孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

NHK「多摩川の猫とおじさん」に真理を見た

2009年04月02日 | Weblog
NHK「多摩川の猫とおじさん」で、捨て猫と関わるホームレスのおじさんをビデオカメラマンの語りと一緒に描写している番組を見ましたが・・・
そのおじさん達がホームレスになった原因の中に、どうやら競争社会に馴染めなくて負け組みになったことからどんどん落ち込み、家族からは失望感で責められて居場所が無くなって家出をしたり、または妻に家出をされたり、自分が家出をしたわけではないが働き口が見つからずに帰郷できなくなってしまい、その独り暮らしがやがてホームレス生活になったようですが、その初期のころは失望感や絶望感で大方のホームレスが自殺を考えたようですが、それでも死に切れずに仕方なく暮らしているうちに社会の底辺で長くいることで意識変わりが起きて、ホームレス以前のような生活が自分には苦であったことがわかり、以前と同じような生活には戻りたくないと意識するようになり、もう過去の未練も消えてしまい、今のホームレスからの脱却を望みながらもその生活を猫と共に楽しんでいる様子が描かれていました。

多摩川の土手に壊れたおもちゃを捨てるように猫を捨てに来る人とがあとを絶たないことが、ホームレスのおじさんたちがあちこちで使い捨てにされた立場と一致していて、その捨て猫を自分にダブらせているのか、本当に優しく大事に世話をしていました。

ホームレスの空家を撤収に来た委託業者の作業員が何気なく言ったのか「こんな暮らしをするくらいなら首を吊って死んだほうがましだ」と言ったのを聞いたおじさんが憤りを感じて説教していましたが、その中に「明日は我が身に降りかかる」ことを実感を持って言っていたようですが・・・ その作業員に一抹の不安はあるが「私は大丈夫」と思っているから、何気なく「首を吊る」話が出たのだと思います。

その委託作業員と同じように、不安はあるが私は大丈夫と思っている人は大勢います。
しかしそれは生活のみの話であって、その不安や悩みや幸せは何処にあるのかといった意識・精神面はぜんぜん別物に思っているのかもしれません。
先ほどのホームレスのおじさんのように、その日暮らしの何気ない生活の中に心温まる優しい心があったり、その日暮らしの呑気気ままに生きれる孤独と自由を確かに味わっているほうが、今の比較競争社会で息苦しく妥協と惰性で生きているよりか、自らが底辺に落ちたことで味わった比較競争社会の矛盾した現実を見つめ直すことが出来て、その今を自分なりに確かに生きて、今を生き抜いていると言う実感を持って生きているほうが人間として意味ある生き方ではないでしょうか・・・ 私のように年金で食って寝て糞をしているだけのような暮らしより充実しているように見えました。

何はともあれ、此れまで精神面・意識をないがしろにして生活経済を優先してきた歪がどんどん噴出しているのが現状なのに、未だにそれさえもないがしろにして経済回復・景気対策を一番に掲げ、ついでに相反するエコを掲げて言い訳正当化しているのが現状ではないでしょうか・・・

そんな矛盾や妥協に本物は見出せません。
その本物とは「意識」のことです。
そして意識の中に愛があるのです。
良い悪いで判断しなければすべてが愛になります。
良い悪いで判断した形の中に愛はありません。

良い悪いが無ければお金も愛です。
お金が多いのが良くてお金が少ないのが悪いと思えば、お金の亡者で愛はありません。
お金が多くても少なくても幸せは同じです。
たくさん食べても少なくても美味しさは同じです。
心が満足すれば形の満足をあまり求め欲しがりません。
全て形には関係ないのです、意識次第なのです。

有っても良し、無くても良しであれば矛盾していないから、良いも悪いも無かったことになります。
多いとも少ないとも思わなければ「普通」になります。
その普通には矛盾がありませんから、矛盾が無ければ迷い悩むこともありませんから、普通の穏やかな心になります。

いい加減にして形ばかり見ないで意識を見てみては如何でしょうか・・・
天国も地獄も、幸せも不幸も、全て自分の中にある意識がそう思わせているだけです。
お金の量や物の量は関係ないのです。
すべてが自分の意識に原因があるのです。
良い悪い・裏表・矛盾が無ければ「普通」になり、形の質や量が違っていても皆が同じ普通になり、意識に差は無くなります。
意識に訳隔てる差が無くなれば意識は離れていませんから、形や境遇が違っていても皆が平等で自由な至福・平和を味わえるようになります。

それを教えているのが山田耕栄さんの完全真理であり、その「完全を知る者が完全を成す」ことが出来ますから、やがて地球に住む人間が(全員とは言えないが)良い悪いの無い完全意識になる時が必ず来ます。
そこで先ず、「知らない事」を意識するわけにはいきませんから、完全真理を学び知ることが先決になります。
そして「その時」が来るまで完全を意識して実践していなければなりません。