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しょう爺あーっと宮古

宮古島ではじめたサードライフ。気が向くまま不定期に面白いことあったら伝えます。

何かおかしい慰霊の日

2011-06-22 17:18:40 | 宮古史

明日は、沖縄県では「慰霊の日」に決められ、県条例で定められた公休日です。

学校や県庁・市町村役場は休日となりますが、民間企業で休日となるところはほとんどありません。

「慰霊の日」とは、太平洋戦争沖縄戦で犠牲になった人たちの霊を慰め、平和を祈る日とされていますが、何故この日なのかについてはいろいろ疑問があります。

1945年6月23日未明、沖縄防衛第三十二軍司令官牛島満中将と同参謀長の長勇中将が糸満の摩文仁で自決したとされています。そのことからこの日を、日本軍の組織的戦闘が終結した節目としてとらえ、沖縄慰霊の日が制定されました。

え”ーーーーっ

沖縄戦20万の犠牲者の内、民間人が半数近い9万4千人といわれている沖縄戦。その慰霊記念日が本土の軍人自決の日っておかしくないですか?

この後も戦争は続き、この自決した司令官は、死ぬまで戦えと言い残し(たと想う)、組織を失った兵隊に民間人を守るすべはなく、犠牲者は増え続けていたのですから。

節目の時は、この後2回あり、米軍の沖縄戦終了宣言が出された7月2日、日米司令官が降伏文書に調印して沖縄戦が公式に終結した9月7日(8月15日は本土の終戦で沖縄戦はまだ終わっていなかったのですね)です。

沖縄県でも9月7日を公式な沖縄戦終結の日としており、県が建立した糸満市平和祈念公園内の「平和の礎(いしじ)」刻銘基本方針には沖縄戦の期間を1945年3月26日から9月7日と明記してあります。

ではなぜ6月23日なのか。爺の灰色の脳細胞がピクリと動いて、そこには何か政治的な意図も感じられるわけで、でも今はまだ分からないのでココまでにしておいてやろう。

という疑問はさておいて、今週日曜日、宮古島市総合博物館慰霊の日特別展示「今に残る戦争遺跡」関連講演会に参加してきました。

       

沖縄戦開戦に先立つこと5ケ月、1944年10月10日朝、突然米軍の空襲が始まり、それまで準備を重ねていた日本軍の3つの飛行場(陸軍2海軍1)はなんの役にも立たず、地上戦に備えて自然壕や地下壕の利用が進みます。講演は、その中のいくつかの壕の調査結果についてのもので、そのうちのいくつかが我が家のそばにもあります。

       

これは、特攻艇秘匿壕と呼ばれるもので、結局ここから出撃することはなかったのですが、人口6万人の島に3万人の軍隊が駐留、食糧や水の調達、施設建設に多くの島民がかりだされたことは想像に難くありません。もちろんシモの世話も。

       

指揮所や陣地壕は中でつながっているものも多く、最大のものは400mの長さを有しておりました。その中の一つの平面図です。

       

ヤマトでの戦争観と沖縄での戦争観(特に非戦闘員の犠牲と終戦処理に関して)とはずいぶんと違う事を知ってきましたが、やはりヤマトは平和ボケでしょうか。

戦争を避ける努力は必要ですが、島に上陸する他国の侵入者に対して、何も武器を持たず「この野郎話し合うぞ!」というしかない無力感はどーでしょう。


長墓遺跡その3

2010-07-12 11:40:59 | 宮古史
この遺跡調査は、今年で6回目。6月30日から7月9日まで行われました。

資金不足で一気に行うことができず毎年この時期に細々とやっているそうです。

今回の調査は、文部科学省科学研究費補助金「先島地域の狩猟採集社会および農耕社会における人間と環境との相互作用の解明」及び「環太平洋の環境文明史」の補助で実施されました。

ハドソン教授は、長墓遺跡の貝塚を掘り、過去の人々がどのように自然環境に適応したかを調べています。青山教授は、作業科学の視点から、宮古島の人々の生活と作業の調査を進めています。

私が参加した3日間には、前回のシャコガイの加工物(貝斧の一部)、ヒトの奥歯、サメの歯等が出土しました。

     
     ヒトの奥歯

     
     サメの歯

この遺跡は内陸部の斜面にあることから、これまで生活の場とされていた海岸砂丘地とは異なった場所にあり、何を物語るのか。この出土品の時代は紀元400~700年とされ、その後千年以上たって風葬の場とされたことと何か関係があるのか、いやがうえにも好奇心が刺激されるのであります。

と言いつつ、今年の調査はこれでおしまい。掘削した穴は土嚢で埋め戻し。

     

実はこれが一番きつかった。このために参加の呼びかけがあったのではないかと思うくらい。

土嚢で埋めた後は覆土してほぼ原状復帰。来年の最初の作業はこの土嚢を取り除くこと。トホホな穴です。

     

今回の佐賀からの参加スタッフ集合写真です。

     

みんな若いのに年寄りをよく使っていただきました。また来年お会いしましょう。

長墓遺跡その2

2010-07-09 11:16:58 | 宮古史
この遺跡は、300年ほど前に風葬された岩陰墓として調査されていましたが、6年程前、佐賀県にある西九州大学マーク・ハドソン教授がその長墓の近くで約2000年前の無土器時代の遺跡を確認したものです。

       
       マーク・ハドソン教授と今回同行した青山真美教授です

宮古島を含む先島の歴史は、南方文化圏とかかわりの深い無土器時代から記録が初めて残された13世紀まで約1000年間、空白の期間がありました。

この遺跡は空白の1000年間を埋める新たな手がかりになるのではと期待されているものです。

遺跡発掘調査への参加は初めてでしたが、すべて手掘りのそれはそれは根気と集中力を必要とする地道な作業です。

       

我々協力者の仕事は、掘った土をふるいにかけ石を取り除いて研究室での分析用の資料を作成することでした。

現場では、掘削箇所の平板測量や遺物発見深さと位置確認等の作業も行われ、大学スタッフ5名、島内ボランティア2名という陣容でした。

       

作業中に出たものの一つシャコガイの加工品です。

       

この他の遺物も出土しましたが次回のお楽しみ。

宮古島長墓遺跡からしょう爺がレポートしました。

長墓遺跡その1

2010-07-08 10:30:22 | 宮古史
島の北部、島尻という地区に「長墓(ながばか)」という風葬の地があります。

       
       これが長墓のある、断層によって作られた丘の東側

       
長墓の入り口。この地蔵の右側の斜面を50m程登ると石灰岩の崖がオーバーハングし、その前に石が積まれた場所に出ます。

       

このオーバーハングの下には

       
         累々と人骨が横たわっています。

       

これは、遺体を風にさらし風化を待つ風葬と呼ばれる葬制で、江戸時代のものといわれています。発見時は約70体分あったということです。

発見されてからの調査では近隣の居住者に関係している人や、思い当たる人がなく、墓に入れられてもらえない事情を持った人ではないかと推測する人もおります。

さて、この墓の前に遺跡を発見し、6年ほど前から発掘調査を進めている研究者がいます。

この3日間、その発掘調査のお手伝いをしてまいりました。

その顛末はこの次に。

ひとまず長墓のお骨に 合掌!