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とつぜんSFノート 第64回

 小生がリストラ前にいた会社K電気。小生はリストラされてその会社を去ったわけだが、27年間その会社にいた。その27年間は会社から得るモノ少なし、会社に取られしモノ多かりきの27年間であったが、勉強になったこともあった。
 そのK電気で労働組合の執行委員を経験した。あの経験は勉強になった。そういえば小生は今は全くの無役だが、少し前まではいろいろな委員や役職をやらされた。児童生徒のころは長にこそならなかったが、なんだかんだと委員をやらされた。SF関係ではイベントの実行委員長を3度やった。社会人になってもQCサークルのリーダーやらなんとか委員会の委員とか。そのわりには実収入をともなう会社の管理職にはついぞなれなかった。
経験したことは、それはそれなりに勉強になったが、その中でも一番の大仕事だったのは組合の執行委員だった。
大阪は梅田に「松葉」という有名な串カツ屋がある。立ち食いの大衆的な店だが、小生もちょくちょく立ち寄った。当時は、北区中津のK電気の本社が勤務先だった。ある日課長に松葉に連れ込まれて、なん本かの串カツとなん杯かの生ビールでQCサークルのリーダーにされてしまった。
小生は学習しないアホである。それからなん年後、勤務先は吹田工場に変っていた。小生の職場にK電気労働組合の副委員長と書記長がやってきた。
「雫石さん、家どこでした」「神戸や」「梅田通りますか」「通るで」「今晩、時間ありますか」「あるで」「ちょっと松葉で一杯どうですか」「ええな」
 串カツなん本かと生ビールなん杯かで、ハッと気がつくと、組合の執行委員に立候補することを約束させられていた。
 というわけで、小生はK電気労働組合執行委員になった。最初の1期目は教宣を担当した。教宣、教育宣伝のこと。小生は若いころコピーライターをやったことがあり、久保田宣伝研究所(現・宣伝会議)コピーライター養成講座を修了している。宣伝の専門教育を受けているわけ。だから小生の教宣担当というのは適役だった。
 何をするかというと、組合の活動を組合員に知らしめること。組合は安くない組合費を組合員から徴収している。だから組合が何をしているかを組合員に知らせなければならない。それに組合の活動は組合員の応援支援が不可欠。そういう意味からも教宣活動は重要だ。
 それ以前のK電気労組の教宣活動は活発とはいいかねる。団交のあとにビラを配る程度で、月刊ということになっている機関紙も思い出したように出していた。小生は前職の経験を生かして存分に腕を振るった。ポスターを定期的に作製して、組合の掲示板を常にカラでないようにした。それから機関紙。小生が執行委員をやっている間は、月刊ペースを維持した。それも他の執行委員はなかなか原稿を書かない。ほとんど小生一人で新聞の原稿を書いていた。
 教宣の仕事はこれだけではない。K電気労組は連合系の情報労連の傘下だった。その情報労連近畿ブロック地区協議会でも月刊で新聞を出していた。その編集企画会議が、毎月、福島のコミュニティプラザ大阪で行われていて、K電気労組の代表として参加していた。その新聞にもたくさん原稿を書いた。
 2期目は副委員長をおおせつかった。ところが小生の後に教宣担当になったやつは、能力がない上にやる気のないやつだった。ポスター1枚ビラ1枚作らない。いつまでたっても機関紙を出さない。しかしがないのでヤツは名目だけ教宣担当で、実質小生が副委員長と兼務した。
 組合の執行委員の一番多忙な時期はなんといっても春闘の時期。ほぼ毎日団交がある。小生は組合側の首席交渉員をやった。会社側の首席交渉員は常務。委員長と社長はとってある。どうしても決着つかない時はトップ同士の最終決着をつけるためである。
 小生たち組合の執行委員は専従ではない。昼間は会社のそれぞれの業務に従事している。小生は資材部で購買の仕事をしていた。5時に仕事を終わってから団体交渉に入る。早ければ1時間程度で終わることもあるが、えんえん5時間交渉して終わったのが夜の10時過ぎということも多々あった。
 団交が終わればそれで帰宅できるわけではない。明日、集会を開いて組合員に団交の結果を報告しなくてはならない。そのため、その日の交渉内容を分析して要約せねばならない。それを集会で配るチラシにしなくてはならない。小生が見出しを考え、記事を書いて、版下を作成する。翌日の昼休み、その版下でプリントゴッコで印刷して、終業後、集会を開いてチラシを配り、首席交渉員の小生が報告の演説をする。それが終わって、次の団交に臨む。
 ある年、いつだったかな、そうだ、1993年の春闘だった。この年の春闘は長引いた。3月に会社側に要求書を提出して、5月になっても集約しなかった。もちろん連日のように団交を重ねたが、労使双方なかなか歩み寄れない。将棋の千日手のような状態になった。交渉は膠着してしまった。連日の団交以外に、会社側主席の常務と組合側主席の小生は、秘密裏に社外で会って、二人だけでなんとか着地点を探した。こうなれば、委員長と社長のトップ交渉にゆだねるべきだが、当時の委員長は頑固で柔軟性に欠ける人物だった。社長は2代目のボンで無能だった。自分らのアホで会社を傾けて、そのため会社を去っていく人たちにあいさつもできない人物だった。アホ社長は常務が説得するとして、問題は委員長だ。副委員長の小生自身は着地点を持っていた。常務も小生と同じ着地点であることは、水面下での二人だけの話し合いで確認していた。そんなおり、委員長が短期だが出張した。小生は急きょ、執行委員会を招集。小生の案を示し、執行委員全員の賛同を得た。その場から出張先の委員長に電話。OKといわせた。その場で常務に連絡、ただちに団交。集約を見た。
 春闘期間中は終電車に乗れないこともあったので、車で通勤していた。深夜1時、愛車ホンダ・インテグラで阪神高速を走りながら、心地よい充実感と達成感を味わっていた。小生もいろいろ仕事をしたが、あの93春闘は小生にとって大きな仕事であった。 

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