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地球儀を模したといわれる丸い屋根の建物が、駅舎に接して建っています。この駅は、JR加古川線の社町駅(やしろちょうえき)。ドーム状の建物は「交流ふれあい館」と呼ばれており、待合室としても使われています。
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この日は社町駅を訪ねるため、JR加古川駅の5番ホームに向かいました。ホームでは、西脇市駅行きのワンマン運転の単行列車(クモハ125ー9)が出発を待っていました。JR西日本で初めての単行運転ができる新造車として、平成15(2003)年小浜線が電化された時に、デビューした、125系電車でした。
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乗車した125系電車の内部です。座席の配置が2列と1列で、広い通路が確保されています。加古川線が電化されたのは、平成16(2004)年12月のことでした。平成7(1995)年に起きた阪神・淡路大震災で大きなダメージを受けたJR神戸線(山陽本線)の迂回路線として、その重要性が再認識されたことによる電化でした。電化のための事業費は65億円。45億円をJR西日本と兵庫県、周辺の自治体が負担し、残る15億円は周辺地域の人々の募金など民間で負担したといわれています。
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神戸高速と北条鉄道が分岐する粟生(あお)駅から西河合駅、青野ヶ原駅と停車してきた列車は、加古川駅から40分ぐらいで、社町駅に到着し、駅舎の向かい側の下りホームに停車しました。前の駅である青野ヶ原駅から2.9km、次の滝野駅まで3.1kmのところにありました。
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列車は次の滝野駅に向かって出発していきました。列車が通過すると、下車した乗客は西脇駅方面にある構内踏切を渡り、駅舎に向かって移動して行きました。社町駅は、兵庫県加東市滝野町河高にあります。加東市は、平成28(1016)年に、旧加東郡の社町、滝野町、東条町が合併して成立しました。駅名は、合併で消滅した加東郡社町からつけられていますが、駅舎は、旧加東郡滝野町の中に設置されています。
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下りホームの加古川駅寄りから見たホームの全景です。2面2線のホームが見えました。下車した下りホームには西脇市駅方面行きの列車が、駅舎寄りの上りホームには加古川駅方面行きの列車が停車することになっています。駅舎側の線路はまっすぐホームを抜けていますが、いわゆる”1線スルー”の構造にはなっていないようです。右側の上りホームの上屋の向こうにドーム状の屋根が見えました。
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西脇市駅方面に向かって下りホームを歩きます。駅名標の先に2ヶ所に分かれた待合いスペースがありました。それぞれ3脚のベンチが設置されています。社町駅は、大正2(1913)年播州鉄道によって国包駅(くにかねえき・現在の厄神駅)と西脇駅間が開業した時に、「社口駅」として開業しました。そして、大正5(1916)年11月に「幡鉄社駅」と改称されました。
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大正12(1923)年には路線が播丹鉄道に譲渡され、播丹鉄道の駅になりました。下車した乗客が渡った構内踏切です。その10メートルぐらい先には社踏切がありました。
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現在の「社町駅」に改称されたのは、昭和18(1943)年、幡丹鉄道が国有化され国有鉄道加古川線の駅になったときでした。構内踏切の途中から見た上りホームです。ホームのすぐ後ろに交流ふれあい館が見えます。
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上りホームを駅舎に向かって歩きます。下りほームと同じように3脚のベンチが置かれていました。社町駅が無人駅になったのは、国鉄分割民営化後の平成2(1990)年10月1日のことでした。
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改札口前には、高齢者や障害のある人のためにバリアフリーの通路も整備されていました。社町駅舎が現在の建物になったのは、平成16(2004)年の電化に伴って、開業時から使われてきた旧駅舎が改築されたときでした。
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駅舎を抜けた後、ホームに向かって撮影しました。自動改札機の左側にはトイレ、右側の壁には時刻表が、手前には運賃表と自動券売機がありました。
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自動券売機の右側です。交流ふれあい館の入口です。「国立大学法人 兵庫教育大学 地域交流コーナー 交流ふれあい館」と書かれていました。近くの方に「大学の施設なのですか」とお尋ねしたのですが、地元の方ではなく出張中ということで、はっきりとはわかりませんでした。電化の際に、駅舎が改築されたといわれており、兵庫教育大学も協力されたのでしょう。
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交流ふれあい館の内部です。エアコン付きで様々な展示物がありました。駅の待合室も兼ねていますが、多くの駅舎の待合室とは異なった雰囲気が漂っていました。
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ドーム状の屋根を支える工法は「KT木トラス」といわれています。写真はトラスの接合部です。接合部にあるスプリングのボルトを引き込ませた状態で穴の中に入れ、外側から回してネジを穴の中に入れていく接合により、強く美しい空間構造を創り出しているといわれています。
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駅舎前に出ました。小さな駅舎に比べ、地球儀を模した交流ふれあい館は迫力十分でした。
「社町駅」の名前は、合併によって消滅した旧加東郡社町に由来していました。「社町」は、佐保神社の門前町として繁栄してきた、文字通り「社のある町」でした。佐保神社は、社駅から3kmぐらい離れた社町の中心地に鎮座しています。佐保神社をめざして歩くことにしました。
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社町駅前からまっすぐ社町の中心地に向かって歩きます。福田橋で加古川を渡りました。JR加古川線では、社町駅だけでなく、どの駅も町の中心地から遠く離れた、加古川に近いところに設けられています。鉄道の開通以前は、加古川を上下する舟運によって物資の輸送が行われており、加古川線を開業させた播州鉄道は、加古川を利用した船による輸送を引き継ぐことを目的に、鉄道の路線を開設し、水運の拠点があったところに駅を設置したからでした。
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福田橋から見た加古川の上流側です。右側に見えるのは、”JAみのり カントリーエレベーター”の建物です。
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こちらは下流側です。かつては、荷物を満載した多くの船が行き交っていたはずです。福田橋からさらに進みます。
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福田橋から続く道路の向こうから神姫バスの定期バスがやっていました。左に分岐する道がありました。バスが走る道路の旧道だと思いました。佐保神社の縁のものがあるのではないか思い、旧道を進むことにしました。
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左側に鳥居がありました。扁額には「佐保社」と書かれていました。佐保神社に縁のある鳥居でした。通りの左側にありましたので、保存するために移設されたのでしょう。佐保神社は延喜式神明帳にある「坂合神社」とされている式内社で、第11代垂仁天皇の時代の創建とされています。この地に移ってきたのは養老6(722)年。戦国期に荒廃していましたが、江戸時代に入り姫路藩主池田輝政の祈願所となり復興したといわれています。「坂合神社」から「佐加穂神社」に、そして現在の「佐保神社」に、神社名が変わってきたそうです。
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佐保神社は、鎌倉時代に朝廷や幕府の崇敬を集め、八丁四方に「内の鳥居」、一里四方に「外の鳥居」を造営したといわれています。その中の「酉の内の鳥居」は、今もこのあたりの集落の地名(「鳥居」)として残っているそうです。しかし、この鳥居には「文化六年」と刻まれていました。江戸時代に再建されたもののようです。
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傍らにあった石標には、「本社江八丁」と刻まれていました。さらに、先に進みます。
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国道175号の交差点に着きましたが、横断歩道がありません。左に迂回して、「社総合庁舎前」の交差点で、定期バスが走っていた新道に合流しました。
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交差点を左折して進みます。左側の動物病院の先で、旧道と合流します。
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県道567号と交差する社交差点です。「佐保神社」の案内標識が見えました。
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標識の先を左折して、佐保神社の参道に入ります。瑞神(ずいしん)門です。入母屋造りの銅板葺き、桁行5.8m、梁間8.5m、高さ10.5mあるそうです。江戸時代後期の建築で、加東市指定の文化財になっています。
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瑞神(ずいしん)門から境内に入ります。能舞台の先にあった入母屋造りの拝殿と、神社建築に多い流造り、銅板葺きの本殿です。本殿の向かって右の東殿には天照大神、中央の中殿には、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、左の西殿には大己貴命(おおなむちのみこと)がそれぞれ祀られているそうです。
待合室としても使われている、地球儀を模したドーム形の交流ふれあい館のあるJR社町駅を訪ねてきました。駅舎は滝野町にありますが、加古川の舟運の基点として、また、佐保神社の門前町として栄えてきた社町の玄関口としての役割を果たしている駅でもありました。