しょう爺あーっと宮古

宮古島ではじめたサードライフ。気が向くまま不定期に面白いことあったら伝えます。

宮古島での戦い

2012-08-13 17:38:11 | しらべもの

また8月15日が近づいてきた。

宮古島への米軍上陸はなかったが、空爆と艦砲射撃に見舞われた島は、軍による畑の接収と食糧提供に起因する食糧難と壕生活を強いられる衛生状態の悪化からマラリアが蔓延、爆撃・砲弾の被害と合わせ、より悲惨な状況となっていったという。

宮古島への日本軍の駐留は1年前の1944年10月から始まり、約3万人の陸軍が上陸した。人口約5万人の島へである。

上陸の目的は、沖縄本島決戦の足ががりに宮古島侵略を阻止するというものであり、平坦な島の地形は飛行場建設に最適とされ、海軍と合わせ3本の滑走路を建設した。

が、圧倒的な数の爆撃機の前に迎撃機を飛び立たせる暇もなく市街地は壊滅状態になっちまった。

その時の中飛行場と呼ばれる飛行場の指揮所がキビ畑の小高い丘に残っている。

         

その外壁は1m近い厚さがあったが、終戦後島民が中の鉄筋を抜くためにコンクリートをはいだ結果、3分の2程度の厚さとなっている。壁に刻まれた溝は装飾でも石を積んだ後でもなく、鉄筋が挟み込まれていた後である。

内部は、120㎡ぐらいの広さであろうか、天井のコンクリート版はゆうに1mの厚さがあり、それを支える柱も立派な太さを持っている。

 

          

建設から68年。コンクリートの石灰分が溶け出し、鍾乳洞の様子を呈している。

          

 役に立たない軍隊の駐留は格好の空爆対象となり、住民を守るものではない

という教訓はどこで生かされているのだろうか。