孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

不完全意識から不完全な結果が出る事を判っても、その不完全を成すことから脱却できないのが現実かな?

2011年03月27日 | Weblog
この世で始まりこの世で終わる「完全真理」を深く学び知ることでこの世の全ての不完全な形やその不完全な人間関係を知ることになり、そこで良い悪いで判断する矛盾意識・不完全意識の個人意識・差のある特別意識を悔い改める(変革・改革する)実践意識によって多くの気付きが起こりつつ、やがて執着の無い、無理の無い、質素・素朴な生き方へと進み、此れまでの金銭物質的な形の豊かさを追い求めることも無くなればその分だけ自力・自信になり、それがまた精神力・意識力の生きる力(生命力)となり、その分だけ自ずと肉体や感情体や精神体を酷使することも無くなり、慌てず騒がず欲張らずのお蔭さまお互い様の調和ある人間関係へと進んでいくことが可能になりますが、しかし今の不完全意識の不平不満とその自己満足の繰り返しのままに止まっていれば、その先に進む事無く此れまでの全てが無駄に終り、完全な宇宙・神・愛を知らないままの不完全意識のままに人間を終えることになります。

ところが概ね、その不完全な人間関係を知ったとしても大方はその知識だけで終わって実践が伴いません。
何故なら見栄や世間体や「しがらみ」を気にしているからです。
だから不完全を知ったところでその不完全な人間関係から離れられないから、単なる知識だけで終わるのです。

すなわち自分一人なら実践できそうでも、身近な人達を巻き込む事を(実践する以前から)思い考え気にしているのです。
または実践を心掛けていても、その実践にクレームが付くことから、それが気になるのです。
そして自分に自信・自力が無いことから、それがどうやら無理に思えてくるのです。

それで実践できないことが(自信・自力の無い)自分の性ではなくして人様の性にして「責任転換」をしたがるのです。
例えば「自分に都合が悪いことから実践していないのに」それを隠して、如何にも身近な人の為に気遣ったように自分を偽り装い、その気遣いが原因で実践がなかなか出来ていないとして自分を言い訳・正当化したがるのです。
すなわち自分に都合が良い今の人間関係を見せ掛けで守ることで「自分」を守ろうとしているのですから真の実践にはなりません。

だから不完全意識からは不完全しか生まれない事を理解できても、それを実践したら自分の都合が悪くなることが多いことから、その実践が疎かになるばかりか、不完全意識から不完全な事を成すその事実・現実から逃げ出せないでいるのです。
だから知識だけを溜め込んで知ったかぶりをして、そして仲間が集まるところや講演会などにへ出向くその時だけの実践行動を見せることがあっても、日々の生活の中での実践意識によって気付き悟る、その実のある実感で味わえるような実践が乏しいようです。

ところで、自分の意識のことは自分で何とかすることが出来ても人様の意識のことはどうすることも出来ません、それが事実です。
だから身近な恋人や夫婦であれ、両親家族・血縁関係であれ、不完全な人間がこれまた不完全な人達を思い気遣い優しさを示したところで、その結果も不完全で良いこともあるが悪いこともある、またどっちにでもころころ様変わりする、あいまいで、いい加減な矛盾のある、一時の結果しか出てきません。 

しかも自分の事なのに、その自分の事さえも個人意識が邪魔をして実践がままなりません。
それなのに人様、例えそれが身近な我が子や妻や夫や家族両親の血縁関係や親密な関係であっても、それらの人達を自分の意思・行動表現の形で何とかしようと思い考え試みることは自欲自我であり、宇宙・神をも超えた自惚れ慢心になります。

だから人様のことは宇宙・神に任すしかありません、それが真実です。
それなのに人様を何とかしたがるのは(先程のように)自分の都合を思い考えての欲得・偽善でしかありません。
それを正義ぶってみたり、偉そうにしたり、また優しさ思いやりに見せかけても、それは嘘偽りの偽善でしかありません。

だから何度も書いているように不完全からは同じ不完全な結果しか生まれないのだから、その不完全な事を思い考え成すことよりも、無理の無い生き方に変えて、不平不満や自己満足の繰り返しの無い、すなわち良い悪いで考える必要も無いほどの自己縮小した生き方、質素・素朴な生き方に変われば、自ずと余計な問題や面倒が起こることも無く、まして無理も無駄も無い平坦な穏やかな生き方になっていくのです。

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