しょう爺あーっと宮古

宮古島ではじめたサードライフ。気が向くまま不定期に面白いことあったら伝えます。

秋を前にして宿題をかたづける

2010-08-31 16:48:28 | しらべもの

東京の新婚さんからいただいた夏の課題。宮古島の仏教と神社について発表します。

宮古島には神社と名のつく社が少なくとも3つあります。大主神社(ウルハズウタキ)、下地神社(ツノジウタキ)、宮古神社の3つです。聡明な方でなくてもお気づきでしょうが前者2つはウタキなのです。ウハルズウタキは、ツカサンマ(ウタキを守る役目女性)とユタのみが挨拶を許されているウタキの中でも最高の霊格のウタキ。地元の人でも入れません。そのかわり、一般人がいつでも祈れる場所として用意されたのがツノジウタキなのです。たくさんあるウタキの中でここだけ何故神社と称しているのでしょうか。謎ですね。この件はまたの機会に解明することとして、先を急ぎましょう。

宮古神社に祀られているのは「速玉男尊(はやたまをのみこと)」「伊弉冊尊(いざなみのみこと)」「事解男尊(ことさかをのみこと)」宮古島統一の祖「目黒盛定政命」宮古開基の祖「与那覇恵源命」宮古中興の英王「仲宗根玄雅命」の6柱。今年の6月25日に移築し、遷座したばかりです。はじめの3柱は熊野3神、あとの3柱は大正以後に追加されたものです。

          

中央の輪は、茅の輪くぐりの神事に使われた茅草で作られた輪。全国の神社で行われている半年の穢れを払う儀式に使われますよね。

さて、この神社の建立は1611年(慶長16年)、同じ年に建立されたお寺があります。
それがこちらの祥雲寺。聡明な方ならお気づきでしょうが、ウタキ信仰の島に熊野権現とお寺が同じ年に建立されるのは政治的な匂いがしませんか。

          

そーなんです。この2年前の1609年、薩摩藩が琉球に侵攻しています。この二つは薩摩藩の検札使が宗教統合と宗旨決定を図るために琉球王に建てさせた権現と寺院なのです。この後、薩摩藩は島に、村番所設置、在番配置と支配を強め、悪名高い「人頭税」導入へと歴史は流れていくわけです。

もともと琉球は祖霊信仰を中心とした多神教宗教であり、(魂は二ライカナイより来て、死後そこに帰り守護神となって村に還ってくるのだ)宗派に関心がなく仏教はなかなか広まらなったようです。そこへ排他的に臨済宗と真言宗を持ち込み、この2宗派で藩が寺を建立させていくという構図だったようです。この祥雲寺も臨済宗妙心寺派の寺院となっています。さらにウタキは神社とみなすとして鳥居をたてさせたのは、その332年後、昭和の大戦争開戦の年のことでした。

うがった見方をすれば、薩摩藩によって押しつけられた宗教といいましょうか。でも現在は巧みに使い分けておりますよ。

とまあこれが島の神社と寺の概説。ガッテンしていただけだでしょうか。

もうひとつの課題。中途半端になっていた亀甲墓(カ―ミヌク―バカ)の話。

       

亀甲墓は、亀の甲羅を伏せた形から名付けられていますが、母体(子宮)をかたどっているといわれ、死後は生まれたところに戻るという考え方からきているということです。斜面にうまくなじんでいますよね。

もうひとつのお墓。宮古在来のミャーカ(巨石墓)から琉球の横穴形式(二―ビ墓)へ移行する中間の形式といわれています。これは15世紀から16世紀初頭にかけて宮古を統治した仲宗根豊見親の墓。正確には、仲宗根豊見親が父、真誉之子豊見親のために築造した墓だそうです。宮古を代表する石造墳墓のほうとなっております。
ご注文の方は以上でよろしかったでしょうか。

           

8月も今日で終わり。心配された3個の台風の影響も島にはなく、秋の気配が薫る風が吹いております。
また長くなりましたが来月お会いしましょう。