いったんはボツにしようとしかけたのですが、こう寒いと、この赤が懐かしくて。



11月の下旬、県展移動展の作品搬出に新居浜市へ。ついでに広瀬公園へ行きました。そして去年入れなかった邸宅の中を見学しました。
母屋入り口
母屋の居間。

そこを抜け廊下を行くと、新座敷があります。こちらは接待用として建てられたものです。






さりげなく手の込んだ障子がはめてあります。

広い座敷


座敷を下りて庭を散策することもできます。
庭に下りてみました。
それから広瀬家の持仏堂。

つまり、普通の家にある神棚と仏壇が一個の建物として存在!

再び建物に戻って、母屋の奥にいきました。
食事場所


奥が台所

乾蔵 江戸末期の建物をこちらに移築したそうです。今は製茶の機械がおいてありました。広瀬満正は、この地で製茶業を起こし、地場産業として発展させました。
単なる財閥の重役ではない、この地で、地域のために貢献しながら生きようとしたのかな、と思いました。

望遠楼と名づけて、単に景色を愛でるだけでなく銅山への感謝をこめて眺めるようにとの漢詩か飾ってあります。
邸宅を出て、昔からため池だったという池を回って帰りました。





11月の下旬、県展移動展の作品搬出に新居浜市へ。ついでに広瀬公園へ行きました。そして去年入れなかった邸宅の中を見学しました。
母屋入り口
奥がずっと続いています。外から見ると
ずいぶん細長い家です。

この家の主人だった広瀬宰平は、慶応元年(なんと江戸時代)別子銅山支配人に就任しています。38歳。そして50歳の時住友家総理代人(総理事)に就任。この家はその頃に新居浜市の別の場所に建てられ、後にこの地に移築したものだそうです。

この家の主人だった広瀬宰平は、慶応元年(なんと江戸時代)別子銅山支配人に就任しています。38歳。そして50歳の時住友家総理代人(総理事)に就任。この家はその頃に新居浜市の別の場所に建てられ、後にこの地に移築したものだそうです。
西洋の文化を取り入れた和風建築として国の重要文化財に指定されています。あまりにも普通の作りでなんとも思わなかったけど、マントルピースとか洋式便器とか、ガラス窓とか、避雷針とかを西洋から輸入し、当時としては珍しいしつらえだったみたいです。
お金はかけてるんだろうけど贅を尽くしたようには見えず、一回りした印象としては、広々とした官舎という感じでした。
母屋の居間。

そこを抜け廊下を行くと、新座敷があります。こちらは接待用として建てられたものです。
広い座敷の隣には茶室、水屋もあり、



客人専用の風呂、トイレもあります。



さりげなく手の込んだ障子がはめてあります。

広い座敷

縁側からはこぢんまりとした内庭を見ることができます。

座敷を下りて庭を散策することもできます。
住友家の総理事として、客人のもてなしは重要だったことでしょう。
庭に下りてみました。
手前は東屋、向こうの建物は茶室指月庵


内庭から外れても敷地は広く、一角には神社もあります。


内庭から外れても敷地は広く、一角には神社もあります。
広瀬家と、宰平の実家、山𦚰家の神社だそうです。

それから広瀬家の持仏堂。

つまり、普通の家にある神棚と仏壇が一個の建物として存在!
さらには、図書館まで。


しかもこの肇原文庫は宰平の長男が地方人士の知識向上のために建てたのだとか。その前は地元の子供達とのための広瀬家の私設小学校だつたそうです。
この奥には資料館があるのですが、この日は時間がないのでパス。

再び建物に戻って、母屋の奥にいきました。
食事場所


奥が台所

乾蔵 江戸末期の建物をこちらに移築したそうです。今は製茶の機械がおいてありました。広瀬満正は、この地で製茶業を起こし、地場産業として発展させました。

単なる財閥の重役ではない、この地で、地域のために貢献しながら生きようとしたのかな、と思いました。
2階に上がると、新居浜市が一望できる部屋があり、


望遠楼と名づけて、単に景色を愛でるだけでなく銅山への感謝をこめて眺めるようにとの漢詩か飾ってあります。
邸宅を出て、昔からため池だったという池を回って帰りました。


いざ書きかけたものの文章にまとめるとなると分からないことだらけ。ああ、めんどくさ、と思いながらパンフレットと写真と記憶を突き合わせてやっと書き上げました。こうしてまとめてみると、近隣の町の歴史なのになんて知らないことだらけなんでしょう。
けれど幕末から明治にかけての日本の産業の近代化という大きな歴史の中で、埋もれがちな一人の人間の生き様をほんのちょっとだけ垣間見たようで小さな感動を覚えています。