トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
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JR多度津駅に残るSL全盛期の面影

2018年04月09日 | 日記

JR予讃線のJR多度津駅です。香川県仲多度郡多度津町にあります。この駅からJR高知駅を経由して、JR窪川駅(高知県高岡郡四万十町)に至る、全長198.7kmのJR土讃線の起点となる駅でもあります。

多度津駅前に展示してあった蒸気機関車(以下「SL」)の動輪のモニュメントです。四国に全国で活躍している本格的なSLがやって来たのは昭和10(1936)年のことでした。それ以後、四国で鉄道の完全無煙化(SLの廃止)が達成された昭和45(1970)年4月1日までの35年間にわたって、四国の産業や文化の発展のために働いた功労者でした。

動輪の脇につけられていたプレートには「四国鉄道発祥之地」と書かれていました。近くにあったJR四国の「説明板」には、「明治22(1889)年に讃岐鉄道株式会社によって、多度津駅を起点にして丸亀駅と琴平駅間、15.5kmで営業が始まったのが当社の始まりです。」と書かれています。そして「そのころの多度津駅は、この地点より西へ1km、多度津町大通り(JR多度津工場の西側)にありました。その後、大正2(1913)年12月、現在地に移転されました」と書かれていました。

開業当時は多度津駅から琴平駅方面に行くときスイッチバック(折り返し)で出て行く構造になっていましたが、大正2(1913)年、多度津駅が現在地に移設されて、スイッチバックが解消されました。「説明板」によれば、この動輪のモニュメントは、8620形のSLのもので、鉄道開通80周年(昭和44=1969年)を記念して、旧讃岐鉄道の多度津駅の跡地に設置していたものを、平成元(1989)年に、現在地に移転し永久保存している」ということでした。その後、讃岐鉄道は、山陽鉄道に買収され、その山陽鉄道は、明治39(1906)年に国有化されました。その後、延伸し、予讃線、土讃線へと発展していきました。

しかし、実際には、四国で最初に鉄道を開業させたのは伊予鉄道会社で、全国で2番目の開業でした。伊予鉄道が、讃岐鉄道よりも1年早い明治21(1888)年に、松山駅(現松山市駅)と三津駅間を開通させたのが、四国で最初の鉄道の開業でした。伊予鉄道が、民間鉄道のままであったのに対し、讃岐鉄道は後に国有化されて、その後に四国の鉄道は飛躍的に整備が進んでいくことになりました。現在のJR四国の始まりは、そもそも讃岐鉄道であり、丸亀駅・多度津駅・琴平駅間の開業であったということから、「四国鉄道発祥の地」といわれているようです。


この日は、JR多度津駅に残るSL全盛時代の面影を訪ねるため、岡山駅から”快速マリンライナー”に乗車して、香川県に入って最初の駅である坂出(さかいで)駅にやってきました。

坂出駅・多度津駅間の予讃線は、複線電化区間になっています。琴平行きの7200系電車の7319号車(多度津側)と7219号車(高松側)の2両編成の列車で多度津駅に向かいました。7200形電車は、国鉄分割民営化直前に、旧国鉄によって2両編成(クモハ121形+クハ120形)の19本が製造された車両。2両の固定編成で運用されています。平成28(2016)年からの老朽化による改造後には、7200形+7300形に改番されています。

坂出駅から15分ぐらいで、多度津駅に着きました。

動輪のモニュメントがある駅前広場。今は、鉄道を跨ぐ新しい横断陸橋(栄町地区緊急避難路)が完成していました。平成30年3月26日の正午に開通したそうです。

駅前から延びる通りの交差点です。まっすぐ行くと、右側に多度津交番や香川県立多度津高校の建物が並んでいます。駅前の交差点を右折すると、展示されているSLの姿が見えてきます。

展示されていたSL58685号機です。「説明板」によれば、「大正11(1922)年10月30日、汽車製造会社で製造されたテンダー機関車で、製造費は96,500円。最高速度は時速80km。大正11年から昭和45(1970)年までの48年間の走行距離は、2,643,771.5kmで、地球を約66周分ぐらいの距離を走った」SLだそうです。

「多度津町制施行80周年にあたり保存することにした」と、当時の信濃勇町長の名で刻まれていました。

駅舎に引き返して駅舎に沿って松山方面に向かって歩きます。駅舎の並びにあったパン屋さんの前を通って進むと、すぐに鉄道を跨ぐ横断陸橋がありました。写真は振り返って駅舎やパン屋さんを撮影しました。駅舎の向こうに見えているのは、栄町地区緊急避難路です。

横断陸橋に上り口にあった案内です。「平成30年3月26日の栄町地区緊急避難路の開通後に閉鎖します」と書かれていました。この横断陸橋はすでに役割を終えていました。 右側にあるのが煉瓦づくりの給水塔。 その奥にある鉄骨製の給水塔とともに、平成24(1012)年に、国の登録有形文化財に登録されています。窓の上部には、花こう岩の切石の装飾が見えます。装飾部分の下の窓が破損しており応急的な修理が施されていました。

この写真は、以前多度津駅を訪ねたときに横断陸橋の上から撮影したものです。陸橋の右側にある擬宝珠のデザインが魅力的でした。擬宝珠の下は信号機を支える柱になっていました。白く見えるのは時計です。そして、正面にあるのが煉瓦造りの給水塔の上部、コンクリート製の貯水槽です。左側は鉄骨製の脚部をもっている給水塔です。SLにとって燃料となる石炭と並ぶ必需品である水を、補給するための施設でした。

閉鎖された横断陸橋の上から見た新しい横断陸橋、栄町緊急避難路、そして駅舎とホームです。

二つの給水塔の近くに来ました。煉瓦造りの給水塔です。高さは10.6mあります。大正2(1913)年、讃岐鉄道の多度津駅が以前の場所から現在地に移設されたときにつくられた給水塔でした。煉瓦を直径4.8mの円形に組み、上部にコンクリート製の貯水槽を載せています。頂の部分には傘石を巡らせていること、煉瓦造りの円筒形の部分の窓と出入口には花こう岩製の切石をはめて、装飾を施していることに特色があります。

見えにくいのですが、出入口につくられていた切石でできた装飾です。裏側にも同じ装飾があり、先ほど見た窓になっています。

右側が鉄骨製の給水塔です。正確な製造年は明確ではありませんが、昭和初期に設置されたといわれています。古レールを組み合わせてつくった脚部の上に鋼板をつないで貯水槽を据えて、その上に、木造鉄板葺きの八角形の屋根を載せています。直径4.5mで高さは11.5mの施設だそうです。こちらの給水塔はシンプルな構造で、装飾はいっさいなく実用第一でつくられています。時代の流れを感じさせてくれています。それぞれの給水塔が当時のまま残っており、「再現することが容易ではもの」ことを理由として登録有形文化財に登録されているのも理解できます。

多度津駅の構内には、もう一つ、給水塔と同じ平成24(2012)年に8月13日に登録有形文化財に登録されたものがありました。転車台です。SLが主力だった時代に方向転換するために使われた施設です。多度津駅には戦前から続く機関区が置かれていましたので、頻繁に使用されていたはずです。ホームを通りかかった乗務員さんにお聞きしますと「あの車庫の向こうにありますよ」とのこと。写真がその車庫です。ホームからは松山方面に向かって右側に見えました。このときは、ディーゼル機関車が入庫しているようでした。

近くに行ってみようと思い、給水塔の先に行って見ましたが、見ることができません。JR社員以外入れないところに入っていくことはマナーに反します。道路に出て、その先にある線路を跨ぐ跨線橋の上に向かいました。写真が跨線橋の上から見た転車台です。運転台と円形の石積みの一部が見えました。でも、全景は見ることができませんでした。
 
転車台を地上から見ようとしたのですが、これが精いっぱいのようです。登録有形文化財の転車台は、直径18.5m。地上から0.8m掘り下げて、側面に花こう岩の切石を積んでつくられているようです。全国的にもめずらしい石造のピットの転車台だといわれています。


JR多度津駅は、明治22(1889)年に設置された「四国鉄道発祥の地」で、現在の地に移ってきたのは、大正2(1913)年、観音寺駅まで延伸したときでした。SL時代を彷彿させる、登録有形文化財に登録された給水塔と転車台が残る駅でした。