孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

皆さんが不確かなことを事実が如くに情報して洗脳に加担していることに気付いていますか。

2016年07月27日 | Weblog
寒い東北地方には姨捨山が如くがありましたし、NHKドラマの「おしん」が如くが当たり前だったと思います。

そして暖かい四国では遍路道がありますが、一昔に話にあるのが、仕事も耕す畑も無くて死ぬしかなくなった人が、野たれ死に覚悟の白装束(土葬できる姿)にして、道端の人から慈悲施しを受けながらにして、己が死ぬまで遍路道を行ったり来たりの繰り返しをしていたそうです。

然るに仕事もしないでぶらぶらしていると遍路になるよとばかりに卑下した言葉で言われていました。

ところが今の私はどうでしょうか、自らが選んで野たれ死に覚悟の、正に遍路と言われても当然のような生き方になっています。
なにの「此れしか無い」とばかりにブログに書いています。

そして「死ぬまで何とか生きていれば」それで善しと書いて、その生き様がお互い様とお陰様の関係ともなって、然るにそれが世の為人の為に役立っているとも書いています。

然るにそれらは私が実際に味わっているから根堀り葉堀り書けるのです。

となると一昔前の遍路とか宿無しとかルンペンとか言われていた形に至った人の中にも私と同じ思い感覚を味わっていた人もいると思います。
だから「一度ルンペンをやればやめられなくなる」と言う言葉があります。
それを私流に言えば「此れしか無い」となります。

だから現在の言葉で言うホームレスの人も「此れしか無い」とばかりに思っている人が大勢いるかもしれません。

然るにニートが「働いたら負け」と言ったように、またBライフ・サイレントテロなる形を実践している若者が増えているようにです。
そのことを私流に言えば先行きの前触れ前兆となるのです。

また先ほどのように遍路と蔑んだ形で子供に教えることは差別であり一種の洗脳になります。
然るに人様から伝わる情報は(読み書きソロバン以外は)事実とは異なる一種の洗脳にもなると書いています。

だから自らが実際に体験経験したことや明らかな事実を目撃したことが本物・自分の物となる、とも書いています。

また人様に偽ることが出来ても、己の内なる精神・真心を偽ることは出来ないとも書いています。

それを言い換えれば、人様を信用できなくても己を信じることは出来るのです。
然るにそれが<自信>なのです。

だから不信とつながる他力よりも、自らの自信自力の精神力で事を成す事を書いているのです。

とにかく人為人工的な情報は信用するか否かになります。
ところが自分に都合がいい事となるとすぐに飛びつくところがあります。

まして摩訶不思議な術・奇跡が如くを見せられたなら尚更です。
そして期待していただけに(結果的には)裏切られた形にもなるのです。

だから皆さんは巷の情報に踊らされていると思ったことはありませんか。
然るにテレビ・映画・ドラマや著書出版書籍やニュース・マスコミで洗脳されていると感じたことはありませんか。

ところがあなた方も不確かなことを事実が如くに言って洗脳に加わっていることにも気付いていますか。

また常識だったり伝統風習だったり道徳観念だったり価値観だったりするのを正しいとして情報したり参加するのも同じです。

だから食って寝て糞をしながらにして生きていること以外は洗脳が如くになっているのです。

そして他力依存的にもなっているのです。

だからそのリピートにもなるのです。

しかもより楽しく、より美しく、より美味しく、より便利な形へと進化発展しています。

然るに自然界を大切にとか、自然を守るとか言うよりも贅沢をやめればいいのですが、しかし国家社会や人間関係には無理がありますから、然るにこのままにして巨大化し続けて、過去の恐竜時代が終わったように、またあちこちの帝国時代が終わったように、その仕組み・シナリオ通りに突き進むことになります。

しかしそうなる前に己だけでも質素素朴謙虚にして生きる実践をして、それを事実にして味わうのは如何ですか?と問い掛けているのがこのブログでもあります。