日々暇で退屈していますからその時間つぶしに猛暑の中で時おり草刈をしているのですが、それが単純で単調なだけに精神世界が頭をよぎり然るに自問自答するのですが、
何で私が仕組まれて過疎地で呑気気ままに暮らすことになったのか、その思いを廻らしていていてふと気付いたのですが、
然るに私だけが良くても、人様も同じようにして良くなければ、然るにその人様の不平不満に私が巻き込まれることがありますが、然るにそれを言い換えれば「皆が良くなければ」そのとばっちりが私にまで累が及ぶと言うことを改めて再認識したのです。
然るに私自身は何でも知りたがるやりたがるで次々と新たな事に取り組んでいましたから、然るに徹夜してもそれを苦労心労に思うことにはなりませんでした。
然るに登山家が山登りを楽しんでもそれを苦に思わないのと同じです。
ところがしかし何をやっていても得手勝手な人様が絡んできます。
もうお判りですね。
自分だけが満足していてもこの世に不満足の人がいれば(然るに私と直接関係が無くても)それに巻き込まれるのがこの世なのです。
ゆえに神仏霊魂の世界&信仰宗教&真理が必然で説かれているのです。
ところで過去のイエスや釈迦が多くの人を連れ立っていたようですが、然るにその人達だけが満足していても他にそれらを不満に思う人がいれば然るにそれが諍いになったり弾圧されても(目立つだけに)仕方がありません。
然るに弾圧する側のものを悪人サタンと名指ししてモーゼが如くに罪の無い追手の兵隊を人馬もろともに溺れさせれば、然るにそれが正義とは名ばかりの人殺し&サタン意識と同等になります。
ゆえに自分だけが満足するその集団を作ることよりも先ずは皆が一緒に満足できる形&自由平等調和の人間関係を作らない限り結果的には無駄で余計なことで無理をしたことになるだけです。
ところが如何なる宗教真理をもってしても皆が一緒に満足できるこの世を創造することは不可能です。
然るにして(言い換えれば)如何に精神世界と言えども大勢の人が目的理想やその期待をもってして集る事ではなかったのです。
然るに目立てば味方も作るが敵対する者も同時に作るのです。
ところが先に書いた私のように、
自分の自力と自信の独自独歩の精神でもってして自分だけが何とか満足できるのに、ところが余計な人様が絡むことで否な思いをするのならば、やはり得手勝手な人様と係わらない人里離れた過疎地で単身暮らすのが利に適っているようですね。
然るに呑気気楽にして「楽に生きる」も、然るにそれが得手勝手な怠け者や横着ではなくして宇宙&神&愛の真実を学び知ったことからしての、然るに此れしかないとまでの自信の生き様であれば何の問題もありません。
また人間嫌いでもなくして、然るに自由平等調和の人間関係の必然を心意識からして悟りを開いているわけですから尚更に問題はありません。
しかし「楽に生きる」ことに同調した者が一堂に大勢集まると、それが気に入らない輩からしてみれば、
然るに伊勢白山道なる者のようにエネルギーを出している太陽が良くてエネルギーを吸収している月は悪だとしていますが、然るにそうなると大勢が集まり賑やかな(太陽崇拝意識)者は良いが、反対に孤独静寂を好む(月崇拝意識)者は邪だとして弾圧するかもしれません。
また怠け者の集りだとしてそれを排除したがる(太陽崇拝)者が、然るにイエスやモーゼ如くの超能力でもってして(楽に生きる者をサタンと称し)地の底や海の藻屑として闇に葬られるかもしれません。
ちなみに静かに楽に生きていればそれをとがめる者が現れてくるし、賑やか派手に生きている者をとがめる者が現れてくるのも矛盾意識の人間界なのです。
然るに(良くても悪くても)「出る釘は打たれる」のが常ですから、それが善良なる精神世界と言えども世間に目立たない独自独歩が必然になるのです。
然るにそれを世の為人の為として(釈迦に説法&嘘も方便として)人を集めたがるのも人間の欲からです。
然るに欲があってもその欲が出てこない、然るに楽に生きることを実践していれば気付くことも多くなり、然るに見えていなかった真実が次第に見えてきてそれが自分のものになります。
何で私が仕組まれて過疎地で呑気気ままに暮らすことになったのか、その思いを廻らしていていてふと気付いたのですが、
然るに私だけが良くても、人様も同じようにして良くなければ、然るにその人様の不平不満に私が巻き込まれることがありますが、然るにそれを言い換えれば「皆が良くなければ」そのとばっちりが私にまで累が及ぶと言うことを改めて再認識したのです。
然るに私自身は何でも知りたがるやりたがるで次々と新たな事に取り組んでいましたから、然るに徹夜してもそれを苦労心労に思うことにはなりませんでした。
然るに登山家が山登りを楽しんでもそれを苦に思わないのと同じです。
ところがしかし何をやっていても得手勝手な人様が絡んできます。
もうお判りですね。
自分だけが満足していてもこの世に不満足の人がいれば(然るに私と直接関係が無くても)それに巻き込まれるのがこの世なのです。
ゆえに神仏霊魂の世界&信仰宗教&真理が必然で説かれているのです。
ところで過去のイエスや釈迦が多くの人を連れ立っていたようですが、然るにその人達だけが満足していても他にそれらを不満に思う人がいれば然るにそれが諍いになったり弾圧されても(目立つだけに)仕方がありません。
然るに弾圧する側のものを悪人サタンと名指ししてモーゼが如くに罪の無い追手の兵隊を人馬もろともに溺れさせれば、然るにそれが正義とは名ばかりの人殺し&サタン意識と同等になります。
ゆえに自分だけが満足するその集団を作ることよりも先ずは皆が一緒に満足できる形&自由平等調和の人間関係を作らない限り結果的には無駄で余計なことで無理をしたことになるだけです。
ところが如何なる宗教真理をもってしても皆が一緒に満足できるこの世を創造することは不可能です。
然るにして(言い換えれば)如何に精神世界と言えども大勢の人が目的理想やその期待をもってして集る事ではなかったのです。
然るに目立てば味方も作るが敵対する者も同時に作るのです。
ところが先に書いた私のように、
自分の自力と自信の独自独歩の精神でもってして自分だけが何とか満足できるのに、ところが余計な人様が絡むことで否な思いをするのならば、やはり得手勝手な人様と係わらない人里離れた過疎地で単身暮らすのが利に適っているようですね。
然るに呑気気楽にして「楽に生きる」も、然るにそれが得手勝手な怠け者や横着ではなくして宇宙&神&愛の真実を学び知ったことからしての、然るに此れしかないとまでの自信の生き様であれば何の問題もありません。
また人間嫌いでもなくして、然るに自由平等調和の人間関係の必然を心意識からして悟りを開いているわけですから尚更に問題はありません。
しかし「楽に生きる」ことに同調した者が一堂に大勢集まると、それが気に入らない輩からしてみれば、
然るに伊勢白山道なる者のようにエネルギーを出している太陽が良くてエネルギーを吸収している月は悪だとしていますが、然るにそうなると大勢が集まり賑やかな(太陽崇拝意識)者は良いが、反対に孤独静寂を好む(月崇拝意識)者は邪だとして弾圧するかもしれません。
また怠け者の集りだとしてそれを排除したがる(太陽崇拝)者が、然るにイエスやモーゼ如くの超能力でもってして(楽に生きる者をサタンと称し)地の底や海の藻屑として闇に葬られるかもしれません。
ちなみに静かに楽に生きていればそれをとがめる者が現れてくるし、賑やか派手に生きている者をとがめる者が現れてくるのも矛盾意識の人間界なのです。
然るに(良くても悪くても)「出る釘は打たれる」のが常ですから、それが善良なる精神世界と言えども世間に目立たない独自独歩が必然になるのです。
然るにそれを世の為人の為として(釈迦に説法&嘘も方便として)人を集めたがるのも人間の欲からです。
然るに欲があってもその欲が出てこない、然るに楽に生きることを実践していれば気付くことも多くなり、然るに見えていなかった真実が次第に見えてきてそれが自分のものになります。