孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

完全真理の実践を邪魔するのが「しがらみ」であり、その不完全なしがらみを味わい知るのも実践になります。

2011年03月02日 | Weblog
完全真理の実践であっても、己の中に何らかの無理をしていれば、それは実践に執着していることになりますから、日常生活に波風が立つことにもなり、そして山や谷や壁を自らが作ってその苦楽を共にしていることにもなりますから、決して質素・素朴に生きていることにはなりません。

だから実践したくても実践できない無理な状況になっている人も多いと思いますが、それも完全真理を知るまで不完全な世の中やその人間関係に深く染まって築き上げ、それを守り闘って維持しているものをたくさん抱え持っているのですから、当然ながらそれらを無くしたり捨てるなりの実践に勇気・覚悟・決心・決断を必要とする場合があるからです。

特に問題なのが此れまで築き上げ維持している身近な人間関係、例えば恋人・夫婦・家族・両親や親戚兄弟や仕事で関わる人間関係や地域社会との関わりが(しがらみが)真理の実践を邪魔する形にもなります。

ところで私が田舎暮らしや完全真理を知る以前の見えない世界・摩訶不思議な世界の情報交換のような形で関わっているときのことになりますが、私としては何事も否定反発しないで「来る者は拒まず去るものは追わず」で取り組んでいたことから、わざわざ我が家に訪れる人もいましたが、その中には遠い県外から気孔をマスターした人や念力で簡単にスプーンをぐるぐる巻きにしたり空の雲を消す人が来たこともありますし、手かざしの真光教の人が東京から電話してきて一時間以上何度も会話したことがあるのでその電話代も馬鹿にならないと思うし、またエホバの証人の人が布教活動のために何度も来てくれていましたし、幸福の科学の信者さんやキリスト系の布教活動をしている人ともご縁がありましたが、それらに関わる人のその「惜しみない」行動力・実践力に程々感心したことが今も記憶に残っています。

それが何故かと言うと、それらの活動のためだけに日々・日中を費やしていますから、それが原因で離婚・離別・別居の独身・単身生活をしていたり、または無職に近い状態だったり、また深夜勤務のバイトや深夜の警備員をしていたりと、何かと収入に事欠くような暮らしをしている人が多かったからです。

すなわち、世間的ではないことを目指していたり、自分が信じる道や信仰・宗教・真理を独自に歩むためには、多くの過去を捨てて新たな生き方をする必要に迫られる時があるのです。
だから完全真理の実践にしても同じことが言えます。

すなわち、良いこともあれば悪いこともあるのが人間関係ですから、協力し合って良いこともあれば邪魔立てし合う悪いときもあります。
更に見栄や世間体や常識伝統風習道徳を気にしていればそれらに意識が束縛制限されて思うがままに動けなくなります。
だから完全真理を実践するにも、それら「しがらみ」が壁の如くに立ちはだかり邪魔立てすることになるのです。
ところがそれでも独自・自由で動く事になれば、先程のような事例もあり得るのです。
だから完全真理の実践といえども、そう簡単に問屋が卸してくれないのです。

ところが私の場合は完全真理を知る以前から既に今の暮らしぶりが始まっていたことですから、その完全真理が説くこの世の不完全さやその不完全な人間関係の事を学び知る以前のことになるし、また性格的には「来る者は拒まず去るものは追わず」の成り行き任せでしたから、その成り行き任せの中の必然ご縁のお仕組みから「成るようになった」結果が、今の田舎暮らしであり、またその一年後にご縁があったのが、今の完全真理ですから、今も過去も何の無理も無駄もなく、また何の邪魔立て障害も無くいつの間にやら今の生活になっていたわけですから、何の未練も執着も後悔も無いし、また未だに何の苦労も味わっていません。

そして生産性の低い「食って寝て糞をする」だけのような生活が約10年近く続いているのも、独自独歩の生き方・自由があるからですが、それもその自由を「前もって」目標・目的・理想にしていたわけではなくて、ただ田舎で呑気に暮らしているうちにいつの間にか「しがらみ」から離れた、その自由を味わっていることに「後から」気付いたわけです。

その「しがらみ」から開放されただけに、完全真理が説くこの世の不完全な形や人間関係の矛盾などが、如何にも我が手にとったように理解できたのだと思っていますし、その束縛制限支配し合う人間関係に何の未練も執着も無くなっていたわけですから、更に自由・開放感を味わいつつその食って寝て糞をするだけのような生活にも自信が付いたわけですし、更に最近では執着の無い・質素・素朴な生き方を善しとして説かれただけに、尚更に自信を深めたわけです。

そしてこの世の不完全さやその人間関係に何の未練も執着も無くなれば、そこで意識する事と言えば完全真理とその実践意識と、日々生きる為に食って寝て糞をすることだけになります。
それ以外の日常世間的なことには(全てが不完全なだけに)無関心になりますから、その世間一般的な関わりさえも無駄に思えたり、どうでもいいような余計な事を何故か無理している格好に思えたり、また家族の問題であっても(皆が不完全なだけに)どうにもならないことであり、どうでもいいことだとも判っているだけに、ほっとけ(仏に任す意味)ますから、そんな余計な事・無駄な事・お節介ごとをしなくなるし、その家族や世間に無理に合わす必要も殆ど無くなりますから、尚更に暇で退屈な時間が増えています。

それであっても(私にすれば)、この世の不完全な人間関係で苦楽・喜怒哀楽を味わうこともなくなりましたし、また無理や無駄のない質素で素朴な穏やかな生活を味わうことになるのだから、少々都合の悪いことがあってもそれに何ら拘り執着しなくなりますし、また先々のことは大船に乗った感じで身を任せていますから、平常心のままに成り行き任せにしておれます。

だから完全真理を深く知り続けるための実践を意識し続けた生活の中での「新たな気付き」が起こればいいことだし、先々のことは宇宙・神・愛の必然ご縁の成り行き任せにして、日々を気楽に生きることになっているのです。

ところが、その質素・素朴に生きる事を善しと思えない人であれば(不足に思う人であれば)、先程の事例のように知った事実・信仰・宗教・真理を(無理をしてまで)宣伝・勧誘・布教活動する事になったり、それらを人様に認めてもらいたいがために無駄で余計な事を無理してまで実践行動したりすると、その手間・時間・経費を無駄に浪費することにもなり、またそれらの仲間を「欲し」がることや仲間を「集め」たがることにもなったり、また似通った者や同じ仲間の所に皆が「集まり」たがることにもなるのです。

また、そこまでに到達していないで単なる知識の寄せ集めで終わっている人ならば、これら事例は何の関係も無いことになりますが、ところがしかし知識だけであれば、死に至る時・有事の時が来れば、その死・有事に己の意識が支配されて執着することになり、その知った知識はすっかり忘れてしまい(気付かずに終り)何の役にも立ちません。
また例え知識が蘇ったとしても、その実践をしていないだけに、その知識を活かしきることなく途中で終わることにもなります。

だから完全真理を知識で十分知った上で、この世の不完全さやその人間関係の矛盾を深く味わい知る事にでもなれば、それが実践でもあり、やがて不完全なこの世やその人間関係に何の未練執着も無くなり、また邪魔立てされようともいっさい気にならなくなれば、それでもって何の無理もなく独自の実践を続けていくようになります。
すなわちこの世の形や人様のことなどを気にせずに(無理なく)己の自信と自力でもって(他がどうであれ)何の執着も無いままに質素で素朴な実践が出来るようになれば、あとのことは宇宙の仕組み・必然の成り行き任せにしていても大丈夫なのです。

だから人間としてこの世の不完全な事を「成す」のではなくて、その不完全なこの世の形やその人間関係を味わいつくした事を反省材料にして、完全真理が説く宇宙・神・愛の完全意識を学び知ることが(今生かされている)人間の本命・本分だと悟りに至れば、そのあとのことは完全な宇宙・神・愛に任せることになります。