孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「あるがまま」の愛。 愛情は個人感情の偽善。

2008年02月07日 | Weblog
自分に出来る事をやる!当たり前にやることが愛。
だからイエスも釈迦も自分に出来る事を当たり前にやっていただけで特別な人じゃないわけ・・・皆さんと同じこと・・・自分にやれることを当たり前にやっていた「普通」の人なのです。
だから皆さんも自分の力量以上に特別頑張らなくてもいいのです。 修行をしなくても。聖書教典を学ばなくても。教祖学者先生から教わらなくても。 神を知らなくても。 あるがままにありがたく感謝して日々当たり前の如くにやることをやって楽しく暮らしていれば、それが愛に生きていることになるのです。 神や釈迦イエスと形が違っていても同じ愛の表現をして、愛で生きていることになるのです。

愛を特別にすると個人の情が入り、普通の当たり前の愛ではなくなり、特別(個人主義)の愛情になるのです。 愛情には、愛ではない嫉妬や憎しみがあります。 その特別な愛情を注ぎ求めるから人間関係が変になるのです。
 
自分が悩み苦しむのは・・・自分に出来ないことを考えたり実践行動を無理にやろうとするから・・・また、自分に出来もしないことを他に頼み望むから・・・ああでなければいけない、こうでなければいけないと思い考えるから・・・人を責めたり自分を責めたりするから・・・不平不満・悩み苦しみ・怒り嫉妬・執着になるのです。

自分に出来る事をやり続けることで自力・力量・自信が次第に増え続けていきます。 そして以前は出来なかったことがいつの間にやら当たり前に出来る当たり前が増えていくのです。
今の自分に出来ないことをやろうとするから苦労するのです。 今やっていることの結果を早く得ようと焦るから中途半端なままで自己満足したり、早く結果が出ない自分を卑下することにもなるのです。 今やっている事が出来ることなのです、その出来ることを続けていればいいのです、それを先に大きな結果を想い描いているから自分に出来ないことになって諦めたり逃げ出したり、他力任せにしたりりして、完全ではない中途半端な結果で自己満足することになるのです。

自分に出来ないことは最初から出来る人に任せて置けばいいのです。 その自分に出来ないことを他に任せているのに、それをどうのこうのと批評批判差別するから人間関係が変になるのです。 
また自分に出来ることを自分の都合で人任せにしたのなら、それは自分に出来なかったことだから人に文句はいえないのです。 それを自己弁護・言い訳正当化して人の性にしたがるのは、自分を良く見せよう良く思われようとする顕示主張であり、それでも私は正しいと思う自惚れ慢心にもなります。

宇宙・神の愛も、釈迦やイエスの愛も特別ではないのです。 形や量に違いがあっても差は無いのです。 愛に大きい小さいの差は無いのです。 愛に差を付けようとする人が混乱を広めようとしている偽善者なのです。 その偽善者がどんなに言い訳正当化しても「差」を消すことは出来ません、不完全な矛盾や妥協が広がるだけです。 だから混乱し悩み・恐れ・怒り・嫉妬、比較競争・差別・戦争がいつまでも終わらないのです。

これが愛ですと言って形にすれば、形には必ず裏表の差があるから、それは制限制約・条件付の愛になり偽善になります。
自分が自覚して出した愛は、個人の思いが入っていますから自己満足の愛、制限条件付きの偽善の愛になります。
愛は言ったり見せたりして「出す」ものではありません、無私で「出て」いるものが愛です。
すなわち「そのまま、このまま、あるがまま」の中に愛があるのです。
すべて(全)がひとつ、分け隔ての無いことがすべて愛なのです。
だから差や特別があれば、愛ではなく偽善になるのです。


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