孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

人間は「いのち・命」「意識体」です

2008年07月28日 | Weblog
私たち人間は「いのち・命」です。 
その「いのち」には意識があります。
すなわち「いのち」を持った意識体が人間の形をしているのです。

人間の形は行動表現するためだけにある道具なのです。
その道具は形・固体ですから、自分で動くことは出来ません。
すなわち道具が一人歩きすることは出来ません。
すなわち道具・形に力・エネルギーは無いのです。飾り人形と同じです。

見えている形は仮のもの・借り物・飾りでしかないのです。
「いのち」・「意識」にエネルギーがあるのです。
すなわち「いのち・意識」が実在するものであって、仮のもの・飾りにはエネルギーが実在していないのです。
実在するものは「いのち・意識」であって、他のものは非実在になるのです。

エネルギーの無い非実在の道具を使う事や役目を果たす事が出来るのは、実在する「いのち・意識」があるからなのです。
だから大切なのは道具ではなくて「いのち・意識」ありがとうなのです。
ところが「いのち・意識」より大事に思っているのが道具である姿形・風貌であったり、行動表現されて見えていることを気にしているのです=形ばかり気にしているのです。

見えている形ばかり気にして「いのち・意識」のことが二の次になっているのです。
もっとも大切な「いのち」が後回しになって、道具・形にばかり意識を働かせているのです。
「いのち」を大切にする生活ではなくて、まず安定した生活を大事にしているのです。

「いのち」を大切にする暮らしをしていれば今のような地球環境・生活環境にはなっていません。 今日の荒れ果てた環境にしたのは「いのち」を粗末にしてきたからです。
今日の荒れ果てた環境が、「いのち・意識」の荒廃を示す鏡なのです。 

どんな対策・政策を打ち出しても、どんな科学応用学を持ち出しても、ほんの一時しのぎにしかなりません。 根本的な「いのち」のありがたさ・おかげさまに気付かない限り何をやっても解決できません。
そのことに早く気付きなさいと、これまでずーっと見せ続けてくれていたのがこれまでの歴史の中であったことであり、それが未だに解決できないままに現代まで持ち越され続けているのが今日です。
※道具である人間の形が無くなっても「いのち・意識」は永遠に続きます。

すなわち過去は過去だが、過去と同じ事が今も繰り返され続けているのです。 今が変わらない限り、過去を引きずった今が続き、そのままに未来も今と同じになるのです。 もうそんな繰り返し輪廻を終わらす時が来ているのです。 
その証しとなるのが山田耕栄さんの完全真理でありファバラ・意識エネルギーです。
有史以来今まで出来なかった意識改革・宇宙維新を起こすことができるのです。

TV[聖徳太子」「水戸黄門」と完全真理

2008年07月28日 | Weblog
聖徳太子を描いたテレビドラマを見たときに思ったことですが・・・聖徳太子が敵と戦って勝利していくシーンの中に「神よ、我に味方したまえ」と祈ってか?念じたのかしらないが、遠く離れていてしかも木立ではっきりと姿が見えていない(居るかもしれないと)敵のリーダーに向かって弓矢を放ち見事しとめるシーンがありました。 これも正義の味方・神が味方するもの・ヒーローが必ず勝つというシーンです。

「自分が正しければ」必ず「神は味方してくれる」と正義を描く事が多いが・・・
自分の意に反する者、すなわち敵対する者を悪に定め戦わなければならないの?
なぜ敵対する者・集団を大勢人殺ししなければ世の中を変えられないの?
世の流れを改革するのになぜ戦争人殺しをしなければならないの?

たぶん、改革を成し遂げようとする時代のヒーローに自力が足りないからです。 自分独りの力だけでは成し遂げられないからです。 それで大勢を巻き込んだ闘争や戦争になるのです。 そして勝った方だけが時代の流れを作る正義に思われるのです。 
敵側にも味方側にも寝返り裏切り造反者が同じように出てくるが、そのお蔭でさまで戦いに勝った方が「正しい」行為だったと評価されています。

しかも、勝った方にも負けた側にも大勢の被害者・悲劇があったのに・・・勝利しためでたい事に水をさしたくない心理が働くのかな? 陰・マイナスを意図的に隠したがるのか?・・・被害を出しているのに勝ったことだけを手放しで喜ぶ意識が正義感になりやすいのです。 だから無差別爆撃や原爆投下も他国への侵略侵攻も正義のためにやったことになりやすいのです。
 
西洋のモーゼやイエスらの聖者が自力・神通力で悪を滅ぼす事が描かれていますが、その聖者が真に神を信じているか否かを試されるシーンに我が子をいけにえにすることがありましたが・・・結果的には羊・山羊のいけにえで済んだが・・・真の神がいけにえを欲しがったり、人の心を試すことなんて絶対にありません。 神は愛の心「ひとつ」だけですから、信じる信じないの「二つ」に分離差別する意識は元々からありません。 相反する矛盾する裏表の心を持つものは神では無くて個人意識の人間になります。

私は「水戸黄門」をよく見ています。 いつも似たようなストーリー展開なのに人情味があって涙する事があります。 人殺しのシーンが無いのも気に入っています。 私腹を肥やす悪代官をこらしめるだけで終わっていますから。
しかし「印籠」は権力を意味していますから、見えて判る形・印籠を使うのではなくて、見えていない心の器、すなわち水戸黄門という個人の意識力・自力で相手の間違いを気付かせ悟らす事ができればいいです
すなわち、良い悪いで判断して相手と闘ってやっつけて倒すのではなくて、双方の戦う意識の間違いに気付き、その意識を変革・改革させることができればいいのです・・・時間をかけて一人でも多く・・・ 

その見えない心の器には「良い悪い」が入っていません。
良い悪いで分離判断せずに「そのまま、このまま、あるがまま」に事実だけを見る愛意識・神意識があります。 だから比較することも差別することもありませんから、競い合う競争や戦争になることもありません。 人それぞれ(一人一人)に自由・平等の愛があります。