孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「成り行き任せ」にすれば不信感のない(裏切り関係のない)「お互い様」「お蔭さま」関係になるのです。

2011年12月16日 | Weblog
私達人間が「良い悪い」で判断している限り必ず<不信感>を持っています。
その不信感を持っていると不安心配や恐れから生きた心地がしませんから(死んだも同然ですから)、(バランスを取るために)そこで裏心に「信じて」「信じて頼る」ことで<安心>したがる他力依存・他力本願の思いを持っています。

そして他力を信頼したことで自分の思いが叶うと自己満足しますが、その思いが叶わないと騙された裏切られたと思うことになります。
だから信仰や宗教の神仏を信じていても裏切られることにもなるのです。
だから完全真理や耕栄さんやそのファバラを信じていればその事が騙され裏切られたことにもなるのです。

だから完全真理が説く宇宙・神を信じていれば安心安全になるかと言うとそうではなくて裏心では必ず不信感を持つことにもなります。
だから天変地異や真坂の有事に巻き込まれたときにその裏心が出て騙されたとか裏切られたかのように思い悔やんだり恨んだりすることになるかもしれません。

しかし「完全真理」では、「信じる」ことよりも実在・事実・真実を完全に見極める必要性を説いていますから、当然ながら他力を信じて頼るとかの「信頼」「信仰」「他力依存」は不完全だから良いときも悪いときもあるとその矛盾を指摘していますから、実践意識でいれば「信じる」ことにはなりません。
・・・「信じ」なければ裏切られたと思うことにはなりません。

しかし「不信感」が消えることはありませんから、その裏では誰かや何かを「信じ」たがることにもなります。
それが神仏や人様だったり、また金銭物質だったりして、自分に足らないものを他力に頼って、それを信じたがる事になっているようですが、「信じる」「信頼する」は他力依存の<欲>であり、自力を惜しむ不精者であり、また果報者は寝てまてや濡れ手に粟や棚からぼた餅のご都合主義な生き方になります。
・・・だから「自力」で生きる事をブログに書いています。

そして不信感を持っていても<欲>を出さなければ他力を「信じる」ことも「信頼」することにもなりません。
だから欲を出さずに「成り行き任せ」に生きる事を書いていますが、その成り行き任せの意識になるのにも「自信」と「自力」がなければ無理になります。
だから「食って寝て糞をする」だけのような<成り行き任せ>が横着でも不精でも諦めでもありません、(背丈に見合った)自力と自信より過ぎた欲を出していないだけです。

そしてこの世の不完全な形やその人間関係の不完全さを見極めた上での「無理のない」「無駄のない」「余計な事」にならないための成り行き任せですから、その時々の必然のご縁がなければ無駄に動くことにはなりません。
だから心身ともに余裕がありますから、何処かで何かの必然ご縁があれば、いつでも自力を出すことが出来ます。
しかしそれでも「無理」することにはなりません。

そんな生き方が定着してくると自我(主張や欲)が少なくなりますから、(意識の世界の鏡現象の仕組みから)必然ご縁で関わることになる人様にも同じく自我やご都合主義が少ないことからして、その似た者同士が個性を出し合っても違和感なくお付合いが出来ます。
だから無理も気兼ねも余計な気遣いもありませんから自然体に近いお付き合いになります。

きれい事に聞こえる「信じる」「信頼する」その裏心に偽善の欲得が隠れているのです。
だから到る所で「裏切り」関係が起きているのですが、信じ信頼していた欲得意識の裏心の者にも責任があったことですから、双方共に痛みわけの裏切り合った関係になります。
・・・(人間が)不信感を持っているから、その(人間同士に)裏切り関係が出てくるのです。

その際たるものが「愛情」に見受けられます。
だからその愛情が大切だと思う人に「裏切り」の思いが多く強く出てくるのも当然です。
しかし(不信感のない)成り行き任せにはその結果の愛しかありませんから、自己満足も不平不満も執着も出てきません、ただ成るようになった結果・事実だけで終わります。

そして神や教祖を信じる「信仰」も同じでして、信仰することで生きているときに良かったり悪かったりする矛盾がありますから、その矛盾が不信感にもなります。
その不信感を隠してまで、尚も信じたがるのは、自分の都合もあってのことですから、真の信心ではありません。
だから死してあの世に行けば何で私がこうなるのと悔しがることにもなるようです。

しかし信じる神に全託する、信じ切ることが出来ればそれは成り行き任せですから、その結果に良い悪いの判断は加わりません。
しかしそこに判断が加わっていれば、神を信じきった結果ではなくなりますから、何で私がの結果になります。
だから「成り行き任せ」の結果に判断を加えたり、その判断に執着しないためにも、やはり欲心の特別を望まないことにあります。

何らかの欲心を隠しているから、「信じ」ようとしていることになり、そして裏切り関係が出来ているのです。
だから自己縮小をし続けて素朴・自然体に生きるほど<不信感>が出てこなくなり、必然ご縁の成り行き任せに出来るのです。
そして不信感のない(裏切り関係のない)「お互い様」「お蔭さま」関係になるのです。

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