孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

ハウス・シチュウのCMで至福を見た

2009年04月01日 | Weblog
過疎地で暮らしはじめて9年目になりますが、所有している敷地や山林は猫の額ほどですから、それらしい作業も半日や一日で終わってしまいますから、時々はご近所のお手伝いで畑仕事や山仕事や草刈のお手伝いをしていますが、その時の昼食やお茶の時間ともなれば所かまわずに座り込んで美味しく頂いております。
冬場なら日当たりのするところ、夏場なら木陰、見晴らしのいい場所、そんな土手や道端に座り込んで何気兼ねなく共に頂く昼食やお茶の時間は楽しいものです。
田舎暮らしの真髄・至福の時とも言えるでしょう。

暇で退屈した時に風呂釜で焼く間伐したヒノキを切って薪割をしますが・・・ その時にハウスシチュウーのCMを思い出します・・・
そのCMでは、男が薪割をしていて、その割れた薪が勢い余って手伝っている女性の方に飛んでハッとするが、(あわやと言う出来事なのに、良い悪いで判断せずにすませることができたから)それがきっかけで互いが見つめ合うことになり、そして何気なくニッコリと微笑むことが出来たということが・・・ 意識し合う者同士が共に味わえる至福と言えます。

もし、その男女が真理で言うところの愛を共に意識し合う関係でなければ、女性は危険な思いをしたのだから笑顔が出る筈もありません。
また、共に一緒に居たいと言う動機・感情がなければそれぞれが離れ離れで用事をしていたかもしれないし、またはイヤイヤながら付き合っていたのなら尚更に笑顔は出ません。
すなわち、同じ出来事でも(同じ原因でも)人の意識次第では良いことと悪いことの裏表の結果が出るのです。
そして(日常の些細なことでも)意識し合う者同士で共に過ごすことが出来れば、少々危険なことがあっても、そこに良い悪いの判断で人を責めたり自分を責めたりしなければ、その危険な思いをした事実までが互いの至福になると教えてくれたCMです。

それ以前のCMでは、雪道で車のトラブルが起こり、その対策をしている男性の側に女性が立って成り行きを見ているとき、作業をしている男性の手が凍えたので、その手をこすりつけている時に互いの目線が何となく合い、その互いが寒い思いをしていることが微笑になるシーンが描かれていましたが、そんな寒い雪の中でも車外に出て作業をする男性と共に側で居たいという女性の心理がうまく描写され、そこに至福を共に味わっている互いの姿が浮き彫りにされていました。
それが意識・行動表現を共にしたがらない女性であれば、原因者の男性に不満・反感を持ったまま車内に居残ったり、たとえ車外に出て様子を見ていても、その予想外のアクシデントにイライラしたりしながら見ているかもしれません。

自分には何も出来ない、役立たない事であっても、ただ側で見守っているだけであっても、意識が共に通じ合う仲であれば、その場に共に居るという安堵感・感情・感覚から来る微笑があればそれだけで心が満たされるから、それ以上の行為表現を求めたり金銭物質的な欲を満たそうとはあまり思いません。
同じ思い同じ意識で共にいれば、(良いことも悪いことも)日々日常の全てが至福になるのです。 共に意識が離れていなければ至福なのです。 すなわち、至福は格別特別なことではないのです。
それなのに特別なことで至福・幸せを得ようと思うから、それが思い通りにならなくて悩み苦しみ困ったことにもなっているのです。
大きなことや多くのことを望んでいるから、それが手に入らない苛立ちや不甲斐なさに自分を責めたりして心を乱すことになるが、共に意識が通じ合っている人・仲間と一緒にいれば、何処にでも転がっているような出来事からでも喜び感謝の至福が味わえるのです。

それには「意識」が重要な役割になります。
土手や道端に座り込んでお茶しているのを至福に思うか、それだけでは物足りずに上乗せを求めたがるのか、単純すぎてつまらないと思うか、大したことをしていないと自分を哀れに思うか、それは人それぞれに違ってくるでしょうが、その今やっていることを判断することは自分だけの思いですから、その自分の意識次第で喜びにも悲しみにもどうにでもなるのです。

上・特別を見てやりたがるから下がつまらなく思えるのです。
自己縮小して上・特別を見なくなれば、普通が丁度よい加減(調和)になり、それがありがたいことになり、結果的に上も下も無かったことに気付くことが出来るのです。

そして人間は意識で生きていることを知り、その意識したところに自分が居ることを知りますから、現実ではない過去や未来を意識することが無くなっていきます。
例えば、子育てで過去や未来を意識せずに暮らしていれば、あらゆることでその時その時の至福を味わえるのに、その子育て行為をしている最中に過ぎ去った過去や現実ではない未来を思い考え悩むから、その分だけ子育ての楽しさが減り、その減った分だけ思い考えた悩みが浮き上がり、それに執着するほどに不安・心配が増してきて、それが解決できない不平不満や苛立ちや怒りなどの苦痛を味わうことにもなるのです。

人間は意識体ですから、その意識が重要な役割をしているのです。
自分の敵は自分の中にあるのです。
自分の幸せは自分の中にあるのです。
それが自分の意識なのです。

自分を守ることで全てが敵となります

2009年04月01日 | Weblog
自分を守ることは、全てが敵となります。

生命を守ることが、死にたくないという不安恐怖になり、その不安恐怖という「自分の敵」と闘うことになります。
生命を守る意識が、病気という敵を怖がることになる。 病気という敵と闘うために、ばい菌ウイルスが敵となる。 ばい菌ウイルスという敵と闘うために、食材食品が敵となる。 食材食品という敵と闘うために、品質安全が敵となる。 品質安全という敵と闘うために、生産製造者が敵になる。 生産製造者という敵と闘うために、インチキ偽装が敵になる。
インチキ偽装という敵と闘うために、信用が敵になる。
信用という敵と闘うために、不信感という敵が必要になる。
そして不信感を持って生きることになる。

また、生命を守ることが財産を守ることになり、財産を失う敵と闘うことになる。
財産を失う敵と闘うために、自分以外は全て敵でなければならない。
全ての敵と闘うために、自分が強固でなければならない。
自分が強固になるために、比較競争に勝っていかなければならない。
自分が勝者になるためには、他者を敗者にしなければならない。
他者を敗者にするためには、他者以上に努力しなければならない。
他者以上に努力するのにも限界があるから、自分のために動いてくれる都合の良い人を集める必要がある。 しかし集める相手も敵だから巧妙な手立てが必要になる。 そして相手が敵なのに味方だと巧妙に嘘偽りで塗り固めなくてはならない。
しかも、自分を追い越すような仲間が出てくると排除しなければ安泰ではいられなくなるから、あの手この手の謀略策略を張り巡らして陥れようとする。
だから、あの手この手で勝者と敗者が決まる競争が激化してくる。
すなわち、全てが嘘偽りの偽善であり、恋人夫婦家族といえども自分以外は全て切り捨て裏切る裏切り関係にあるというのが、良い悪い・優劣損得で計算して自分さえ良ければの「良いとこ取り」をしたがる個人意識の人間です。
※明確に裏切りの結果が出ていなくても、既に偽善関係で裏切っており、その進行中であることに変わりはありません。 しかもあの世とやらまで引き継ぎ続くのです。

また、危険という敵と闘うことにもなります。
交通事故を心配すれば、便利な車が敵になります。 
仕事での事故を心配すれば、その仕事が敵になります。
子供の怪我を心配すれば、楽しい遊具が敵になります。

その他にも比較競争していますから、
見栄や世間体と闘います。
趣味嗜好娯楽仲間で評価採点されると、それらの人と闘うことになります。
学業成績で他の学生が敵になり、企業競争や社内競争で他が敵になります。
家族家庭の中でも常に比較競争していますから、自分以外は敵になります。

そんな「不信感」「敵対意識」が自らの生命に影響していますから、医学で言われるようなあらゆる病名病気を発症しているのです。
風邪をこじらして大病になるのも、その風邪が原因ではありません、あくまで風邪は意識が原因で現れた症状という結果です。
その結果だけを見て対処するから、症状・結果が良くなったとしても大元の根っこ・意識はなんら変わりませんから、また再発したり転移したり別な症例症状が多く出たりしているのです。
焼け石に水といったように、火が消えたように見えていても中は熱いのです。
その熱を冷ますには、原因である「良い悪い・優劣損得」の判断をしないことです。

必然で存在している病原菌や感染ウイルスが原因ではないのです。
当然ながら細胞や血液を悪者に変化させたのも自己意識が原因です。
全て自分の意識・個人意識が招いた結果です。
だから、それが死に至る「ガン」であっても、良い悪いで判断せずに、そのガンと闘わなければいいのです。 闘いに安心は絶対にありませんから、ガンと闘って更に苦痛や不安や恐怖を増すばかりになりますから、自分の持っている寿命に任せればいいのです。
そうすれば、結果的に「守り意識」から来る「不信感」や「敵対意識」を持たないで「心安らかに」寿命・人生をまっとうできるのです。
そして、実在するあの世とやらでも心安らかな意識でいられるのです。

敵を作る他者不信のみならず、自己不信で自分さえも敵にすることができるのです。
その自分の敵は自分の意識が生み出しているのです。
全ては自分に原因があるのです。

耕栄さん曰く・・・ 敵は外にあらず、自分の弱さ、嫉妬、ねたみ、自己不信なのです、その自分の弱さを終わらすのが、心からの「ごめんなさい」「ありがとう」です。

知る、知りたがる、知り続ける意識が重要

2009年04月01日 | Weblog
人間は、人間という肉体を持った意識体ですから、原因は意識にあり、その意識した事を行動表現する道具が肉体という形の結果です。
それをガラスコップに例えれば、ガラスが元の原因であってコップと言う形は結果になり、その結果を見てガラスコップと言っていますが、原因のガラスは見ていません。 
すなわち意識・原因あっての肉体・結果なのですが、原因を見ずに結果ばかり見ているのが個人意識の人間です。

そして、人間と言う役割を終えて肉体が滅びた時は、意識は肉体から離れて意識の世界(形の無い次元)で生きることになりますが、その意識を「命」とも言いますが、その命は意識の世界で永遠に生き続けることになります。

世間で目撃されているUFOも意識体ですから、ガラスコップや人間のように、形がUFOで原因は意識ですから、UFOの世界、UFOの次元の世界が実在しています。
しかもUFOという形を成したものは6次元程度と言われ、そのUFOの次元が高くなると形を取らずに光となり、その光の色や輝く輝度によって次元が異なり、まばゆいばかりに輝く光が12次元とも言われており、まだその先の次元には人間の眼で見ることが出来ない光の次元が無限に広がっているとも言われています。
だから、高々3次元の人間が偉そうにしていることは宇宙の笑いものになっているのです。

人間の形は3次元ですが、その意識が3次元のままだと俗に言う幽霊の次元で生き続けることになりますが、概ね普通は霊界と言われる4次元の意識・命で生きながら再び3次元の人間に転生しているのも事実にあるようです。

人間が意識体である以上、人間は意識したところに居ることになります。
だから喜怒哀楽や生老病死を意識すれば、そのところ・場所に居ることになり、まさしく喜怒哀楽や生老病死で人間の一生を終えることになります。
普通それが人間だと思っていましたが、精神世界・霊魂の世界の次に山田耕栄さんの完全真理を学び知ることで実在する意識次元の世界を確りと学び知りました。

その学び知る事の重要性を知らなければ、何も知らないままに生き続けることになります。
すなわち、意識するにも「知らなければ」意識できないのが人間だからです。
だから、「知る」「知りたがる」「知り続ける」意識が重要になるのです。

もしも、喜怒哀楽や生老病死の意識に耐えかねて自殺でもしようものなら、とうぜん似たもの同士である自殺者の意識の世界で過ごす事になり、二度と人間に生まれ変わることが無いばかりか、自分が幽霊になったのに、その事を知らずに他の幽霊、得体の知れない存在を感じて恐ろしくなりますが、その恐怖から逃げたくても、その逃げ場の無いところで逃げ惑うことになるやもしれません。

だから完全真理を学び知り、良い悪いの判断を持たない実践をして自覚・会得しなければ確かな意識にはなりません。
善悪優劣損得で判断しないで、被害者でもあり加害者でもある裏表関係の事実を知り、そのお互い様の意識や、ありがたいお蔭様の感謝の心を実践で知ることが重要になります。
そして、共にありがたい感謝の気持ちになればそこに至福がある事を実感していなければ、その至福も単なる頭の中の言葉・記憶で終わりますから、真坂の有事で動揺してすっかり忘れていれば「知らない」ことになり、その至福を「知らない限り」、その知らない至福の世界に行く事は絶対に出来ません。
だから「知りたがる」心が必要なのです。

また、個人的な欲得の思惑期待を持った行動表現は愛ではないことを知らなければ、しらない間にお互いが裏切ることにもなり、その裏切りの被害者でもあるが加害者にもなっているという事実・真理を知らないから(裏切られたという被害者意識から)憎悪にも変化することになり、その憎悪を持ったままの意識で過ごす事にもなります。
※愛は光りですから、闇を消すことは出来るが闇を作ることはありません。

恋愛や結婚や家族関係で人と接し触れ合う喜び感謝が至福になりますが、しかし人と接し触れ合う中に自分が良くなればの思惑が先にあれば、その思惑が叶ったとしてもそれは至福ではなくて一時の自己満足ですから、直ぐに空腹状態になり満足できないから、早くも次を欲しがったり、以前よりもっと多く欲しいと催促・欲張ることになるから、到底ながら至福を味わったとは言えません。

その意識次第で良くもなり悪くもなるという裏表の矛盾を知り、それを確り意識していなければ、ついつい自分中心の個人意識が出てきて、先ほどの(私・個だけの)喜怒哀楽や生老病死を意識した生活が中心になりますから(形が同じ喜怒哀楽や生老病死であっても、その現れた事実を事実として良い悪いで判断しないで、それら良いことも悪いことも共に一緒に味わう愛・至福を知らないままに)、結果的に愛・至福とは違う別物・自己満足だけのの恋愛や結婚や家族関係が続くことになります。

しかし先ほどの、此れまでに無かった完全真理が日本で説かれ始めたという原因の中にあるのが、・・・良い悪いで判断しない(5次元ほどの)意識の世界が地球人類に訪れ・・・ その至福の意識を持った人間が住む地球に変革・改革されると言われているのです。
そして原因と結果はいっさい離れていませんから、その原因・完全真理が言われ始めたことで必ずや「成る」と言う自信・確証があるから、何度も同じ様な事を書き込んでいるのです。

知らない事を意識することは出来ませんが、知りたがることが知ることになり、その知ったことが自覚・確証になりますから、それを意識し続けることが出来るのです。
もしもその中に矛盾や妥協があれば、知れば知るほどに必ず迷いや不信が出てきますが、完全真理が完全である限りいっさいの迷いや不安や不信は出てきません。
だから、完全真理に迷いや不安や不信が出て不完全に思われるとしたら、それは理解不足や自己流の解釈(自分が思いたいように思う)に原因があると思われます。
それとも、自分に都合が悪いから信じようとしない個人意識・特別意識のご都合主義が邪魔をしているものと思われます。

すなわち、他が原因ではなくて全て自分にあることが理解できなければ、自分の中に自分の敵が居ることになり、せっかくの完全真理や意識エネルギーのファバラエネルギーも大して役に立ちません。