孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

宇宙・神は「ひとつ」だから、その宇宙・神を説くのも同じはずなのに、何故か様々に違っています。

2012年07月25日 | Weblog
それは全知全能の宇宙・神の愛意識を感じ取った者のそれぞれの想念・思いが含まれていることからして不完全なのです。
その不完全な個人的な思いの入り混じった不完全な宇宙・神を説いているのに「私は正しい」(私の神が正しい)と思い込んでいますから、他の宇宙・神を説くものを不信感・敵対意識・競争意識でもって不安心配の心持でいます。

だから勢力争いの抗争・戦闘・戦争・侵略戦争や早い者勝ちの布教争いや他の信者の改宗を無理強いするような形もありました。
しかも同じ宗派勢力圏内の中でも勢力争いやサタン狩りや魔女狩り異端児扱いまでもありました。

またその信仰・宗派の元となった神がかり的な開祖・教祖・指導者ら自らが「邪悪な者」を排除する名目で人殺し戦争を仕掛けている史実もあります。
今で言う正義・聖戦です。

と言うことですから、当然ながら現在の山田耕栄さんの説く完全真理の講演会の中にも時々不完全意識が出てきても当然です。
しかし判断の伴わないあるがままの宇宙・神の愛意識・完全意識をそのままに感じ取ったのは山田耕栄さんが初めてです。
だからこの世で始めての完全真理といわれるわけです。
※それ以前に私が知っていたのは(水面下で一人歩きしていた)宇宙的霊能者が言われていた「否定反発排除のない愛の時代」(地球維新)が訪れるでした。

しかしその耕栄さんの個人的な思い・想念が完全真理と混ざり合うことで不完全な真理や信仰宗教のように思う人がいても不思議がありません。
だから中にはインチキ・カルトに思う人もいますが、そう思われている山田耕栄さんやそのファバラがどうであれ、完全真理は完全ですから矛盾も妥協もない事実が語られています。

だから同じくして私のブログにも完全真理と私の思いが書かれたものが入り混じっています。
その私の思いの中に強まっているのが神がかり奇跡を見せて人を集め金を集めているその違和感ですが、その神がかり奇跡を否定しているわけではありませんで、必然性があってのことです。

また同じく前項に書いた信仰宗教を否定しているのではありませんで、必然とする者がいるからその形が実在存在できているのです。
しかしその宇宙・神を説く形の中に不完全な事実が隠れていることは(私の思いからも)しっかりと書いています。

ところが何で「宗教化」になっていったのだろうという自問自答で判りかけてきたのが、過去の釈迦やイエスが修行苦行した事実からして言えば(耕栄さんは修行していませんが)、自らが神の領域・神意識に達したかったその思いを持っていたからこそ修行する事や苦行に耐えることができたと思われます。
すなわち自らがまだ未熟だと自覚していたからだと思います。

それと同じく、完全真理の講演会で(完全意識になるために)「皆さんと一緒にやりましょう」と耕栄さん自らが声を上げていましたし、また講演会に参加している人が実践できなくて離脱して耕栄さん独りになっても独自でやり続けるとも言っていましたから、その己の未熟さを自覚できていたのならば、(私に言わせれば、食べる事に事欠いても)耕栄さん自らが完全意識になるための独自独歩の歩みになって当然なのに、何で(一人では寂しいから?仲間が欲しから?)大勢の人を一同に集める(主張・誇示する)必要があったのかと言う違和感が私にあったのです。

すなわち(神がかり超能力をもっていても)誰もが未熟なゆえに、過去の人もまた現在の人も、我が道の独自独歩の歩みやまた思うがままの修行行脚や聖地行脚やまた洞窟やお堂にこもったりまた艱難辛苦の荒行・修行が成されている事実からして言えば(自らの未熟さを知っていながらも)(自らが大勢の人前に出て)人集め金集めの信仰宗教・教祖の如くに講演していることに私の違和感があっても当然だと思っています。

私が思うに、日頃の生活・人間関係そのものが修行と同じですから、それを素直素朴にして自己拡大することなく完全意識に近づく実践をしながらも、時として必然ご縁があれば自分が知る宇宙・神・愛の完全真理の説明がある程度で十分だと私は思っています。
また必然からそれが単行本になったりネット・ブログで公開される事になったり、また人づてに広まったり、時として必然ご縁から集まりに顔を出すことがあっても、自らの日常生活・自力生活に支障がない程度なら、それが普通であって特別とはならないと思います。

何故こんな文書を書くかというと、不完全意識の人間をどうすることもできない事実を実感で学び知っているからです。
だからイエスや釈迦や耕栄さんであっても、人様のことはどうすることもできないのだから、自らが独自独歩で自分の道(完全意識に近づく道筋)を進むしかないと思っています。
すなわち自らがミイラ取りにならないように(世直し人救いの思いにならないように)(自己拡大にならないように)謙虚・素朴に生きることが肝要だと思っています。

と書くのも、初期のころから完全真理を学び知りファバラを愛用している私や娘や姉二人や知人や講演会に参加している大勢の人を含めて(耕栄さんが笛や太鼓で音頭とっても)皆が皆ともに中途半端なままに止まっている事実があるし、完全真理や耕栄さんやファバラから離れていく人がいることからして、どうにもならない・どうしようもない事実に思えるわけです。
すなわち無理なことを無理に成そうとしている違和感があるのです。

だから大勢の人を集めて講演したり奇跡を成して見せることよりも(信じる人・信者さんを増やすことよりも)、宇宙意識といわれる耕栄さん自らの普段の生活の中の独自独歩の自己縮小のお手本を語ったり、ご縁あってこられた人にその事実を見せるような形であったり、また仲間意識が如くに仕組まれ必然ご縁から集められ集まる程度で(縮小された形で)十分だと私は思っています。

(私としては)なんたって不完全意識の人間関係に係わることが少なくなった今の私の独自独歩の静寂な生活・変化刺激特別が少ない生活・趣味嗜好娯楽の少ない生活・食って寝て糞をするだけのような(どうしようもないままの)単調な生活が一種の修行のようにも思えている私ですから、私とは違う生活をしている宇宙意識の耕栄さんの家族関係・実生活・見える形を(私的なことは公開されていないだけに)「参考」のためにもしばし覗いてみたい心持になっています。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。