人間は空気や水が無ければ生きていけませんから、水や空気などの自然に感謝をしなければなりません、それがアリガタイになります。
その感謝を思ったり言ったりは出来ますが、心から感謝出来る人は少ないでしょう・・・
ゆえに豊かな生活に感謝することは出来ても、その原因である自然界に心から感謝出来る人は多分いないでしょう・・・
完全真理で言われるところの、良い悪いを持たない自己縮小の実践がありますが、その良い悪いで判断する個人意識は持って生まれたものですから、そう簡単には良い悪いを無くすることは出来ません。
そこで良い悪いで思う事があっても、それに執着しなければ忘れることになりますから、良い悪いで思っても忘れればそれが無かったことになります。
ところが忘れたつもりでいても、持っているものは直ぐに出てきます。 特に真坂の有事になれば直ぐに出てきます。
そこで良い悪いの思いが出ないためにも、アリガタイ感謝の心を学び知り自覚して持つようになればいいのです。
既に持っている「良い悪い」で判断する個人意識を無くするのは難しくても、感謝の心は人間が元々から持って生まれたものだから容易に出すことが出来ます。
とは言っても空気や水や植物動物鉱物といった自然界に素直に感謝するにも、今の豊かな生活を長年やってきているだけになかなか本物の感謝にはなりません。
その豊かな生活を心から感謝していればそれが全ての感謝につながるのですが、どうしても「良いとこ取り」の自分に都合がよい事だけに感謝の心が行きますから、すべてに感謝できるアリガタイ感謝の心にはなりません。
ホームレスの人が明日は飲めないかもしれない缶ビールを美味しくアリガタイと思って飲むのと、毎晩ビールをあたり前のように飲んでいる人とは感謝の度合いが違ってくるように、同じ物でも価値観が違えば感謝の思いも違ってくるのです。
だから、「原因」である意識の自己縮小の実践をするためにも、「結果」である形・物質での自己縮小も必要だと、私は思っています。
毎晩あたり前のように飲んでいたビールが飲めなくなって、そのビールのアリガタサがわかるように、ベットに横たわる病人になって健康のアリガタサがわかるように、死にかけてから始めて生きていることがアリガタイことだとわかるように、その状況立場になって始めてアリガタイに気付く事も多いのです。
だからエコ生活やワークシェアリングが言われている世の中だけに、生活面や仕事面での物質的な自己縮小も必要だと、私は思っています。
良いと悪いの両面を持っている国家社会ですから、戦争や侵略で良いことも悪いこともあります。 巨大国家企業になって良いことも悪いこともあります。 どんな方法を使って良いところを追求しても、(良いとこ取りしても)必ず悪いことも付いてきます。
だから、同じ様に生活格差の貧困にも良い面と悪い面があります。
その悪いといわれる貧困になればなったで以前の豊かさがアリガタイと思うようになりますから、物質的な価値観や意識面では良い結果にもなります。
その貧困の中にも貧困の差がいくらでも有りますから、過去の豊かさがアリガタイことになります。 すなわち富む者が貧困で知ったアリガタサになります。
自分の都合に良いことをアリガタイと思うことは容易いが、(悪いと思われている)貧困がアリガタイことになれば、病気になった事がアリガタイことになれば、死にかけていてもアリガタイことになれば、病人を介護できる事がアリガタイことになれば、それが本物のアリガタイになります。
しかし、他と比較してからアリガタイと思うのは心からの感謝ではなくて自己満足の感謝になります。 また、貧困を後悔しているかぎりアリガタイを知ることにはなりません。
ところで本物の愛は優しさ思いやり感謝の心ですが、自分さえ良ければの自己中心の個人意識がある限り私・個の自己満足になりやすいのですが、その自己満足に良いも悪いも無いのだから・・・ しかもその自己満足になる個人意識を消すことがなかなか難しいのだから・・・
その視点から私的にいえば、たとえ自己満足であっても、それを簡単に否定することではないと思っています。
その自己満足に拘り執着しなければ強い自惚れ慢心・自己主張や顕示には至りません。
そして、こだわり執着しなければ単なる自己満足は直ぐに忘れていきますが、お互いに感謝し合った心に残るシーンは(自己満足が含まれていても)長く記憶に残り続け、その時のことを思い浮かべることで真の実践の自信にもつながっていきます。
完全真理を知ってベテランになると(完全を求めているだけに)、あらゆる個人意識をついつい否定的にとらえて自らが後悔したり、他に自己満足は悪いことのように伝わって思わぬ誤解を与える時があると、私は思っています。
だから、完全を意識するあまり個人意識の自己満足を否定的にとらえれば、それは完全なる善の完璧を目指していることになると思います。
また、頭の中の知識記憶だけでは完全真理が教えているように「言うだけ」で終わりますが、しかしその知識記憶が無ければ思い考え意識行動表現することは出来ませんから、まずは頭の知識記憶も必要になります。
だから教えられ知った完全真理をあまりにも強く意識しすぎると(盲信・猛信)排他的な拘り執着になりやすいので、気をつけたいところです。
そして自分さえ良ければの個人意識は必要・必然で授かり持っているものですから消し去ることは困難だと私は思っていますから、私自身もあらゆる個人意識を持っていることを自覚し認めています、だから完全真理を意識しながらも自分の中の個人意識と仲良く付き合いながら、自分に一番お似合いの生き方で自己縮小の実践をしています。
それがたまたまですが(理想目標で特別に目指したわけでもないが)、物質的な自己縮小といえるような山間過疎地での食って寝て糞をするだけのような、年金独り暮らしになっているのです。
その感謝を思ったり言ったりは出来ますが、心から感謝出来る人は少ないでしょう・・・
ゆえに豊かな生活に感謝することは出来ても、その原因である自然界に心から感謝出来る人は多分いないでしょう・・・
完全真理で言われるところの、良い悪いを持たない自己縮小の実践がありますが、その良い悪いで判断する個人意識は持って生まれたものですから、そう簡単には良い悪いを無くすることは出来ません。
そこで良い悪いで思う事があっても、それに執着しなければ忘れることになりますから、良い悪いで思っても忘れればそれが無かったことになります。
ところが忘れたつもりでいても、持っているものは直ぐに出てきます。 特に真坂の有事になれば直ぐに出てきます。
そこで良い悪いの思いが出ないためにも、アリガタイ感謝の心を学び知り自覚して持つようになればいいのです。
既に持っている「良い悪い」で判断する個人意識を無くするのは難しくても、感謝の心は人間が元々から持って生まれたものだから容易に出すことが出来ます。
とは言っても空気や水や植物動物鉱物といった自然界に素直に感謝するにも、今の豊かな生活を長年やってきているだけになかなか本物の感謝にはなりません。
その豊かな生活を心から感謝していればそれが全ての感謝につながるのですが、どうしても「良いとこ取り」の自分に都合がよい事だけに感謝の心が行きますから、すべてに感謝できるアリガタイ感謝の心にはなりません。
ホームレスの人が明日は飲めないかもしれない缶ビールを美味しくアリガタイと思って飲むのと、毎晩ビールをあたり前のように飲んでいる人とは感謝の度合いが違ってくるように、同じ物でも価値観が違えば感謝の思いも違ってくるのです。
だから、「原因」である意識の自己縮小の実践をするためにも、「結果」である形・物質での自己縮小も必要だと、私は思っています。
毎晩あたり前のように飲んでいたビールが飲めなくなって、そのビールのアリガタサがわかるように、ベットに横たわる病人になって健康のアリガタサがわかるように、死にかけてから始めて生きていることがアリガタイことだとわかるように、その状況立場になって始めてアリガタイに気付く事も多いのです。
だからエコ生活やワークシェアリングが言われている世の中だけに、生活面や仕事面での物質的な自己縮小も必要だと、私は思っています。
良いと悪いの両面を持っている国家社会ですから、戦争や侵略で良いことも悪いこともあります。 巨大国家企業になって良いことも悪いこともあります。 どんな方法を使って良いところを追求しても、(良いとこ取りしても)必ず悪いことも付いてきます。
だから、同じ様に生活格差の貧困にも良い面と悪い面があります。
その悪いといわれる貧困になればなったで以前の豊かさがアリガタイと思うようになりますから、物質的な価値観や意識面では良い結果にもなります。
その貧困の中にも貧困の差がいくらでも有りますから、過去の豊かさがアリガタイことになります。 すなわち富む者が貧困で知ったアリガタサになります。
自分の都合に良いことをアリガタイと思うことは容易いが、(悪いと思われている)貧困がアリガタイことになれば、病気になった事がアリガタイことになれば、死にかけていてもアリガタイことになれば、病人を介護できる事がアリガタイことになれば、それが本物のアリガタイになります。
しかし、他と比較してからアリガタイと思うのは心からの感謝ではなくて自己満足の感謝になります。 また、貧困を後悔しているかぎりアリガタイを知ることにはなりません。
ところで本物の愛は優しさ思いやり感謝の心ですが、自分さえ良ければの自己中心の個人意識がある限り私・個の自己満足になりやすいのですが、その自己満足に良いも悪いも無いのだから・・・ しかもその自己満足になる個人意識を消すことがなかなか難しいのだから・・・
その視点から私的にいえば、たとえ自己満足であっても、それを簡単に否定することではないと思っています。
その自己満足に拘り執着しなければ強い自惚れ慢心・自己主張や顕示には至りません。
そして、こだわり執着しなければ単なる自己満足は直ぐに忘れていきますが、お互いに感謝し合った心に残るシーンは(自己満足が含まれていても)長く記憶に残り続け、その時のことを思い浮かべることで真の実践の自信にもつながっていきます。
完全真理を知ってベテランになると(完全を求めているだけに)、あらゆる個人意識をついつい否定的にとらえて自らが後悔したり、他に自己満足は悪いことのように伝わって思わぬ誤解を与える時があると、私は思っています。
だから、完全を意識するあまり個人意識の自己満足を否定的にとらえれば、それは完全なる善の完璧を目指していることになると思います。
また、頭の中の知識記憶だけでは完全真理が教えているように「言うだけ」で終わりますが、しかしその知識記憶が無ければ思い考え意識行動表現することは出来ませんから、まずは頭の知識記憶も必要になります。
だから教えられ知った完全真理をあまりにも強く意識しすぎると(盲信・猛信)排他的な拘り執着になりやすいので、気をつけたいところです。
そして自分さえ良ければの個人意識は必要・必然で授かり持っているものですから消し去ることは困難だと私は思っていますから、私自身もあらゆる個人意識を持っていることを自覚し認めています、だから完全真理を意識しながらも自分の中の個人意識と仲良く付き合いながら、自分に一番お似合いの生き方で自己縮小の実践をしています。
それがたまたまですが(理想目標で特別に目指したわけでもないが)、物質的な自己縮小といえるような山間過疎地での食って寝て糞をするだけのような、年金独り暮らしになっているのです。