JR姫新線は、兵庫県のJR姫路駅から岡山県のJR津山駅を経由してJR新見駅を結ぶ鉄道路線(地方交通線)です。姫路駅から新見駅まで直通する列車はなく、姫路駅~佐用(さよ)駅・上月駅間、佐用駅(兵庫県)~津山駅間、津山駅~新見駅間での区間運転が行われています。
レトロな雰囲気が漂う駅舎です。JR姫新線の美作江見駅です。昭和10(1935)年6月に建設されたといわれています。 この日は、美作江見駅を訪ねるため、津山駅から佐用駅に向かう姫新線の気動車に乗車しました。
JR津山駅から乗車したワンマン運転のキハ120系単行気動車は、30分ちょっとでJR美作江見駅の駅舎側2番線に到着しました。キハ120系車両は、岡山気動車区に15両が在籍しており、津山線、姫新線、因美線、伯備線で運用されています。写真のキハ120ー334号車は、平成7(1995)年に新潟鉄工所(2003年から新潟トランシス社)で製造された車両です。
下車したのは私一人だけでした。下車すると気動車は、次の美作土居(みまさかどい)駅に向かって出発して行きました。
美作江見駅は相対式2面2線のホームになっています。向かい側の1番ホームに待合室が設けられています。駅名標とベンチがあるだけのシンプルなつくりになっていました。
2番ホームを佐用駅に向かって進みホームの端に来ました。ホームに沿って集合住宅が建っていますが、その前にあるホームから出ていく通路に出ました。
通路は、ホームの端で1番ホームに行く構内踏切に続いていました。1番ホームは、津山方面に向かう大部分の列車が停車するようになっています。構内踏切から見える収穫の終わった田が途切れた先に、吉野川が右方面に向かって流れています。
1番ホームの佐用駅側のホームの端から見た美作江見駅の構内です。右側の2番ホームの先に駅舎が見えました。前回訪ねた同じ新姫線の林野駅もそうでしたが、この駅も長いホームを持っています。
1番ホームを津山方面に向かって進みます。集合住宅の向かい側に駅名標が設置されていました。美作江見駅は、一つ津山駅寄りの猶原(ならはら)駅から3.4km、次の美作土居駅へ5.4kmのところ、美作市川北にあります。1番ホームの向かいに側にも駅名標が設置されていました。 1番ホームの先に上屋が見えます。
ホームの上屋の内部です。 美作江見駅は、昭和9(1934)年11月、姫津(ひめつ)西線の東津山駅・美作江見駅間が開業したときに、終着駅として開業しました。そして、昭和11(1936)年4月、美作江見駅と姫津東線の佐用駅間が開業し、姫津東線が姫津西線を編入して姫津線と改称されました。さらに、同年11月に、姫路駅・新見駅間の路線名が姫新線と改称されました。
待合いスペースから見た2番ホームです。正面に駅舎の改札口とベンチが見えました。
1番ホームの上屋付近からの津山駅方面です。右側の2番ホームに駅名標が見えます。その向かいの1番ホームにもほぼ同じ位置に駅名標が設置されています。駅名標も駅舎もホームの上屋も、2つのホームのほぼ同じ位置に設置されていました。
津山駅側のホームの端のようすです。1番線から側線が分岐し、その先で2番線と合流して、津山方面に線路が延びています。
側線は佐用駅方面に向かって延びています。
美作江見駅のある旧英田郡江見町は、昭和28(1953)年、土居町、福山村、粟井村、吉野村と合併して英田郡作東町となり、平成17(2005)年、作東町が周辺の5町村と合併して、美作市となりました。江見の地域は、米や野菜、タバコなどの生産や、酪農、養豚、林業なども盛んで、吉野川流域の物資の集散地として栄えていたところでした。
側線の車止めです。 側線は、多くの物資が貨物列車に積み込まれ輸送されていた頃の面影を、今に伝えています。
ホームの佐用方面の端まで戻りました。佐用駅行きの列車は、美作江見駅の東側で大きく左にカーブしながら荒堀踏切(姫路駅から62k739m)を通過して行くことになります。 2番ホームから駅舎に向かいます。
駅名標が吊り下げられている改札口から駅舎内に入ります。
改札口の左側にはベンチが置かれ、待合いのスペースになっています。ベンチ脇には、ドアが開いたままになっていましたが、水洗トイレが設置されていました。
改札口の脇には時刻表がありました。津山駅・上月駅間2往復、津山駅・佐用駅間7往復、他に、津山駅から来て美作江見駅で折り返す列車が2往復ありました。この日は、下車してから誰ともお会いしていませんでしたが、平成30(2018)年の1日平均乗車人員は53人だったようです。
改札口に向かって左側には出札窓口がありました。美作江見駅は、切符の販売だけを個人または法人に委託する簡易委託駅になっています。
駅前広場に出ました。開業の翌年、昭和10(1935)年6月に完成した木造の切妻造りの駅舎です。下見板張りの外壁が、この駅の長い歴史を伝えてくれています。
駅舎の右側にはトイレ、駅舎の左側に小庭園が設けられていました。
駅名標が出入口の上の屋根に掲げられていました。
駅前広場の一角に、記念碑が立っています。「姫新線全通四十五周年記念」(昭和56年12月造園)の記念碑です。 姫新線に寄せる地元の人たちの思いが伝わって来ました。
駅への取付道路の起点になっているのが、姫新線と平行して走る国道179号です。左方向が津山方面に、右方向が佐用方面になっています。国道179号は、”出雲街道”と呼ばれています。
かつての出雲街道は、播磨国の姫路から出雲国の松江に到る街道でした。江戸時代には、松江、広瀬、勝山、津山の各藩主の参勤交代の道でもありました。歴代の松江藩主は溝口宿、新庄宿、津山宿、佐用宿で宿泊しながら姫路に向かったといわれていますが、その他、土居、勝間田、坪井、久世、勝山、美甘、新庄にも宿場が置かれていました。
国道179号に出ました。津山方面の光景です。
出雲街道は人の移動だけでなく、物の移動にも使われました。山陰で盛んであったたたら製鉄でつくられた鉄製品や、砂鉄、朝鮮人参、港で陸揚げされた水産物に宍道湖のうなぎも、出雲街道で運ばれました。全長53里(212km)の街道でした。
ここから、江見の町に残る旧出雲街道の道筋を歩いて見ることにしました。
駅への取付道路から国道179号を右折して、佐用方面に向かって進みます。右側の通りの「ヤマザキパン」の看板の向こう側に道路標識の裏側が見えます。
左側には、コーヒーショップの3段の看板があります。看板の少し先を左折して進みます。
右側に「今在家駅前作業場」という看板を掲げた施設を見ながら進みます。「この作業場にはこの道が出雲街道の道筋であった」という張り紙が掲示されていた時期もあったようですが、この日は見ることができませんでした。
墓地の手前に六地蔵が祀られていました。旧街道をさらに進んで行きます。
その先の旧街道の光景です。出雲街道を旅する人たちは次の勝間田宿をめざして、この道を歩いていたことでしょう。
ここで引き返して、江見の町の中心部に向かって歩くことにしました。
写真の右側に国道へ出ようとする白い車があるところから国道179号を渡りました。津山方面を撮影した写真です。先ほど、標識の裏側が見えると書いた看板がありました。表側は、美作江見駅への道が示された標識になっています。この標識の手前で国道179号から分かれます。
国道から旧街道に入りました。写真は振り返って国道179号側を撮影しました。
国道から、旧街道の雰囲気を残す通りを進みました。この写真も振り返って、国道179号に向かって撮影しました。この先で国道から下ってくる道と合流します。
国道から下ると、荒畑踏切の次にある江見踏切で、姫新線を渡ることになります。美作江見駅から佐用駅方面の2つ目の踏切になります。「江見踏切 62K645M」と書かれています。姫路駅からの距離のようです。
江見踏切の先で旧街道は、東西に流れる吉野川を大還橋(たいかんはし)で渡ります。
大還橋から見た左(上流)側に、大還橋と並ぶようにもう一つ橋が架かっていました。現代の出雲街道である国道179号に架かる「大還橋」です。幅50mぐらいの間隔で新旧二つの大還橋が並んでいました。
吉野川を渡った対岸の旧街道をさらに南に進みます。旧街道らしい家並みが続くようになりました。
袖壁(うだつ)のある邸宅の前に交差点がありました。
交差点の右側です。正面に赤い屋根の作東中学校が見えます。旧街道を右折して進みます。
作東中学校の手前左側に作東公民館がありました。花壇の中にかつて出雲街道にあった道標が移設されていました。 左側面には「右 備前岡山 左 姫路」、正面には「右 ・・・ 左 因州」、右側面には「左 津山 雲州」と記されていました。「・・・」の部分は読むことができませんでした。
旧街道に戻ります。再び南に進むと、東西の通りに合流しました。左折すると、すぐに、再度、南方向に向かう通りがありました。枡形になっていました。
再度、南に向かって歩きます。集落が途切れる手前にお店があったので、お店の前から撮影しました。
お店の先は変形の交差点になっていました。旧出雲街道は、ここから正面にあるやや道幅の狭い、登り坂の道になり、次の土居宿に向かっていくことになります。
JR美作江見駅と町に残る出雲街道の道筋を歩いてきました。駅でも旧街道でも、誰とも出会うことがありませんでした。地元の人のお話をお聞きすることができなかったのが心残りでした。