、作品の冒頭で扱わなければならなかった。・・中略・・

  シェイクスピアは、二つの時間を二重写しの方法で重ねることによって、実に巧みにこの問題を解決している。・・中略・・
 例えば、彼がデスデモナと結婚したことが忽ち彼女の父親に知れて、魔術を用いて娘を意のままにしたのだろうとヴェニスの統治者の前で詰問され、
 申し開きをする時の台詞は・・中略・・
 これはホメロスやダンテの英雄がする、同じ種類の遍歴の回顧談を思わせるものがあるが、それよりも注意すべきは、この台詞では、オセロがそれまでに
 経験した苦難をデスデモナに話して聞かせたということになっていながら、むしろ二人がそれだけの体験をともにして来たという印象を受けることである。
 ・・中略・・
 この台詞では・・・更に二人がそれだけ長年の間連れ添った仲であるということを暗示しさえしているかに見える。
 またそれにも増して、この台詞の終わりでオセロが
   あれは私が切り抜けて来た艱難の為に私を愛してくれたので、
   その経験を憐れんでくれたデスデモナを私は愛したのです
 と言う時、二人の関係はすでに憶測の域を脱した、揺るぎないものとなって我々に示される。

二重の時間についてはコットら他の評論家たちも指摘している。
そもそもイアゴーがオセローの耳に吹き込んだように、デスデモーナがキャシオーと何度も浮気を重ねることなど不可能なのだ。
そんな時間がどこにある?彼ら夫婦はやっと初夜を共にしたばかりなのに。
だが我々観客は、オセローの猜疑と苦悶を目にしても、それほど違和感を抱かない。
それは、吉田が指摘しているように、作者の巧妙なトリックのお陰なのだ。

 ②イアゴー

 イアゴは・・オセロやデスデモナとは全く別な空気を呼吸している。
 彼はデスデモナを手に入れようと焦慮しているロデリゴという馬鹿者に、デスデモナがいつまでもオセロを愛しているはずがない、と説明する。
 ここで大切なのは、イアゴ自身がこの説明の論理を信じ切っていることである。
 彼はシェイクスピアがオセロやデスデモナに言わせる台詞を聞く耳を持っていない。
 彼にとって、二人は結婚したばかりであり、年齢、人種、育ちなどの点から言って、まずうまくは行かないと判断するのが妥当な夫婦である。
 それは、具体的な資料が得られない問題については、理性にばかり頼っている者は、通例や可能性といった概算で行く他ないからであり、
 それが論理の不足を補うものである故に、やがてはそういう概算も論理に見えてくる。
 イアゴはその種類の合理主義者である。  

 イアゴはこの論理を逆用して、オセロにデスデモナを疑わせることができると確信している。
 では彼は何が目的でそういう計画を立てるのだろうか。
 そしてなぜ彼の計画は成功するのだろうか。
 
 彼は始めに、自分がオセロの補佐官になるつもりでいたところが、オセロが彼の代わりにカシオを選んだのを根に持ち、
 いずれはオセロに復讐するのを兼ねてカシオを失脚させ、自分がその代わりに起用されるようにするのだと言っているが、
 他の場所では、ただオセロを苦しめることを目的としている風にも見える。
 事実、彼がそういう、悪事を働くこと自体に生きがいを感じる、悪の権化とも言うべき存在であるというのが定説になっている。
 しかし彼は、それほど大それた役割を振られているわけではない。
 彼は腕利きの実務家で人当たりもよく、女を喜ばせる技術も心得ていて、最後に彼の悪事が露見するまでは誰にも信用され、「正直者のイアゴ」で通っている。
 彼はこの悲劇の首謀者でありながら、その性格には深みがない。
 そこに、俳優が彼に扮する時の困難がある。
 シェイクスピアはこの役を、当時の有名な喜劇役者に当てて書いた。

 彼には合理主義者の限界と喜劇的な性格が見られる。
 彼は悪人と呼びうるほどの人物ではない。・・・
 始めのうちは、オセロをそそのかしてカシオを失脚させ、その後釜に座ろうと計画していた。
 彼は充分な自信を持っていた。
 それは、二人の結婚が世俗に反したものであるとか、二人の年齢差が甚だしいとか、二人とも彼を信用しているとか、カシオが美貌で女に好かれる質の男である
 というような、「客観的な」事実である。
 そういう客観的な事実に即して冷静に行動し、それによって自分の計画を成功させることに、明晰な頭脳の持ち主としての優越を感じてもいる。

 しかし彼の計画が成功したことは、実際は彼にとって一つの誤算だった。
 彼の行動によって、彼が意図した通りにカシオは失脚し、オセロはデスデモナとカシオを疑い、自分がカシオに代わって補佐官に任じられる。
 だが彼は、その背後の現実、オセロとデスデモナの現実を計算に入れていなかった。
 計算に入れていないのは、それを理解していないからである。
 したがって、自分の行動の結果生じた事件の性質も、彼には理解できない。
 にもかかわらず、自分ではすべてを計算に入れたつもりでいるので・・・綿密な計算を怠らずにいながら五里霧中に行動することになり、
 自分が企てたオセロの悲劇に翻弄されて、・・・悲劇が進展するにつれて彼のやることは全くぶざまに見えてくる。・・そういう間が抜けた所がある・・

このように、吉田健一のイアゴー分析は独創的で実に面白い。
この後彼は、オセローとデスデモーナの性格について論じ、悲劇に終わるこの戯曲が、我々に、いかにカタルシスをもたらすものであるかを語っている。
それは次回にご紹介します。








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「桜の園」

2023-08-17 10:34:25 | 芝居
8月10日パルコ劇場で、アントン・チェーホフ作「桜の園」を見た(翻訳:広田敦郎、演出:ショーン・ホームズ)。






時代の急激な変化が理解できず、先祖代々の美しい領地が抵当に入って、近く競売にかけられようとしているのに、昔の華やかな暮らしを
捨てることができず滅びてゆく貴族階級の人々。そして台頭する新たな若い世代。
チェーホフ最後の作品。

ネタバレあります注意!
舞台中央にどっしりとあるのは四角い鉄の塊。天井から下がる何本もの鎖でつながれている。
幕が開くと鎖が上がり、長方形の部屋が現れる。一段高くなっている。
そこは旧子供部屋。女主人ラネーフスカヤ(原田美枝子)と兄ガーエフ(松尾貴史)も子供の頃そこで遊んだ。
7歳で溺死した息子グリーシャの三輪車。空っぽの本棚。

赤い作業服の男がマイクを持って「チェリー・・」とか歌いながら通り過ぎる。
奥は全部金網のフェンスで囲われている。

ビニールプールに水が張ってある!
ライフル銃を構えた家庭教師シャルロッタ(川上友里)は派手な柄の水着姿で登場!
これには驚いた。
なるほどこれが「斬新な演出」と評判の演出家か。

ロパーヒン(八嶋智人)は、ラネーフスカヤが勝手に養女ワーリャ(安藤玉恵)に「あなたの結婚を決めたのよ!」と言うと、
何か言わないといけない状況に追い詰められ、「オフィーリア、尼寺へ行け・・・とか言いますよね・・」。

おしゃべりで演説好きなガーエフは、時々内ポケットからマイクを取り出してスピーチを始める。
ラスト、いよいよ皆で屋敷を去るという時、またマイクを取り出して胸にこみ上げる思いをひとくさり述べようとすると、
スイッチが切れているのに気がつき、諦めて声を張り上げる。

元家庭教師トロフィーモフ(愛称ペーチャ・成河)は26歳で、「万年大学生」とみんなにからかわれている。
ラネーフスカヤの元に、パリにいる元愛人から連日手紙や電報が来る。
その男は彼女の金で裕福な生活を送り、病気になると彼女に献身的に看病されたが、回復すると別の女の元に去った奴だった。
最初のうち彼女は、手紙が来るたびに破り捨てていたが、そのうち、彼のことを今でも「愛している」と言う。
懲りない女性だ。
彼女は「私、パリに行くべきよね?」とペーチャに尋ねる。
そんなこと、聞かなきゃいいものを。
当然ながら彼は「そいつは泥棒だ!」「あなたからすべてを奪った奴だ!」みたいなことを言う。
誰だってそう言うだろう。
するとラネーフスカヤは一瞬ひるむが、すぐに態勢を立て直し、反撃を開始する。
そこが面白い。
この芝居の見どころの一つだ。
「そういうあなたはどうなの?!26歳にもなって女性とおつき合いしたこともないなんて。
人を愛したことがないんでしょう・・」
男はさすがに怒って立ち去るが、夫人はすぐに謝り、「冗談よ」と呼び戻しに行く。
そして男もまた気を取り直して夫人と踊り出す。
どちらも何だか軽いが、見ている方としてはホッとする。

この翻訳ではロパーヒンの父親も祖父も「百姓だった」と言われるが、より正確には「農奴」だろう。
(神西清訳では「親父も祖父さんも奴隷だった」)
かつての農奴の息子が(農奴解放令を経て)商人となり、日夜がむしゃらに働いて金をため、お屋敷を買い取って大地主になったのだから、
天地がひっくり返ったようなものだろう。

この成り上がり者のロパーヒンを演じた八嶋智人がうまい。
今までに4人くらいのロパーヒンを見たが、断トツにうまい。
最初は早口なこともあり、セリフが聞き取れない所もあったが、ラスト、ついに桜の園を手に入れてからが実にいい。
ラネーフスカヤの兄ガーエフ役の松尾貴史も好演。

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「死との約束」三谷幸喜版

2023-08-11 15:54:21 | テレビドラマ
先日、撮りためておいたテレビドラマ「死との約束」(2021年放映)をようやく見た。




これは、アガサ・クリスティーの同名小説を三谷幸喜が翻案したもので、彼によるクリスティー作品の翻案第3弾となる。

「いいかい、彼女を殺してしまわなきゃ・・・」エルサレムを訪れていたポアロが耳にした男女の囁きは闇を漂い、やがて死海の方へ
消えていった。どうしてこうも犯罪を連想させるものにぶつかるのか?
ポアロの思いが現実となったように殺人は起こった。
謎に包まれた死海を舞台に、ポアロの並外れた慧眼が真実を暴く(ハヤカワ文庫の解説より)。

原作は1938年に発表された長編小説。
それを読んでから見たので、始まるとすぐに犯人が分かったが、そんなことはどうでもいい。
と言うか、この原作を読んで、途中で犯人を当てることのできる人はいないと思う。
そういう意味では、この小説も本格推理とは言えないだろう。
クリスティーらしい様々な人間模様を楽しみ、あの人もこの人もみんな怪しく、そしてみんながそれぞれ別の家族を犯人だと思って
かばい合う、という作者の仕組んだ錯綜した状況にミスリードされ、右往左往しながらそれを楽しむのが醍醐味だろう。

本堂家の人々は家族旅行中。母親、長男夫婦、次男、長女、次女の6人。
父親は亡くなり、母親は後妻で、次女以外の3人は先妻の子供。
彼らには、何やら奇妙なところがあった。
次女以外は皆、もういい大人なのに、何でも母親の言いなりで、自分たちで物事を決めることができないようなのだ。
実は、この母親は人を支配することに異常な喜びを覚える性格で、再婚直後から子供たちを支配してきた。
彼らはまるで催眠術にかけられたかのように、母親に牛耳られていたのだ。
莫大な財産を相続した母親は、子供たちを養ってはいるが、外で働くことを許さない。
彼らは自由になりたいと思うものの、働いたことがないため、どうすればいいのかわからない。
だが彼らも、このままではいけない、僕らはそのうちダメになる、と切迫した思いに駆られている。
みな、母親を憎んでいるが、その気持ちを顔には出さず、表面的には従っている。
そんな母親が、年取っていたとは言え直前まで元気だったのに、急死する。
それを知っても家族は誰も驚かず、悲しまない。
全員に動機があり、チャンスがあり、疑わしい・・・。

原作を読んだ時、最初は、例の有名な某作品のように、みんなでやっちゃったんじゃないか、と思った。
だが名探偵・勝呂武尊(野村萬斎)も言うように、それにしてはみんな、その後の行動がバラバラで計画性がなさ過ぎる。
では、やはり「彼女を殺してしまわなきゃ・・」と言うのを勝呂に聞かれてしまった次男が犯人か。
だが動機から言うと、妻に離婚を切り出された長男が一番怪しい・・・。

今回もまた、三谷さんの凄さが分かった。
彼は舞台を中東から日本に置き換え、時代を昭和30年に設定。
つまり、戦後の混乱がまだ尾を引いている頃ということ。
そして、カラカラに乾いた暑い砂漠を旅する物語は、緑したたる熊野古道の鬱蒼とした森の中に移された。
このアイディアはどこから湧いてきたのか。
たぶん、天狗伝説でしょう。
原作で重要な役割を果たす「原住民」をどうするか考えた結果、天狗に登場してもらおうと思いついたのでしょう。

キャスティングもいい。
代議士・鈴木京香、異常な支配欲で家族に君臨する母親・松坂慶子、気弱な編集者・長野里美、地元の警察署長・阿南健治。
長男夫婦が山本耕史とシルビア・グラブというのは、ちょっと意外だった。
後は知らない人たちだったが、皆さん好演。
ただ、主役ポアロ、いや勝呂を演じる萬斎が、相変わらず異常に作り込んだキャラで、キモい。
声も顔もとにかく普通じゃないし。
こんな人、そばに来たら誰だって逃げるでしょう。

代議士・上杉穂波(鈴木京香)と勝呂との前日譚をしっかり描いているのが重要な伏線。
何と彼女は、旧姓「佐古」で、かつては「猫の目」と名乗る怪盗だった!(笑)
その時、彼女を逮捕したのが、当時警官だった勝呂だったのだ。
そんな彼女も、今では上杉穂波という名前に変え、亡き夫に代わって代議士となっていた。

勝呂は、本堂夫人(松坂慶子)がかつて刑務所で女看守として働いていたことを知らなかった。
そこは原作と違う点だが、この前日譚のおかげで、破綻なく、不自然さもない。

穂波と勝呂との淡いロマンティックな関係を入れたことで、話がふくらんで香り豊かな印象になった。
このアイディア、素晴らしいと思う。
ただ、せっかくのこの設定も、萬斎がキモイので、思いっきり感情移入したいのにそれができないというまだるっこしさがあった。
実に残念で腹立たしい。

長男の妻を秘かに愛し、支えようとする男(坪倉由幸)・・・これがだいぶ違う印象になっている。
原作では、誠実で信じられないほど献身的なアメリカ人男性で、そのままでは現代日本ではまるでリアリティがないから、仕方ないだろう。
だから、独裁者だった義母の突然の死後、女が言いにくそうに(夫と別れて彼と再婚することを承諾したが)やはり夫をそばで支えたい、と告げると、
彼女を責めることなく、その申し出を寛大に受け入れ、自分は彼女の幸せだけを願っている、と美しいセリフを述べるが、
その間、何やら妙に感動的な、胸に迫る音楽を流しておいて、振り返ると・・・というコミカルなシーンに。

「黒井戸殺し」の時と同様、三谷さんは、原作を補っている!
たとえば、穂波と本堂夫人がホテル内で秘かに会っていたこと。
また、穂波が本堂夫人に、ベンチで待つようにとのメモを渡していたこと。
これらは原作にないが、きっとあったはずのシーンだから、原作の読者はそれを想像しなくてはならなかった。

穂波に付き添う編集者で、暗示にかかりやすい女性・飛鳥ハナを長野里美が好演。
配役を見ただけで誰が誰をやるか分かったが、彼女は特にピッタリだと思った。

登場人物の名前が可笑しい。
サラはそのまま沙羅だが、次男レイモンドが主水(もんど)、カーバリ大佐が川張署長に(笑)。

ラストの処理がまた素晴らしい。
土地の景観を活かして、無理なく美しく終わらせている。
(原作でも、警察は事故死として処理した)
精神的に不安定だった末娘についても、簡単に、だが自然に無理なく触れて、今後の明るい展望を感じさせている。
とにかく、あちこちに三谷幸喜の才気が感じられる。
どうしてこんなことができるのだろう。
彼の翻案の才能には、脱帽するしかない。
今回も、めちゃくちゃ楽しかったです。
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「こんにちは、母さん」

2023-08-04 11:03:29 | 芝居
7月27日くすのきホールで、永井愛作「こんにちは、母さん」を見た(演出:磯村純)。



家業の足袋職人を継がず会社人間として生きてきた神崎昭夫(加藤義宗)は、人事総務部のリストラ対策部長になっていた。
人生に迷っていた昭夫がたどり着いたのは、母の福江(一柳みる)が一人で住む東京・下町の実家。
しかし、家の中はすっかり変わっていた。
見知らぬ中国人の女の子(張平)が家の中を駆け回り、福江はボランティアに精を出しとても楽しそうだ。
しかも福江には恋人らしき荻生直文(山崎清介)の存在が。
「今」を精一杯に生きようとする母とその恋人、二人の生き方に戸惑いと発見を繰り返しながら、自分自身を見つめ直す息子。
そして、この三人の奇妙な共同生活が始まる。
福江、直文、昭夫と彼らを取り巻く下町の元気な人々の生活を通し、「人生を正直に生き直そう」とする人々の姿が、
生と死を深く交錯させた笑いと涙の中に描かれていきます(チラシより)。

劇中、息子の声が父親の声と似てきた、というセリフがあったが、まさにこの日、初めて気がついたことがあった。
加藤義宗は、父・加藤健一に声がそっくり!特に、張りのある大声を出した時など。

福江によると、夫は5年間病気で寝込んでいて彼女が看病した。
そして、嫁のともみさんが4年前突然家に来た。
「その時お父さんはいなかった」
これって、どう考えても矛盾してますよね!?
寝込んでいる病人が、一人でどこかへ行くわけがないでしょう。

昭夫の同僚・木部(伊原農)がリストラされ失意の内に昭夫の実家を訪問し、福江に近づき、膝枕して頭を撫でてくれ、と言って甘えるシーンが、とにかくキモい。

福江は直文に連れられて、直文が長男一家と住む家を訪問する。
そこで彼女は、長男夫婦もその息子も大学卒なのに自分は小学校しか出ていないということに気がつく。
テーブルマナーで失敗し、他にもいろいろ恥をかき、この人たちと自分とは世界が違うと感じる。
しかも彼女は、直文が、そんな自分のことを恥ずかしいと感じている、と気がつく・・。
このように、知的格差を描くというのは昔の少女漫画に時々あったような気がする。
だが今では時代錯誤だし、第一、見ていて不愉快。しかも全然面白くない。

家出して福江の家に(言わば)押しかけて来た荻生直文が持参した荷物の中にメンコがあり、それを見た昭夫は俄然興味を示し、懐かしがる。
彼はその場でメンコをやり出し、直文の長男の妻(宇田川さや香)も誘い、二人で遊んで打ち解けていく。
そのシーンがほほえましく明るくて、唯一の救いだ。

作者は中国人留学生を登場させて、戦時中の日本の加害の歴史を入れたかったのだろう。
だが「夫は大陸で人を殺した、それも子供を殺したに違いない、だから引き揚げて来た後も、自分の息子を抱いてやることも
一緒に遊ぶこともできなかったんじゃないか・・」という福江の想像と展開には少々無理がある。

留学生が日本語検定試験のために勉強しているので、井上ひさし張りに日本語談義が続く場面もあるが、残念ながら、あまり面白くない。

今回は、残念ながら期待はずれだった。
永井愛の作品にも出来不出来があるということか。
ただ、一柳みるの変わらぬ美貌と演技は見応えがあった。
加藤義宗もセリフ回しが明瞭で、好演。
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