孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

名作絵画の「落ち穂拾い」が貧しさを描写しているのか、それとも穏やかな至福を描写しているのでしょうか

2011年03月19日 | Weblog
有名画家の名作絵画と言われる「落ち穂拾い」の描写を観て、貧困生活が描かれていると思う人がいたり、穏やかな生活・至福が描かれていると思う人がいると思いますが、その「落ち穂拾い」をしているご婦人が不幸なのか幸せなのかを知るすべはありませんが、地主・耕作者が刈り取った跡の残り物を拾い集めていることは(描写を見れば)事実だと判ります。
すなわち耕作地主が「良いとこ取り」した後に、これまた残った物を「良いとこ取り」しているご婦人が描写されているのです。

それに似たような私の事例ですが、知り合いの山林の持ち主が植林している杉を間伐して、その間伐材を製紙工場のチップ材として出荷した跡に、未回収のままに放置されたのや大きな端切れが置き去りにされていたので、それらを(許可を得て)肩に担いで運んで持ち帰り、そして風呂焚き用に薪割りしています。
すなわち山林の持ち主が良いとこ取りした後に来て、私も残された木材の良いとこ取りをしているわけですが、この事例が昭和の戦後であれば、運搬に邪魔な切り落とした太い枝を燃料にするために拾い集める人が良いとこ取りで登場する事になります。

ところが金銭物質に恵まれた今日では、運搬に適さない山林や小規模な伐採ではチップ材にもならずに切り倒されたままに放置されて朽ち果てているのが現状です。
それが昭和の物不足のときであれば多くが無駄なく活用されることになり、また植林された山林が荒れ果てることもなくなりますから、悪いと思われていた物不足の時代であっても、使える物を粗末・無駄にしない良い面もあったのです。

また絵画の落ち穂拾いのように、それを必要とする人が拾い集めて持ち帰っているのが事実であって、少ないながらも食べ物にありつけた喜び感謝の至福の思いで拾い集めていると、私は思います。
だから深夜の街中で空き缶拾いをしている人や賞味期限切れの食品や残飯を食べている人の場合でも同じことが言えますが、その事実を見た人が自分勝手な思いで貧困者に思えば、(その人が隠れた大地主の資産家であっても)それが貧困者に見えるだけのことであり、またそれらの人の意識の中に拾い集めることや食べ物を得ていることに至福の思いがあっても、それらを見た人の意識次第で不幸にも思え見えるということです。

またご近所のおばさんから聞いた話ですが、私の住む家の元の持ち主は小学校教育を受けていなくて、数字や文字が読めないだけに仕事といえば臨時の下働きが時たまあるだけでしたから、何かと収入に事欠いていたのは事実のようでしたが、夏場の昼の弁当がすっぱくなって捨てようとしていた作業員の弁当をもらって、近くの谷川の水でそのご飯を洗い直して喜んで食べていたという話ですが、空腹だったので(腐りかけた弁当であっても)食べ物にありつけた喜びをその人は味わっていたのかも知れません。

また仕事が無いときは山菜やマツタケ採りや自生している天然の山芋掘りをして(その道の名人だったそうです)、それをご近所や遠くの知り合いに山道を歩いて届け、その返礼のお酒を頂いて飲むことが一番の楽しみだったそうです。
だから貧乏が悪いことばかりではなくて、貧乏だからこそ味わえる喜び・至福もあるということです。
それが必要な物が不足していてその無い物を何とかして得られたときの喜び感謝であったり、また「食べ」られる喜び感謝であったり、安心して「寝られる」ことであったり、そして「健康」でさえあれば文句なしの生活になるのです。

また私のように単身生活になれば家族や妻のありがたさも判るが、その家族や妻が居ないことの気楽さも味わえるのです。
また快適便利さのありがたさも知るが、自力やその手間や暇な時間を使って事を成すその喜びも味わえるのです。
また過去に有った物が無くなると不便に思いそのありがさも判るが、それが無ければ無い様な生活の中にもまた別な便利さや快適さが味わえるのも事実です。

似たような事を書き足せば切がありませんが、(時と場合によっては)安心安全が災害危険と隣り合わせになっていること、また便利が多ければそれだけ不便になることが多くなるように(特に災害時)、知って良かったり悪かったり知らなくて良かったり悪かったりもするように、長所が欠点にもなり欠点が長所にもなるように、良いことが悪いことにも悪いことが良いことにもなるように、楽もあれば苦もあるように、裏があれば表もあるように、それら矛盾を深く味わい知ることで分かり見えてくるものがあります。
それが山あり谷あり坂あり壁あり曲がりくねった先の見えない(変化に富んだ刺激的な)道を歩むことよりも、見通しのよい平坦な一本道を安心安全に歩むことが(闇の中を歩くことよりも光がさす道を歩むことが)人間に最も必要なことだと判るのです。

・・・そこで矛盾を知り尽くしたことから・・・
良い悪いで判断することがあっても、その良い悪いで判断したことが「気に」ならなくなるのです。
だから良い悪いで判断することが「どうでもいい」ことになるのです。
すなわち良い悪いで判断することがあっても、それに執着することもなくなり、自分の中で良い悪いで判断したことが可笑しくなって、そんな自分を自分で「笑い」飛ばして終わることが出来るようになるのです。

また先に書いたように、成る様になったら、その成る様になった中にも良いと悪いが同居していることが判っただけに、いちいち良い悪いで判断する必要性すら薄れかけているのです。
また不完全な矛盾のあるこの世の全てが「どうでもいい」ことに思えるようになり、あとは自分の意識次第でどうにでも変わる事を実感でもって気付いているのです。

だから「人間は意識で生きている」ことを学び知ったことになるのです。
だからこそ人間の<命・意識>を完全に説く「完全真理」の重要性をブログに書いているのです。