孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

不完全意識だからこそ、無理をしない、余計な事をしない、無駄な事をしない、質素・素朴に生きる。

2011年03月13日 | Weblog
良い悪いで判断していることが原因でこの世が矛盾に満ちた不完全意識で成り立っている事を何度も説明しています。
それが自分さえ良ければの個人意識であったり、比較差別や私は正しいの特別意識や差別意識だったり、善悪・優劣・損得で良いとこ取りしたがる意識と悪い事を排除したがる正義感の矛盾意識や特別意識などの不完全意識のことです。

その不完全意識の人間同士が寄り集まってこの世の形を成しているのですから、何を成しても不完全な結果しか生まれません。
また此れまで精神世界・神や愛を説いてきたイエスや釈迦らも不完全だったことは明らかですし、それらに類する宗教家・教祖や思想哲学者も皆が不完全ですから、それらが説く宇宙や神や愛の真理も不完全です。

その不完全な者達が説く内容も不完全ですが、それがいつの間にやら「正しい」ことに思われて常識化されたことも数多くあるし、それらを信じる信者も正しいと思って崇拝・信仰していますが、それらの教えを言い始めた「言いだしっぺ」が矛盾のある不完全な内容だけに、それらの教えを忠実に守って実践しても、その結果は同じ不完全ですから、結局は実践する価値も無い無駄な事をしたことになり、その無駄な事を無理にしたことになり、(不完全な)余計な事を無理して無駄に終わったことになります。

例えば一般的に言われていることで夫婦仲良く、すなわち人間関係を良くすることが言われているのも理にかなったことですが、人間意識の原因に良い悪い(善悪・優劣・損得)で判断して悪い事を排除したがり良いとこ取りしたがる自分さえ良ければの個人意識を持っていても、お互い様やお蔭さまの調和の意識を持っていないのだから到底無理な話になるのです。

それを無理だと思わない人は何とかして仲良くしようと試みますが、(不完全意識のままでは)中身の無い「見せかけ」の仲良しであって本物ではありせんから、そこで仲良くする形でもって中身がともなったものにしようと無理な努力をすることになったり、また「成せばなる」と一生懸命に形で実践しようとしますが、しかし元の原因意識が不完全ですから良いこともあるが悪いこともあるという矛盾のある形・結果になり、一生懸命努力・無理をしたのに得たものと失ったものがある「割に合わない」算用になったり、また余計な努力・無理な努力をしたのに中途半端な結果しか得られなかったりするとそれが不足・不平不満になったりしてどうしても長続きしません。

すなわち始まりの原因が「完全」ではなかったから、その結果が中途半端であったり妥協が含まれていることからして、今まで通りの努力・協力・理解し合うことなどがいつまでも長続きしなくなり、やがて元の不完全な者同士の結び付き関係に戻ってしまい、結果的には此れまでの努力・協力が水の泡の如くに消えて終わり(わずか一時の仲良しで終り)、また不平不満とその自己満足を繰り返す不完全意識同士の関係に戻ってしまうのです。

だから常識化された常識・伝統風習や道徳にしても不完全ですから、何かと自由を束縛制限されて窮屈な思いをしているのに、結果的には得ているものや失っているものがあるという不完全な結果となり(趣味嗜好娯楽などを含めて)、割に合わない余計な事を無理してその時間・労力・出費を浪費した無駄な結果に終わるのです。

「参考」原因が矛盾や妥協の無い完全であれば結果も完全ですから、その完全な結果は永遠に続きますが(他からの不完全意識の影響を受けることは考えられますが)、矛盾や妥協のある不完全であれば結果も良かったり悪かったりして安定していません。
だからその時々で様々に心変わりして、それが結果的に共に裏切ったり裏切られたりの裏切り関係になったり、また搾取策略偽装の騙し合いや嘘偽りの偽善関係の不完全な関係を伴う事になります。

だから原因意識が不完全であれば結果も不完全ですから、その不完全な余計なことや無理なことや無駄になることを一生懸命努力協力しても、その結果も不完全な余計なことや無理なことになり、それまでのことが無駄なことになるのです。
だから余計なことや無理なことや無駄になることをしないためにも「質素・素朴」に生きることが言われているわけです。

そこで私の事例として、過去において質素・素朴が面白くないと思って金銭物質の豊かさを追い求めていた時期がありましたが、今では無理も無駄も無い質素・素朴な生き方をしていることからして、その両方を照らし合わせながらこうして書いているのですが、その面白くないはずの質素・素朴をいつの間にやら味わう環境・境遇になって気付いたことにあるのが、面白い生き方であったはずの豊かさを追い求めていたことが如何に馬鹿げたことや余計なことや無理していたことやそれらが如何に無駄な生き方だったかに(完全真理のお蔭もあって)気付いたわけです。

そして過去の苦楽・喜怒哀楽の感情に支配された生き方やその人間関係のしがらみに束縛された生き方よりも、今の孤独・自由の呑気・気ままの勝手し放題の平穏無事な生き方の方が、私の性格個性からすれば「お似合い」だったのです。
そして此れまでのご縁必然のお仕組み任せの「成り行き任せ」に生きてきた結果が「今」であること、そしてこの世で始まり終りとなる「完全真理」に巡りあえたこと、また「今」の発端となった摩訶不思議な効果効用のある宇宙エネルギー関連の学びが今の「ファバラ」につながったわけです。

そして「終わり良ければすべて善し」の結果になる事を心待ちにし、また此れまでの全てが中途半端な無駄に終わらないように実践意識を持ち続けているのです。

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