私の「知りたがる」「やりたがる」意識からして「他力依存」も少ないことからして、信じて頼ることやまして盲信することにもなりませんから、何かと客観的になりそして分析することにもなっています。
そこで不完全意識の人間同士が集まっても「どうしよう」もなく、それだけに尚のこと力を集め競い合いその拡大を図ることでこれまた「何とかしよう」とするも、それも儚い虚しい結果になっているのに、それでも仲間意識でいるだけに「何とか」なっています。
その形に学識知識教養やの専門家や医科学や政治経済から信仰・宗教や摩訶不思議な能力を持つ人の集団組織団体がありますが、それら人並み以上のものを持つ者やその仲間の集まりでもってしても「どうにもならない」中途半端なままに推移している事実があります。
そこで「何で!」と考えていると「他力」に頼る事に自らの<自力>を使っているというような矛盾に気付きました。
例えば他力を生み育て増やし磨きあげてその他力を使って拡大したり将来を託したり、医科学やの技術や機械器具を開発してそれに頼ることや、また特別な能力の者を祀り上げて信じ頼りその恩恵を受けたがる集団などがあります。
すなわち不完全な他力で何とかしようとしているのですから何で自分の思い通りになるでしょうか。
だから不平不満になるし不信感にもなるし不安心配・恐れを持つことになるのも当たり前なのです。
その不満・不足・不信・不安が自分一人だけであれば到底ながら生きている気がしません。
ところが同じ仲間がいると一抹の不安とその裏返しの一安心がありますから、それで何とか生きていけるわけです。
また自分一人だけだと援助救済・他力を頼み難いがその仲間が多いほどに他力を頼み易くなります。
だから何かと人同士が集まりたがるわけです。
しかし一時の集まりですから不都合になればその関係が崩壊しています。
そこで絆が言われますが、その絆さえも一時の関係ですから、それが不都合になれば絆を断ち切る裏切ることも平気です。
だから不完全意識の人間同士どんなに集まっても「どうしようも」ないのです。
そこで他力依存のために自力を使う自己拡大をやめて、必然からして自力を使うことになれば自ずと自己縮小になって行きます。
ところが仲間がいなければ不安心配にもなり孤独感にもなります。
それを例えば、死に掛けているのに病室・小部屋に誰もいなければ叫びたくもなるでしょう。
ところが身近に同じ仲間がいれば同類哀れみで心丈夫にもなります。
そんなことからして自らが自己縮小して行くことには相当に無理があります。
となるとやはり世間一般的な有事やまさかの有事や最後の審判まがいの有事によって余儀なく自己縮小の形になるしかありません。
しかし他力依存から脱した自己縮小ではないだけにこれまた他力依存で解決したがりますが、そこで心機一転してその有事を味わう自己縮小意識になれば、地獄に思えていたことが地獄ではなくして自分の意識次第でそれが「どうにでもなる」ことに気付きます。
すなわち「どうする」こともできないことが「どうにでもなる」ことに気付き悟ることになります。
だから「人が集まる」ことで解決できなくても「独自独歩」の自らの自力でもって解決できる事になるのです。
そして「人間は意識で生きている」ことを自覚納得確信になるわけです。
ところが世間一般的な有事ではやはり他力依存で多くを解決して元に戻りたい意識にもなります。
しかも自然災害のような大掛かりな事になれば頼まなくても救済してくれますからそれに甘える事になっても当然です。
それも必然ご縁ですから(欲張らずに)その成り行きに任せておけばいいことになります。
そして一度どん底を味わったのだから、そのどん底以上のことは喜び感謝になればいいのです。
またそれより深いどん底になっても成り行きに任せておけばいいのです。
そしてそのどん底を恐れない、不安心配に思わない自信になれば、それらから守りたがる意識も消えて、安心安全の心持で暮らすことにもなります。
そうなると病室や小部屋で一人静かに生きていても不安心配の孤独感にもならずに生きていることを味わえる心境にもなります。
兎に角、困った時の神頼みの他力依存が消えて、独自独歩の自力と自信の成り行き任せに生きることになれば、如何なる有事を恐れることにもなりませんから、その有事が有事にもなりません。
すなわち(死に至ることにならなかったことからして)生きているだけで十分な穏やかな平常心で、有事にも動揺しない(有事が有事ではなくなる)(地獄が地獄とは思えない)(否定反発・不安不信のない)(苦も楽もない)安心安全の最高の贅沢を味わいながら暮らせるのです。
そこで不完全意識の人間同士が集まっても「どうしよう」もなく、それだけに尚のこと力を集め競い合いその拡大を図ることでこれまた「何とかしよう」とするも、それも儚い虚しい結果になっているのに、それでも仲間意識でいるだけに「何とか」なっています。
その形に学識知識教養やの専門家や医科学や政治経済から信仰・宗教や摩訶不思議な能力を持つ人の集団組織団体がありますが、それら人並み以上のものを持つ者やその仲間の集まりでもってしても「どうにもならない」中途半端なままに推移している事実があります。
そこで「何で!」と考えていると「他力」に頼る事に自らの<自力>を使っているというような矛盾に気付きました。
例えば他力を生み育て増やし磨きあげてその他力を使って拡大したり将来を託したり、医科学やの技術や機械器具を開発してそれに頼ることや、また特別な能力の者を祀り上げて信じ頼りその恩恵を受けたがる集団などがあります。
すなわち不完全な他力で何とかしようとしているのですから何で自分の思い通りになるでしょうか。
だから不平不満になるし不信感にもなるし不安心配・恐れを持つことになるのも当たり前なのです。
その不満・不足・不信・不安が自分一人だけであれば到底ながら生きている気がしません。
ところが同じ仲間がいると一抹の不安とその裏返しの一安心がありますから、それで何とか生きていけるわけです。
また自分一人だけだと援助救済・他力を頼み難いがその仲間が多いほどに他力を頼み易くなります。
だから何かと人同士が集まりたがるわけです。
しかし一時の集まりですから不都合になればその関係が崩壊しています。
そこで絆が言われますが、その絆さえも一時の関係ですから、それが不都合になれば絆を断ち切る裏切ることも平気です。
だから不完全意識の人間同士どんなに集まっても「どうしようも」ないのです。
そこで他力依存のために自力を使う自己拡大をやめて、必然からして自力を使うことになれば自ずと自己縮小になって行きます。
ところが仲間がいなければ不安心配にもなり孤独感にもなります。
それを例えば、死に掛けているのに病室・小部屋に誰もいなければ叫びたくもなるでしょう。
ところが身近に同じ仲間がいれば同類哀れみで心丈夫にもなります。
そんなことからして自らが自己縮小して行くことには相当に無理があります。
となるとやはり世間一般的な有事やまさかの有事や最後の審判まがいの有事によって余儀なく自己縮小の形になるしかありません。
しかし他力依存から脱した自己縮小ではないだけにこれまた他力依存で解決したがりますが、そこで心機一転してその有事を味わう自己縮小意識になれば、地獄に思えていたことが地獄ではなくして自分の意識次第でそれが「どうにでもなる」ことに気付きます。
すなわち「どうする」こともできないことが「どうにでもなる」ことに気付き悟ることになります。
だから「人が集まる」ことで解決できなくても「独自独歩」の自らの自力でもって解決できる事になるのです。
そして「人間は意識で生きている」ことを自覚納得確信になるわけです。
ところが世間一般的な有事ではやはり他力依存で多くを解決して元に戻りたい意識にもなります。
しかも自然災害のような大掛かりな事になれば頼まなくても救済してくれますからそれに甘える事になっても当然です。
それも必然ご縁ですから(欲張らずに)その成り行きに任せておけばいいことになります。
そして一度どん底を味わったのだから、そのどん底以上のことは喜び感謝になればいいのです。
またそれより深いどん底になっても成り行きに任せておけばいいのです。
そしてそのどん底を恐れない、不安心配に思わない自信になれば、それらから守りたがる意識も消えて、安心安全の心持で暮らすことにもなります。
そうなると病室や小部屋で一人静かに生きていても不安心配の孤独感にもならずに生きていることを味わえる心境にもなります。
兎に角、困った時の神頼みの他力依存が消えて、独自独歩の自力と自信の成り行き任せに生きることになれば、如何なる有事を恐れることにもなりませんから、その有事が有事にもなりません。
すなわち(死に至ることにならなかったことからして)生きているだけで十分な穏やかな平常心で、有事にも動揺しない(有事が有事ではなくなる)(地獄が地獄とは思えない)(否定反発・不安不信のない)(苦も楽もない)安心安全の最高の贅沢を味わいながら暮らせるのです。