しょう爺あーっと宮古

宮古島ではじめたサードライフ。気が向くまま不定期に面白いことあったら伝えます。

今年のマンゴーとか19世紀後半のこととか

2010-06-04 15:03:48 | 宮古史
今年もマンゴーの収穫時期がやってきます。

この前、お知らせしたマンゴーの花から受粉を終え、実がついたマンゴーです。それにしてもこの子は袋もかぶせてもらえず寂しげです。りっぱな実に育って見返してやれと応援しました。



さて、歴史のお勉強結果を披露します。あくまで知り得たことを勝手に解釈した部分がほとんどで、時に創作もあります。そんな時代もあったねと軽ーく聞き流しておいてください。興味のない方はここでさよなら。

琉球分割の話です。

5月18日に日本による琉球処分のことを記しました。

簡単におさらいすると

薩摩藩の統治下にあった琉球王国は、明治政府により琉球藩として清国との交流を断ち藩主(琉球国王)の上京を迫られました。が、従わなかったため1879年3月武力的威圧のもと首里城明け渡しを命じられ事実上琉球王国は滅びました。これに反発した琉球士族の一部が清国に助けを求め、外交交渉問題に発展、この交渉の結果、宮古・石垣を清国に分割することで合意、調印すれすれまで行きましたが、何故か清国は調印せず、分島問題は決着。ここに琉球に対する日本の所有権が確立した。

というのが琉球処分でした。

ここで、何故清国が調印を拒否したかということになるわけです。

いろいろ国際情勢の背景があるわけですが、琉球王国復活をかけた人たちの暗躍という側面もあるので今日はそれを簡単に?記しましょう。

もともと薩摩藩の支配下にあった(すでに侵略を受けていた)琉球王国ですが、明治政府により置県を命ぜられたことを日本の侵略だと解釈した琉球士族の一部があわてて時の清国に琉球王国復活のための助けを求めに行きました。

これを受けて清国政府は、前アメリカ大統領を仲裁役にたてて日本に交渉を求め、日本側は当時の東アジア国際秩序に鑑み、琉球2分割案をのみ、その見返りに1871年に締結した日清修好条規の修正を求めました。その修正案とは中国国内で欧米諸国並みの商業活動ができるという、日本側に有利な条件を盛り込んだものでした。

これに対し、清国は2分割修正案を出してきました。

その案を時系列で並べると

 1(前アメリカ大統領グラントの提案に沿ったものらしい)奄美・本島は日本の領有。宮古・石垣は清が領有。
 2(清の代替案)奄美は日本が領有。宮古・石垣は清が領有。本島は琉球王国として復活。
 3(清のさらなる代替案)奄美・本島は日本が領有。宮古・石垣に琉球王国復活。


さてさてこれを知った琉球王国復活を願って清国に助けを求めた人たち

「違う違う、分割なんか望んでなーい。全島を琉球王国として復活させるためにお願いしているじゃないか。その分割案にあろうことか清が宮古・石垣のみを琉球王国として復活させるなんて。あんな貧しくて資源もない島はいやじゃいやじゃ。」
と泣きわめき、あげくには自殺者も出る始末。

簡単に言うと「沖縄の重要性は日本にとっても清にとっても、なおかつ今でも、住んでる人や文化なんかどーでもよく、国の間の覇権や利権の具に使われるぐらいのもの、さらに宮古・石垣の存在は風前の灯」ってことです。

それでも交渉の結果、清国が妥協、日本案に沿う形で合意に達したというわけです。

しかし、調印の日清国代表は現れなかった。

この背景には当時清国が置かれていた国際状況「ロシアとの国境紛争・フランスの安南侵攻・朝鮮をめぐっての日本との軋轢」等を抱えており、琉球問題などどーでもいーわいという空気がなかったとはいえないと思うよ。

しかしながら、この既得権益を守るために一部琉球士族がとった行動を沖縄を救った行為と解釈する人たちもいるみたいでまだまだこの論争終わりそうにもないのであります。

爺は、文章からにじみ出る通りであり、人を頼っていったくせに思いもよらぬ方向へ動き始めたのをみて慌て、自分たちのために恥も外聞もなく火を消して回る状況判断の甘い粗忽者とみております。

こうやってみてくると、改めて歴史は一歩間違えるとトンでもない方向にどんどん曲って行くものだなあと恐れ慄くと同時に、沖縄はずっと沖縄だったんだなあって意味わからん。

長文になってしまいました。参考資料はいろいろあって書ききれないのでごめんなさいします。

以後はもう少し短く、おもしろくしますね。