久しぶりに香川県の多度津町(香川県仲多度郡多度津町)を訪ねました。今年の4月に何回か(「JR多度津駅に残るSL全盛期の面影」2018年4月9日の日記・「四国鉄道発祥の地を歩く」2018年4月13日の日記・「JR四国工場への引き込み線を歩く」2018年4月26日の日記)訪ねていますが、今回は、多度津から金毘羅宮に向かう参拝客が歩いた多度津街道を歩いてみようと思ったのです。
多度津町にあった道標です。「すく 金刀ひら道」、「右 はしくら道」、見えない裏面には「すく ふなハ」と書かれた石標(明治14年辛巳5月吉日 石工 当地 吉田歌吉)と、もう一つ「手形 きしゃば」(大正10年4月3日)」と書かれた二つの石標がありました。古代から水上交通の要衝として知られた多度津の町は、江戸時代後期の天保9(1838)年に多度津藩によって多度津湛甫(たんぽ・港)が整備されました。その結果、北前船や地元の廻船問屋によって各地の様々な産品が陸上げされ、多度津からは地元産品の砂糖や綿が積み出されて、ものの行き来が一層活発に行われるようになりました。ものだけではなく、文化文政期(1804~1829年)からさかんになった金毘羅詣りでも、多度津から金毘羅宮をめざす参拝者が増えていきました。道標の「ふなハ(船着場)」や「金刀ひら道(金毘羅道)」は、多くの参拝客の役に立っていたはずです。
現在のJR多度津駅です。現在地に多度津駅が移設されたのは、大正2(1913)年のことでした。それ以前の多度津駅は、現在の多度津町民会館のところにありました。明治22(1889)年、讃岐鉄道によって、丸亀・多度津・琴平を結ぶ鉄道が開業したときからでした。当時は、丸亀駅から多度津駅に着いた列車は、琴平駅に向かってスイッチバックで出て行くようになっていました。讃岐鉄道は経営が盤石とはいえず、山陽鉄道に買収され、後に国有化されることになります。国有化された後、スイッチバックの必要のない現在地に移設されたといわれています。先ほどの「きしゃば(汽車場)」の道標は、現在の駅舎への案内のためにつくられているようです。
多度津駅前の風景です。道路の右側に多度津交番、香川県立多度津高等学校、多度津町役場が並んでいます。
今回の旅のスタート地点とした多度津商工会議所をめざします。JR多度津駅から駅前通りをまっすぐ歩きます。多度津町役場を過ぎ、桜川に架かる豊津橋を渡って多聞院など寺が並ぶ通りを進むと、交差点の手前に先ほどの道標がありました。交差点を右折し、極楽橋を渡って進むとJR四国工場。そこは、江戸時代後期、多度津陣屋があったところです。左折して町民会館(かつての多度津駅跡)の先の金刀比羅橋を渡って多度津交差点に出ます。そして交差点を右折して、港に向かって進みます。
東浜地区にある多度津町商工会議所の建物です。江戸時代には船番所が置かれていたところです。ここをスタート地点にしたのは、多度津町立資料館でいただいた資料では、「丁石(ちょうせき)」から推定した多度津街道の「起点推定地」が商工会議所になっていたからです。「丁石」は、多度津街道に一丁ごとに建てられた石標のこと、以前歩いた「丸亀街道」(「金刀比羅宮まで3里 丸亀街道を歩く」2013年12月30日の日記)にも設置されていました。
多度津から金毘羅宮に向かう参拝客は、ここから、東浜商店街に沿ってほぼまっすぐ南東方向に向かっていました。商工会議所前をスタートします。東浜商店街を進みます。多度津交差点の付近には、百十四銀行や高松信用金庫など金融機関の建物が並んでいます。
多度津交差点の手前にあった合田酒店の建物です。屋号は柳井屋、山口県柳井の出身。「創業、元禄年間(1688~1703年)、310年を超える歴史をもつ多度津最古の酒屋。現在の建物は江戸末期の建築、黒塗りの虫籠窓(むしこまど)など往事の雰囲気を残す」と店内にあった「案内」には書かれていましたが、多度津港で讃岐三白(砂糖・塩・綿)を扱う廻船問屋だったともいわれています。屋根は改装されていましたが、黒漆喰のなまこ壁や虫籠窓など重厚なつくりの商家建築でした。
須賀金刀比羅神社です。この先の交差点の左を流れる桜川の対岸に鎮座しています。境内の左側に灯籠が並んでいますが、資料によれば、多度津港の沿岸にあった、信者から寄進された灯籠(常夜灯)が移されているそうです。
多度津交差点です。左に行けば大通りで、須賀金刀比羅神社の方に向かいます。右に進めば、多度津山に整備された桃陵公園に向かいます。この交差点の付近に、かつて、多度津から琴平に向かっていた琴平参宮電鉄の起点、多度津桟橋通駅がありました。町の人にお聞きすると「化粧品を扱っているお店のあたりにあった」というご返事でした。右側のビルの1階に化粧品のお店がありました。
この写真は交差点から桃陵公園に向かう道を撮影しました。琴平参宮電鉄の多度津駅は白いビルからその先(かつてタクシー会社の営業所があったといわれます)にかけての場所にあったようです。琴平参宮電鉄は、金毘羅宮への参拝客の輸送のため、大正14(1925)年、善通寺赤門前駅・多度津桟橋通駅間が開通し、多度津と琴平が繋がりました。路面電車風の電車が運行されていましたが、昭和38(1963)年に全線が廃止されました。
多度津交差点に戻ります。交差点をまっすぐに横断し、本町通(ほんまちどおり)一丁目に入ります。かつては、多度津随一の商店街でした。
現在の本町通商店街です。江戸時代から古い歴史を誇る多度津街道が通り、多くの人でにぎわっていました。しかし、この日は金曜日でしたが、お店をたたんだ商家やシャッターの閉められたお店もありました。右側に、多度津町立中央公民館本通分館を見ながら進みます。
ここからは、かつての雰囲気を残す建物をたどって歩くことにします。「合田 方圓堂」という屋号が残っています。中2階を設けた厨子2階建て。本瓦葺きの平入りで黒漆喰塗りの商家です。本町通の商家に共通する特色です。
両側に切妻づくり平入り、広い敷地の商家が並んでいます。右の手前が「備前屋」、小国家の建物です。ご先祖は、屋号からわかるように、備前国(岡山県)の出身で、岡山藩の武士だった方だそうです。「江戸時代から明治中期まで、『餅』『まんじゅう』の製造販売店。『傳五餅(でんごもち)』の名で親しまれおみやげとして購入された。明治中期以降は肥料の販売業に、昭和初期からは住宅になっている」と「案内」には書かれていました。
これは、備前屋さんのかつての写真です。玄関前に掲示されていました。のれんの形などから、傳五餅を販売していた頃の建物ではないでしょうか。
ガラスや額縁を扱っていた「小国ガラス店」があったところです。現在は、「まちの博物館よっていってやー」に改装され、多度津商店街やイベントの写真を展示しています。多度津町では、賑わいを取り戻す活動をおこなっており、空き家を改装して居住する場合には助成があるそうです。
その先、「ゆ」ののれんが見えました。銭湯の「清水温泉」だったところです。「説明」には、「大正末期から営業を始め、昭和50年頃まで営業した、一時期『日の出湯』と改名したこともあった」と書かれていました。現在は「喫茶店になっている」と、町の人からお聞きしました。
路地に入って上を見上げると、レンガ造りの煙突が見えました。銭湯らしい風景が残っています。
備前屋の向かいにあった「てつや」です。「代々、多度津の商人。幕末まで鉄の原料問屋として刀鍛冶を営んでいた。明治になってからは昭和初期まで、舶来用品や雑貨の卸売りとアメリカのスタンダード石油の特約店になっていた」そうです。
このマークは通り沿いのお宅の軒下にかざってあったものです。町の活性化のためにつくられたものなのでしょう。
その先にあった、洋風建築も含む大邸宅です。合田邸です。屋号「島屋」。「貴族院議員を務めた合田健吉氏が建造した大正末期から昭和初期の建物」だそうです。洋風の建物は応接間で、ステンドグラスもついています。前からは見えないのですが、レンガつくりの蔵もあるそうです。合田家は「多度津七福神」の一つです。「多度津七福神」は、北前船の寄港地になっていた多度津で廻船問屋として財をなした七つの家。景山家、塩田家(2家)武田家(3家)と合田家のことです。讃岐鉄道を開業に導いた景山甚右衛門も、七福神の一人でした。
その先で桜川に出ます。本町橋が架かっています。その手前を右折します。護岸工事をしている桜川に沿って歩きます。出発地点に近い須賀金刀比羅宮のあたりは、豊かな水量がありましたが、上流部分のこのあたりの桜川は小さな流れになっていました。
右折して100メートルぐらい進んだところにあった橋のたもとに、道標が見えました。「左 古んひら道」「右 いやだに道」、見えてはいませんが「ふなハ」。嘉永元(1848)年に建立された道標です。 この橋は鶴橋。「大正5(1916)年7月修」と欄干にありました。「多度津街道は鶴橋が起点だった」と、いただいた資料には書かれていました。ここで左折します。対岸に金毘羅灯籠がありました。正面に「周防岩国」、「文化12(1815)年」の銘のある灯籠でした。信者が寄進したものです。
鶴橋の先の写真です。多度津町教育委員会の資料には「この先に、多度津街道の一の鳥居があった」と書かれています。「こんぴら一の鳥居跡」と書かれた碑が地上に埋め込まれているといわれていましたが、見つけることができませんでした。
これが「一の鳥居」です。寛政6(1794)年、出雲国松江の信者によって寄進された鳥居で、多度津交差点から見た桃陵公園への道の先、桃陵公園の登り口に移設されていました。
鳥居の足下にあった「こんひら一の鳥居」の碑です。
鳥居の足に「雷電為右衛門」の名前も刻まれています。江戸時代の相撲の横綱、雷電も寄進に協力していたようです。雷電の名前があることから「雷電鳥居」とも呼ばれています。
鶴橋から先の多度津街道は、まっすぐ南東方向に向かっていました。多度津中学校の東側の脇を進みます。
その先で、JR予讃線の「中学踏切」(33k625M)を渡ります。多度津街道は、この先もまっすぐ金毘羅宮に向かっていました。
予讃線の松山方面に向かう線路です。線路の先に見えるのは天霧山(あまぎりやま)。金刀比羅宮に向かう参拝客を、街道の右側から見守り続けてきた山です。
この日は、多度津街道を、その起点推定地とされる多度津商工会議所前からJR予讃線の中学踏切まで歩きました。多くの参拝客を迎えた本通のかつての面影をたどる旅になりました。この先、いつのことになるか自信がありませんが、終点の金刀比羅宮まで歩きたいと思っています。