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松本留五郎の秘密

「トメえ、お前の名前は松本や。松本留五郎や。なんかのおりにいうんやで」コトッ。
 そうゆうてオヤジは死んだ。もう二〇年も前や。それからずっとワテは松本留五郎で過ごしてきた。ところがそれがあかんねや。ワテは「松本留五郎」やのうなってきた。
 実はワテはオヤジと遊んだ記憶がない。ここでいうオヤジは、ワテが最後を看取ったオヤジのことや。
 オヤジが死んだのは、ワテが二十六の時やった。もう大人や。大人のワテにとってのオヤジは、そのオヤジや。
 ワテにはオカンの記憶もない。ワテが肉親と思っているのんはオヤジだけや。そのオヤジも死んだ時しか覚えてない。そもそも元気に生きてるオヤジの姿はどうしても思い出せん。
 要するに、ワテは二十六歳以前の両親の記憶がないちゅうこっちゃ。それに名前や。松本留五郎ちゅうのんはオヤジに教えてもろた名前や。それ以前はワテはなんちゅう名前やったんかは覚えてない。生まれてから二十六歳までワテはだれやったんやろ。それに子供のころのオカンもオヤジも覚えてないちゅうことは、ワテはどっから生まれたんやろ。ワテはなにもんや。

「おっちゃあん。回転焼き三つおくれ」
 近所の子供が小銭を握ってワテの店に来る。そや、ワテは回転焼き屋をやっとんたんや。
 そやな。確か、あれはオヤジが死ぬ前やった。どれぐらい前やったきなあ。二年ほど前やったかなあ。ワテが二十四のときちゅうこっちゃな。
 二十四で「おっちゃん」ゆわれるのんはかわいそやけど、子供の目でみたら「おっちゃん」なんやろな。
 どこでやってたんやて。覚えてないなあ。丸い穴が開いた銅板にメリケン粉を溶かした生地とあんこを入れて焼いてた記憶があるけど、それがどこやったかさっぱり思いだせん。 屋台ちゃうかて。屋台と違うたな。店やったわ。外を向いて回転焼き焼いてたから、店の前はどんなんやったか判るはずやけど。どんな風景やったか覚えてないねん。
 え、ほんまに回転焼き屋やっとったかて。う~ん。そう聞かれると自信ないなあ。
 え、回転焼き屋ずっとやっとったかて。あれは冬場はよう売れるけど、夏場は売れ行きが落ちるし、それに焼きもんやから暑いでんがな。一ヶ月やってやめたわ。それから何やったかて。ポンやりましたんや。
 ポン。知りまへんか。お米を回転する釜に入れて、火であぶりながら、ゴロゴロ釜を回しまんねん。圧力が上がったとこで釜の蓋を開けてやると、ポンゆうて、お米がポン菓子になって飛び出してきまんねん。
 え、いまもポンやってるかって。いまはやってまへん。
 ええ、ちょっと待っておくんなはれや。回転焼きもポンもオヤジが死ぬ前の話や。オヤジが生きとった時にはワテはそれなりに仕事はしとったんや。
 回転焼きやポン以外にも。減りぃぃ止めやガタロもやった。いま考えるとな、あのころは自分の名前もよう知らんかったけど、ちゃんと稼いで、ちゃんと生きとった。あれがようするに「松本留五郎」やったんかいな。そやからオヤジはワテの名前を「松本留五郎」ゆうたんや。
 いま何してるて?何もしてまへんがな。そやからなんぞせなあかん。就職せなあかん。リレキショーがいるさかい、こないなところにワテは来てまんねや。
 リレキショーできましたんか。あんさんも代書屋でしゃろ。見せておくんなはれ。ワテのリレキショー。
 さすがきれいな字でんな。これもって面接いくとばっちりでんな。
 ああ、これ肝心のワテ名前が書いてまへんがな。え、名前はいまは空欄やけど、ワテが仕事に就くと名前がちゃんとつくんでっか。 判りました。工場の夜警になったら、ワテは「松本留五郎」になるんでんな。
 ははあ。判りましたわ。オヤジはワテにまじめに働けとゆうとったんでんな。そしたらここにおるワテはだれでっしゃろな。ところで代書屋はん。あんさん名前は?え、なに?
あんさんの名前は「松本留五郎」ゆうんでっか。奇遇でんな。
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