トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

JR四国工場への引き込み線を歩く

2018年04月26日 | 日記

JR四国予讃線の多度津駅です。このところ、多度津駅を起点に歩いています。多度津駅に残る給水塔や転車台(「JR多度津駅に残るSL全盛期の面影(2018年4月9日の日記)」)を見てきました。

駅前に設置されている「四国鉄道発祥之地」のモニュメントです。モニュメントにかかわる、琴平と讃岐鉄道多度津駅も訪ねて来ました(『四国鉄道発祥之地』を歩く(2018年4月13日の日記)」)。

JR予讃線の高松駅やJR丸亀駅方面からJR多度津駅に入る手前で多度津跨線橋の下をくぐりますが、その多度津跨線橋の上から見た予讃線の丸亀方面です。向こう側がJR予讃線の線路です。手前に、左カーブをしてJR四国唯一の整備工場である四国旅客鉄道株式会社四国工場(以下「JR工場」)へ向かう引き込み線が見えます。この日は、この引き込み線を歩いてみることにしました。

駅方面から跨線橋に上がり、左折して西に向かいました。JR四国は、明治22(1889)年、讃岐鉄道によって多度津駅を起点に丸亀駅、琴平駅間が開業されたことが、JR四国の発祥であったとしています。この讃岐鉄道を設立したのは、多度津の廻船問屋、大隅屋の5代目当主、景山甚右衛門を中心とした廻船問屋の人たちでした。多度津からの金毘羅宮への参拝客を輸送することが目的だったといわれています。その後、高松駅まで延伸させましたが、経営は盤石とはいえず、明治37(1904)年には、山陽本線を開業させ、後に宇高連絡船を開業させることになる山陽鉄道に吸収され、明治39(1906)年には国有化されました。

いつも情報をいただいている多度津町立資料館に15分ぐらいで着きました。

これは、資料館でいただいた讃岐鉄道の路線図です。地図の右上(北東方向)が丸亀駅方面で、ほぼ直線状に左(西)側の多度津駅につながっていました。琴平方面へは、来た線路を引き返し(スイッチバック)て、右下(南東)方向に向かっていました。この時の多度津駅は、現在の多度津町民会館の場所にあり、駅に隣接して整備工場も併設されていました。

多度津駅が、スイッチバックの必要のない現在の地に移設されたのは、国有化後の大正2(1913)年のことでした。それに伴い、旧多度津駅は貨物駅の「浜多度津駅」と改称され、新しい多度津駅と浜多度津駅間は貨物支線として使用されることになりました。しかし、モータリゼーションの発展により、昭和54(1979)年、浜多度津への貨物線は廃止され、併設されていた国鉄多度津工場への引き込み線(構内側線)として使用されるようになります。そして、国鉄の分割民営化により、昭和62(1987)年にJR四国になってからも、JR工場への引き込み線として引き続き使用されています。

これは、多度津町民会館です。北に向かって流れる桜川の東岸にあります。この地にかつての浜多度津駅(初代多度津駅)がありました。資料館でいただいた情報で、もう一つ印象に残ったことがありました。貨物駅の浜多度津駅は、昭和5(1930)年に完工した西浜地区の埋め立てに伴い、桜川を越えてさらに西に延伸していたのです。この埋め立てにより多度津港が整備されたため、荷揚場に近いところの方が利便性が高かったことによります。

資料館に掲示されていた「多度津町住宅明細地図 多度津町商店会編纂 昭和9(1934)年調整」と書かれた住宅地図には、延伸した貨物支線の路線が描かれていました。スタッフの方にお聞きしますと「現在の禅林学園(西浜町)と商工会議所(東浜町)の間を走っていました」とのことでした。この写真は、町内の桃陵公園(多度津山上)からみた東浜・西浜地区です。右の高層ビルが禅林学園です。その手前側をまっすぐ左(西)に向かって延びていたようです。まずは、延伸した後の浜多度津駅跡に行ってみることにしました。

資料館からまっすぐ西に向かって進み、町民会館の先で桜川を渡ります。写真は桜川に架かる金刀比羅橋から見た港方面です。右側の敷地が駅跡があった町民会館、その向こう側から右側にかけてJR工場が広がっています。

桜川の西岸を海側に向かって歩き、禅林学園の建物が見えるところに来ました。禅林学園の左側のブラウンの建物が商工会議所です。商工会議所は東浜商店街にあり、禅林学園は西浜町にありました。

後ろを振り返って撮影しました。左側がJR工場、右側が町民会館。この間を、延伸した貨物支線が走っていました。禅林学園の前を、さらに西方にまっすぐ進みます。

道路の右側を、貨物支線が走っていたようですが、痕跡はまったく残っていませんでした。線路の海寄りのところは荷揚場になっていたようです。

多度津山が迫って来るようになりました。このお宅のあたりが駅の先端だったそうです。町民会館方面に向かって撮影しました。ここから引き込み線を歩く旅のスタートです。来た道を引き返します。桜川に出て、多度津の大通り(金刀比羅橋から資料館に向かう通り)を進み、資料館の近くまで引き返すことにしました。

JR工場を左に見ながら進み、右側の中国銀行、左側の山本医院を過ぎ、資料館の手前の交差点を左折します。道路の右側に「旧多度津陣屋蓮堀跡」の石碑がありました。裏には「是従北 幅五間 長さ百間」とあります。江戸時代後期の文政10(1827)年に多度津藩の陣屋が完成したとき、ここには、幅約9m、長さ約1.8kmの堀がつくられ、中央部に大手門がつくられました。そして、左側のJR工場の敷地のところには多度津藩主の御殿が置かれていました。また、堀の右側には家臣の邸宅が並んでいました。多度津藩京極家は丸亀藩の支藩で、陣屋ができる前には、藩主は丸亀城内で藩政を執っていました。

通りの右側を進んでいくと、引き込み線の線路に出ました。そこはJR工場の多度津駅側からの入口にあたり、通行する町民のために「工場踏切」が設けられていました。遮断機も警報機もない第4種踏切で、列車の通過時は係員が無線機と手旗を以て待機しているのだそうです。

JR工場の内部です。この日はDE101139号機が停車していました。

踏切表示には「多度津工場線 915m」と書かれています。起点となるJR多度津駅から915mの距離にあることを示しています。

JR多度津駅方面の光景です。踏切に入る手前で分岐して、工場に入って来る構造になっています。ポイントの切り替えは、手動で行われているようです。

工場踏切から多度津駅に向かって、線路の右側の通りを歩いて行きます。右側は家中(かちゅう)と呼ばれる地域。江戸時代後期には、藩主を守護する武士が居住していたところです。

かつての雰囲気が伝わって来るような家並みが続いています。白壁の土蔵の先に二つ目の踏切がありました。

測候所踏切です。踏切表示には「多度津工場線 750m 測候所踏切」と書かれていました。踏切の向こうに「多度津特別地域気象観測所」という看板が架かった敷地がありました。資料館にあった「測候所」の説明には、「明治24(1891)年に、内務省告示20号で、新町栴檀(せんだん)の海岸に地方測候所の新設の指定がなされ、明治25(1892)年に香川県議会で可決された」とあり、その後に、「香川県立多度津測候所が設立された」と書かれていました。

説明の最後に「昭和39年3月30日 新庁舎(現庁舎)が完成した」とも書かれていましたので、この地は、かつて測候所が設けられていたところだったということになります。また、資料館にあった「多度津町住宅明細地図」には、測候所の先には「海水浴場」と書かれていました。この測候所の敷地の少し先は海岸で、海水浴場として親しまれていたようです。

引き込み線をたどる旅は、どうやら踏切を訪ねて歩く旅になりそうです。踏切以外にはこれといって特色のない道でした。測候所踏切のすぐ先に、美しい芝桜が見えました。付近のお宅の方がお世話をされているもののようです。

線路に沿って進みます。すぐに、次の踏切に着きました。3つ目のこの踏切も、踏切表示だけの第4種踏切でした。「多度津工場線 653m 新町第2踏切」でした。測候所踏切から、97mのところにありました。

踏切から10mぐらいのところに天満宮の本殿がありました。文化8(1811)年、多度津藩主京極高道が灯籠1対を奉納したという記録が残っています。

新町第2踏切から天満宮の山門に向かって、天満宮の玉垣に沿って歩きます。左側に蛭子宮がありましたので、踏切方面に向かって撮影しました。ここで、高齢の男性お二人が、置かれていた椅子に座って、歓談されていました。「小さい頃は、ここから裸で踏切を渡って海水浴場に行ったものだよ」というお話が印象に残りました。測候所の裏にあった海水浴場へ行かれていたのでしょう。天満宮にお詣りした後、引き返し、今度はお堂の右側の道を向こう側に向かって歩きます。

その先にあった新町第1踏切です。これも第4種踏切でした。多度津駅から603m、新町第2踏切から50mのところにありました。

次の踏切がすぐ先に見えていました。天神堀江踏切で、「多度津工場線 579m」と書かれていました。新町第1踏切から、わずかに24mのところにありました。

天神堀江踏切の近くには、昔懐かしい、枕木でつくられた柵が残されていました。柵の向こうに見えるのが、旧香川県立多度津水産高校の校舎です。平成19(2007)年、同じ多度津町内にあった県立多度津工業高校と統合して、香川県立多度津高校になりました。

旧多度津水産高校の校舎の先で、引き込み線は大きく右にカーブして、JR多度津駅に向かって行きます。線路の左前方の道路上に白い乗用車が見えますが、この乗用車のいる道はかつての讃岐鉄道の線路跡です。丸亀からやって来た列車は、ここから現在の引き込み線に入り、旧多度津駅に向かっていました。

旧多度津水産高校の校舎を過ぎると、右側に、最後の踏切、掛浦(かけうら)踏切が見えました。JR多度津駅から318mのところ、天神堀江踏切から261mのところにありました。掛浦踏切を渡って進むと、その先に旧水産高校のグランドや旧正門にいくことができます。

校舎に沿った道路の先、先ほど乗用車が止まっていた道路です。かつての讃岐鉄道は、ここから丸亀に向かっていました。この先の「止まれ」と書かれている交差点を右折して、多度津跨線橋に向かって歩いていきました。

資料館でいただいた讃岐鉄道の路線を示した地図です。この地図を見ると、讃岐鉄道はここで右にカーブした後、その先にある「幸町自動車学校」の敷地に向かって、ほぼまっすぐに進んでいました。

これは、跨線橋から見た現在の自動車学校です。讃岐鉄道はこの下を自動車学校に向かっていました。一方、引き込み線は大きくカーブしてJR多度津駅に入って行きます。

JR四国は、多度津駅を起点にして丸亀駅と琴平駅を結んで開業した讃岐鉄道に始まるといわれています。現在も使用されているJR工場への引き込み線の一部は、讃岐鉄道の時代に敷設された線路を引き継いでいます。由緒ある鉄道を歩き、多度津の歴史を振り返ることのできた旅でした。



<追記>  讃岐鉄道とJR予讃線の合流点をめざして  

JR四国工場への引き込み線は、かつての讃岐鉄道の一部の路線を引き継いでいます。かつて、旧多度津駅から丸亀駅方面に向かう讃岐鉄道の列車は、旧多度津水産高校の裏付近で引き込み線から分岐して、現在のJR予讃線に合流していました。今回は、水産高校の跡地から合流点付近までの1kmぐらいの区間を歩きました。

JR多度津駅にあった現在の市街地図です。左下(南西)から出た引き込み線は、大きく右にカーブしてJR多度津駅に向かっています。讃岐鉄道の列車はまっすぐ地図の中央上部で、現在のJR予讃線と合流していました。この道は、現在、堀江三丁目から堀江四丁目に向かっています。

旧多度津水産高校の校舎の先で、引き込み線は右カーブして進みます。一方、電柱の間に見える道路は、この先まっすぐJR予讃線に向かっています。この道を進みます。

すぐ、小さな交差点になります。右折すると、「春日天満両宮」と扁額に記された神社を経て、予讃線の豊原踏切を渡り多度津跨線橋に行くことができます。このあたりは堀江三丁目になります。

比較的新しい住宅やいちじく畑などの農地が続く道を歩いていきます。

その先に交差点がありました。注意喚起のためか「止まれ」の周囲は赤く塗られていました。左側には、しおかぜ病院が見えました。

交差点から右側100mほどのところに、鴨(かも)踏切(高松から31k679m)とその先のユニコムの工場が見えました。予讃線の線路は右後方から斜めに近づいて来ています。

交差点の先からは堀江四丁目になります。

その先、5分ほどで、右に新開踏切(高松から31k543m)が見えました。予讃線がずいぶん近づいて来たようです。歩いて来た道は、その先で畑地になりました。行き止まりです。新開踏切を抜けた予讃線の列車は通りの正面に進んで行きました。この先が合流点のようです。

交差点を左に迂回して、合流点近くに行って見ることにしました。幸い、農業用の車両が入る道があったので線路近くまで行くことができました。歩いて来た道を振り返ってみました。正面の電柱の下にかすかに道路が見えます。讃岐鉄道の列車は、そこからここに向かっていたのではないでしょうか。
                                           (2018年8月18日)