私が世間しがらみから離れた生活をするようになって暇で退屈する時間が多くなったのですが、それでも趣味嗜好娯楽・過激刺激を求めることにもならずにいますから、その分だけ穏やかな時間が過ぎることになっています。
それもどうやら、日々の生活が自然界の中だけに人工的なものが多くありませんから、それで気分が和らぐものと思われます。
と言うのも、普段ならテレビやビデオ映像が仲間の如くに接する時間が多かったのに、過疎地暮らしが長くなるほどにテレビ離れになっていますが、なんでそうなったのかを思い起こすと、まずテレビは一方通行でしかも受身で見ていること、また事実実話であっても企画演出装飾されて人工的であること、それが事実ではない脚色ドラマになると変化刺激が過激なほど見応えがあるので現実離れし過ぎているところがあります。
ところが時間がゆっくりと流れている変化刺激のない自然界でいるとその人工的なものが騒々しくなるようです。
ところがその人工的で騒々しい形の中に長くいるとそれに慣れてしまってそれ以上の人工的で騒々しい形を追い求める事になるようです。
だから何事も大型化されて大勢の人で賑わい混乱し騒がしいほどに集まることで満足する事にもなっています。
そこで若者が賑わいを求め過激を求めることにもなっていますが、それが精神体に相当な負荷を背負わせているようです。
その過去は若者であったものが年老いてその過激な賑わいの中に取り残されているのも困った事になっています。
また自然界を見慣れていると人工物は勿論のこと、山林に大掛かりに植林されている杉やヒノキ林が違和感にもなっているし、人工的な見応えのある庭園や自然が多い公園や草花の公園さえも不自然に見えるようになります。
やはり成り行き任せの「そのまま・このまま・あるがまま」が自然なのです。
最近のことですが、完全真理を学び知る仲間の一人が耕栄さん離れファバラ離れしつつ肝心の完全真理まで離れたかのように伊勢白山道なる人に魅せられていますが、それを裏返せば完全真理だけでは学び足らずだったということになりますが、それをも裏返せば完全真理を学び知っていることが自分のもの・本物になっていなかったことになります。
何故にそうなるのか?、私に言わせれば自己縮小の実践が出来ていなかったことに尽きますが、その実践に無理があるのもうなずけるだけに、いつしか完全真理に戻ることになると思いつつもほっといてその成り行きを見守るしかありません。
その伊勢白山道が説くことにあるのが(詳しくは知りませんが)「先祖を敬う」ことにあるようでして、その先祖を敬うことが薄れるように仕組まれたのが物質経済であり、それらからして神を敬うことがなくなっているというような概要のようですが、その先祖も何世代にわたって物質経済を支えてきた矛盾がありますから、先祖という特定の形ではなくしてその先祖を創造した宇宙・神なるその自然界を意識することがその先祖にもつながり神にもつながりますから、結局はこの世の物質経済・自己拡大から離れて自然界に接する自己縮小の生き方に変えればいいわけです。
だから寄り道・回り道しても「完全真理」に戻ることになります。
しかし自己縮小がなければ完全真理も伊勢白山道なるものも「絵に描いた餅」や中途半端なままに止まりますし、その自己縮小が無理なことからして、またあちこちに寄り道・回り道・遠回りしながら結果的にはすべて中途半端に終わることでしょう。
その伊勢白山道なる人はサラリーマンでして、自分の思いを5年前からブログに書いていて、その主だった事柄を書籍にして出版販売したようですが、その程度で止まればいいが、愛読者から持ち上げられ敬われることからして自己拡大になるかもしれません。
その物質経済に限らずとも巷の趣味嗜好娯楽からも精神世界離れになっているし、その趣も人工的ですからストレスになっています。
しかもその趣味嗜好娯楽で癒されていると思い違いしていることにさえ気付いていません。
その人工的なことで満足することが少ない過疎地の私の所へ来た人が癒されている事実がありますが、しかし変化刺激性が薄いことからして長居できません。 また来る回数もごく限られています。
それだけに自己縮小もそこそこにして変化刺激に親しんでいることにもなります。
特に若者ほど自己縮小が無理になります。
そこで完全真理以外にも意識を使うことにもなるのです。
だからやはり有事に巻き込まれることで自己縮小になるしか他にないようです。
しかし有事になったらなったでその有事に意識が使われますから完全真理・実践どころではなくなることでしょう。
またどんなに指摘・アドバイスされても聞く耳がないかもしれません。
すなわち「どうしようもない」のが不完全意識の人間なのです。
その事を一番よく知っているのも同じ不完全意識の私です。
でもその自分に気付いているから(自分を知っているから)飽きもせずにブログを書いているのです。
だから完全真理を知ることからして自分を知る事につながらなければ意味を成しません。
だから一本道一筋にならずにして無駄な寄り道回り道になるのです。
だから自己縮小が必然にもなるのです。
それもどうやら、日々の生活が自然界の中だけに人工的なものが多くありませんから、それで気分が和らぐものと思われます。
と言うのも、普段ならテレビやビデオ映像が仲間の如くに接する時間が多かったのに、過疎地暮らしが長くなるほどにテレビ離れになっていますが、なんでそうなったのかを思い起こすと、まずテレビは一方通行でしかも受身で見ていること、また事実実話であっても企画演出装飾されて人工的であること、それが事実ではない脚色ドラマになると変化刺激が過激なほど見応えがあるので現実離れし過ぎているところがあります。
ところが時間がゆっくりと流れている変化刺激のない自然界でいるとその人工的なものが騒々しくなるようです。
ところがその人工的で騒々しい形の中に長くいるとそれに慣れてしまってそれ以上の人工的で騒々しい形を追い求める事になるようです。
だから何事も大型化されて大勢の人で賑わい混乱し騒がしいほどに集まることで満足する事にもなっています。
そこで若者が賑わいを求め過激を求めることにもなっていますが、それが精神体に相当な負荷を背負わせているようです。
その過去は若者であったものが年老いてその過激な賑わいの中に取り残されているのも困った事になっています。
また自然界を見慣れていると人工物は勿論のこと、山林に大掛かりに植林されている杉やヒノキ林が違和感にもなっているし、人工的な見応えのある庭園や自然が多い公園や草花の公園さえも不自然に見えるようになります。
やはり成り行き任せの「そのまま・このまま・あるがまま」が自然なのです。
最近のことですが、完全真理を学び知る仲間の一人が耕栄さん離れファバラ離れしつつ肝心の完全真理まで離れたかのように伊勢白山道なる人に魅せられていますが、それを裏返せば完全真理だけでは学び足らずだったということになりますが、それをも裏返せば完全真理を学び知っていることが自分のもの・本物になっていなかったことになります。
何故にそうなるのか?、私に言わせれば自己縮小の実践が出来ていなかったことに尽きますが、その実践に無理があるのもうなずけるだけに、いつしか完全真理に戻ることになると思いつつもほっといてその成り行きを見守るしかありません。
その伊勢白山道が説くことにあるのが(詳しくは知りませんが)「先祖を敬う」ことにあるようでして、その先祖を敬うことが薄れるように仕組まれたのが物質経済であり、それらからして神を敬うことがなくなっているというような概要のようですが、その先祖も何世代にわたって物質経済を支えてきた矛盾がありますから、先祖という特定の形ではなくしてその先祖を創造した宇宙・神なるその自然界を意識することがその先祖にもつながり神にもつながりますから、結局はこの世の物質経済・自己拡大から離れて自然界に接する自己縮小の生き方に変えればいいわけです。
だから寄り道・回り道しても「完全真理」に戻ることになります。
しかし自己縮小がなければ完全真理も伊勢白山道なるものも「絵に描いた餅」や中途半端なままに止まりますし、その自己縮小が無理なことからして、またあちこちに寄り道・回り道・遠回りしながら結果的にはすべて中途半端に終わることでしょう。
その伊勢白山道なる人はサラリーマンでして、自分の思いを5年前からブログに書いていて、その主だった事柄を書籍にして出版販売したようですが、その程度で止まればいいが、愛読者から持ち上げられ敬われることからして自己拡大になるかもしれません。
その物質経済に限らずとも巷の趣味嗜好娯楽からも精神世界離れになっているし、その趣も人工的ですからストレスになっています。
しかもその趣味嗜好娯楽で癒されていると思い違いしていることにさえ気付いていません。
その人工的なことで満足することが少ない過疎地の私の所へ来た人が癒されている事実がありますが、しかし変化刺激性が薄いことからして長居できません。 また来る回数もごく限られています。
それだけに自己縮小もそこそこにして変化刺激に親しんでいることにもなります。
特に若者ほど自己縮小が無理になります。
そこで完全真理以外にも意識を使うことにもなるのです。
だからやはり有事に巻き込まれることで自己縮小になるしか他にないようです。
しかし有事になったらなったでその有事に意識が使われますから完全真理・実践どころではなくなることでしょう。
またどんなに指摘・アドバイスされても聞く耳がないかもしれません。
すなわち「どうしようもない」のが不完全意識の人間なのです。
その事を一番よく知っているのも同じ不完全意識の私です。
でもその自分に気付いているから(自分を知っているから)飽きもせずにブログを書いているのです。
だから完全真理を知ることからして自分を知る事につながらなければ意味を成しません。
だから一本道一筋にならずにして無駄な寄り道回り道になるのです。
だから自己縮小が必然にもなるのです。