孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

田舎暮らしと真理の実践

2008年07月18日 | Weblog
<あるがまま>に「ある」ものを「持つ」のは執着になる
<あるがまま>に「ある」ものを「除く」のは差別になる
<あるがまま>に「ある」ものを「頂く」のは感謝になる
<あるがまま>に「ある」ものを「あるがまま」にしておくのが愛
<あるがまま>に「ある」ものを「分離・評価」するのが個人意識

家屋から一歩出れば自然がいっぱいの過疎地で暮らすくらいだから、私は外気・風を感じるのが好きです。 だから周囲の木々の枝打ちや背丈の高い草木を刈り払い見通しをよくし、その見通しのよい開放感と気流・風通しを大切にしています。 また風通しの為に部屋の窓を開けたとき、敷地内に放し飼いにしている白いヤギと自然の風景が調和していて、それを少しでも眺めると何となく心が癒された感じがします。
そして庭に雑草と言われる草花が生い茂りますがむやみに除きません、その草花たちのおかげで夏の陽射しの照り返しが和らいで涼しくなるし、土ほこりも無くて緑が目に優しいから。 その何処にでも生い茂っている小さな草花もよく見れば個性があって美しいものです。花屋さんで並んでいる価値のある花と同じです。 ちなみにその希少価値・価値観が差別になるのです。

山林や山道に珍しい価値ある山野草を根こそぎ採取して(略奪)持ち帰る人もいますが、風景と同じで、あるべき所にあるのが美しいのです。そして訪れた人達が身寺の染む事が出来るのです。 風景を持ち帰る事が出来ないように、その山野草を見たければ何度でも出かけて来ればいいのです。 風景も山野草も同じ自然の美しさです。 それを形や価値観で差別をしたり、自分のものとして持ちたがるのが個人意識です。

敷地内近辺にあるワラビ・ゼンマイ・ツクシ・ミョウガ・イタドリ・蕗にふきのとう・たらの芽・野イチゴなどの山菜は(根こそぎ奪わない限り)山菜が好きな人が頂いて持ち帰る事が出来ます。 そして毎年味わい楽しめます。

食品の賞味期限は気にしませんから値引き半額は歓迎しています。 不衛生と言われる汚れやばい菌やカビや害虫もあまり気になりません。 虫に刺されて痒くなるのが困るくらいです。 医者に行くような大怪我をしても、医者や薬に頼らずに宇宙エネルギーと治癒力で治しています。 

風を感じるのが好きですからオートバイによく乗ります。 
そして車に乗ると夏場でもクーラーを使うことは無く、窓を開けっ放しで走ります。 寒い冬でも(ヒーターの温風で足下を暖め)窓を開けて走ります。 
また長い下り坂を下りる時はクラッチをオフにしてエンジンブレーキは使いません。 省エネになるし自然を感じるだけの静かさがあります。

生活の安定よりも心の安定を意識している今の私には貧乏・質素倹約がお似合いですから、趣味嗜好娯楽はありません。 そして元々から教養もなく(必要としなかったから)、絵画芸術音楽のセンスがありませんから必要としません。 だから音楽芸術鑑賞なども無く、新聞や雑誌・本を読むことは殆どありません。 それでも私に必要な情報は捜し求めなくても自然・必然で与えられ入ってきますから苦労しません。 
人との交流は「来るものは拒まず、去るものは追わず」で成り行き任せにしています。 しいて言えば世間話はあまり好きではありません、だから世間で言うところの普通の会話(回数や時間)が乏しいです。 世間の姿形ではないところの見えない世界・意識の世界を意識して暮らしているからです。
だから世間体や見栄や、離れて暮らす家族のことや、自分の老後のことや怪我や病気や死のことはあまり気にしていませんから(形全般に執着しないから)気楽に生きています。
ところが同じ意識で通じ合う相手が(嫁いで家族を持っている)娘だけでして、他にご縁ある方たちは真理を理解しているようでも、実際の生活と真理の実践が離れていて、真理が別物扱いにされている点が気になるところです。