過疎地で暮らしはじめて9年目になりますが、所有している敷地や山林は猫の額ほどですから、それらしい作業も半日や一日で終わってしまいますから、時々はご近所のお手伝いで畑仕事や山仕事や草刈のお手伝いをしていますが、その時の昼食やお茶の時間ともなれば所かまわずに座り込んで美味しく頂いております。
冬場なら日当たりのするところ、夏場なら木陰、見晴らしのいい場所、そんな土手や道端に座り込んで何気兼ねなく共に頂く昼食やお茶の時間は楽しいものです。
田舎暮らしの真髄・至福の時とも言えるでしょう。
暇で退屈した時に風呂釜で焼く間伐したヒノキを切って薪割をしますが・・・ その時にハウスシチュウーのCMを思い出します・・・
そのCMでは、男が薪割をしていて、その割れた薪が勢い余って手伝っている女性の方に飛んでハッとするが、(あわやと言う出来事なのに、良い悪いで判断せずにすませることができたから)それがきっかけで互いが見つめ合うことになり、そして何気なくニッコリと微笑むことが出来たということが・・・ 意識し合う者同士が共に味わえる至福と言えます。
もし、その男女が真理で言うところの愛を共に意識し合う関係でなければ、女性は危険な思いをしたのだから笑顔が出る筈もありません。
また、共に一緒に居たいと言う動機・感情がなければそれぞれが離れ離れで用事をしていたかもしれないし、またはイヤイヤながら付き合っていたのなら尚更に笑顔は出ません。
すなわち、同じ出来事でも(同じ原因でも)人の意識次第では良いことと悪いことの裏表の結果が出るのです。
そして(日常の些細なことでも)意識し合う者同士で共に過ごすことが出来れば、少々危険なことがあっても、そこに良い悪いの判断で人を責めたり自分を責めたりしなければ、その危険な思いをした事実までが互いの至福になると教えてくれたCMです。
それ以前のCMでは、雪道で車のトラブルが起こり、その対策をしている男性の側に女性が立って成り行きを見ているとき、作業をしている男性の手が凍えたので、その手をこすりつけている時に互いの目線が何となく合い、その互いが寒い思いをしていることが微笑になるシーンが描かれていましたが、そんな寒い雪の中でも車外に出て作業をする男性と共に側で居たいという女性の心理がうまく描写され、そこに至福を共に味わっている互いの姿が浮き彫りにされていました。
それが意識・行動表現を共にしたがらない女性であれば、原因者の男性に不満・反感を持ったまま車内に居残ったり、たとえ車外に出て様子を見ていても、その予想外のアクシデントにイライラしたりしながら見ているかもしれません。
自分には何も出来ない、役立たない事であっても、ただ側で見守っているだけであっても、意識が共に通じ合う仲であれば、その場に共に居るという安堵感・感情・感覚から来る微笑があればそれだけで心が満たされるから、それ以上の行為表現を求めたり金銭物質的な欲を満たそうとはあまり思いません。
同じ思い同じ意識で共にいれば、(良いことも悪いことも)日々日常の全てが至福になるのです。 共に意識が離れていなければ至福なのです。 すなわち、至福は格別特別なことではないのです。
それなのに特別なことで至福・幸せを得ようと思うから、それが思い通りにならなくて悩み苦しみ困ったことにもなっているのです。
大きなことや多くのことを望んでいるから、それが手に入らない苛立ちや不甲斐なさに自分を責めたりして心を乱すことになるが、共に意識が通じ合っている人・仲間と一緒にいれば、何処にでも転がっているような出来事からでも喜び感謝の至福が味わえるのです。
それには「意識」が重要な役割になります。
土手や道端に座り込んでお茶しているのを至福に思うか、それだけでは物足りずに上乗せを求めたがるのか、単純すぎてつまらないと思うか、大したことをしていないと自分を哀れに思うか、それは人それぞれに違ってくるでしょうが、その今やっていることを判断することは自分だけの思いですから、その自分の意識次第で喜びにも悲しみにもどうにでもなるのです。
上・特別を見てやりたがるから下がつまらなく思えるのです。
自己縮小して上・特別を見なくなれば、普通が丁度よい加減(調和)になり、それがありがたいことになり、結果的に上も下も無かったことに気付くことが出来るのです。
そして人間は意識で生きていることを知り、その意識したところに自分が居ることを知りますから、現実ではない過去や未来を意識することが無くなっていきます。
例えば、子育てで過去や未来を意識せずに暮らしていれば、あらゆることでその時その時の至福を味わえるのに、その子育て行為をしている最中に過ぎ去った過去や現実ではない未来を思い考え悩むから、その分だけ子育ての楽しさが減り、その減った分だけ思い考えた悩みが浮き上がり、それに執着するほどに不安・心配が増してきて、それが解決できない不平不満や苛立ちや怒りなどの苦痛を味わうことにもなるのです。
人間は意識体ですから、その意識が重要な役割をしているのです。
自分の敵は自分の中にあるのです。
自分の幸せは自分の中にあるのです。
それが自分の意識なのです。
冬場なら日当たりのするところ、夏場なら木陰、見晴らしのいい場所、そんな土手や道端に座り込んで何気兼ねなく共に頂く昼食やお茶の時間は楽しいものです。
田舎暮らしの真髄・至福の時とも言えるでしょう。
暇で退屈した時に風呂釜で焼く間伐したヒノキを切って薪割をしますが・・・ その時にハウスシチュウーのCMを思い出します・・・
そのCMでは、男が薪割をしていて、その割れた薪が勢い余って手伝っている女性の方に飛んでハッとするが、(あわやと言う出来事なのに、良い悪いで判断せずにすませることができたから)それがきっかけで互いが見つめ合うことになり、そして何気なくニッコリと微笑むことが出来たということが・・・ 意識し合う者同士が共に味わえる至福と言えます。
もし、その男女が真理で言うところの愛を共に意識し合う関係でなければ、女性は危険な思いをしたのだから笑顔が出る筈もありません。
また、共に一緒に居たいと言う動機・感情がなければそれぞれが離れ離れで用事をしていたかもしれないし、またはイヤイヤながら付き合っていたのなら尚更に笑顔は出ません。
すなわち、同じ出来事でも(同じ原因でも)人の意識次第では良いことと悪いことの裏表の結果が出るのです。
そして(日常の些細なことでも)意識し合う者同士で共に過ごすことが出来れば、少々危険なことがあっても、そこに良い悪いの判断で人を責めたり自分を責めたりしなければ、その危険な思いをした事実までが互いの至福になると教えてくれたCMです。
それ以前のCMでは、雪道で車のトラブルが起こり、その対策をしている男性の側に女性が立って成り行きを見ているとき、作業をしている男性の手が凍えたので、その手をこすりつけている時に互いの目線が何となく合い、その互いが寒い思いをしていることが微笑になるシーンが描かれていましたが、そんな寒い雪の中でも車外に出て作業をする男性と共に側で居たいという女性の心理がうまく描写され、そこに至福を共に味わっている互いの姿が浮き彫りにされていました。
それが意識・行動表現を共にしたがらない女性であれば、原因者の男性に不満・反感を持ったまま車内に居残ったり、たとえ車外に出て様子を見ていても、その予想外のアクシデントにイライラしたりしながら見ているかもしれません。
自分には何も出来ない、役立たない事であっても、ただ側で見守っているだけであっても、意識が共に通じ合う仲であれば、その場に共に居るという安堵感・感情・感覚から来る微笑があればそれだけで心が満たされるから、それ以上の行為表現を求めたり金銭物質的な欲を満たそうとはあまり思いません。
同じ思い同じ意識で共にいれば、(良いことも悪いことも)日々日常の全てが至福になるのです。 共に意識が離れていなければ至福なのです。 すなわち、至福は格別特別なことではないのです。
それなのに特別なことで至福・幸せを得ようと思うから、それが思い通りにならなくて悩み苦しみ困ったことにもなっているのです。
大きなことや多くのことを望んでいるから、それが手に入らない苛立ちや不甲斐なさに自分を責めたりして心を乱すことになるが、共に意識が通じ合っている人・仲間と一緒にいれば、何処にでも転がっているような出来事からでも喜び感謝の至福が味わえるのです。
それには「意識」が重要な役割になります。
土手や道端に座り込んでお茶しているのを至福に思うか、それだけでは物足りずに上乗せを求めたがるのか、単純すぎてつまらないと思うか、大したことをしていないと自分を哀れに思うか、それは人それぞれに違ってくるでしょうが、その今やっていることを判断することは自分だけの思いですから、その自分の意識次第で喜びにも悲しみにもどうにでもなるのです。
上・特別を見てやりたがるから下がつまらなく思えるのです。
自己縮小して上・特別を見なくなれば、普通が丁度よい加減(調和)になり、それがありがたいことになり、結果的に上も下も無かったことに気付くことが出来るのです。
そして人間は意識で生きていることを知り、その意識したところに自分が居ることを知りますから、現実ではない過去や未来を意識することが無くなっていきます。
例えば、子育てで過去や未来を意識せずに暮らしていれば、あらゆることでその時その時の至福を味わえるのに、その子育て行為をしている最中に過ぎ去った過去や現実ではない未来を思い考え悩むから、その分だけ子育ての楽しさが減り、その減った分だけ思い考えた悩みが浮き上がり、それに執着するほどに不安・心配が増してきて、それが解決できない不平不満や苛立ちや怒りなどの苦痛を味わうことにもなるのです。
人間は意識体ですから、その意識が重要な役割をしているのです。
自分の敵は自分の中にあるのです。
自分の幸せは自分の中にあるのです。
それが自分の意識なのです。