トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

着工から17日で開業、旧宇品線の面影を求めて

2014年02月15日 | 日記

現在のJR広島駅です。かつて、この駅から現在の広島港(宇品港)に向かう鉄道がありました。旧国鉄宇品線です。この鉄道は、明治27(1894)年8月4日、日清戦争(1894)の軍事物資の輸送のため、陸軍省の依頼を受けた山陽鉄道が敷設工事を始め、16日後の8月20日に宇品港までの5.9kmが完成しました。そして、その翌日の21日から開業した鉄道です。超がつくほどの突貫工事でした。日清戦争の開戦の時期であり緊急に整備する必要があったからでした。日露戦争からその後の太平洋戦争にいたる時代、軍事輸送路として重要な地位を占めた路線でした。一方で、山陽鉄道、芸備鉄道、国鉄と運行者は替わりましたが、一般乗客の輸送にも使用されました。しかし、役所の移転や広島電鉄との競争などによる乗客の減少によって、昭和45(1970)年には営業係数が4,049(100円の営業収入を得るために4,049円の経費がかかる)と国鉄全線の最悪となり、昭和61(1986)年に廃止になってしまいました。

以前、広島電鉄の路面電車に乗ったとき「広島港(宇品)」の行先表示を見て、宇品線の線路跡を訪ねてみたいと思っていました。 さて、写真は広島駅の1番ホームです。山陽本線を西に向かう列車が出発していきます。ホームの東(岡山側)方面の右(南)側に駐車場になっているところがありますが、ここが、かつての宇品線の線路があったところです。

広島駅の案内所で、市街地図をいただき、大まかなルートを教えていただいてからスタートしました。南口を出て左に向かいます。駅と並んで建っているフタバ図書の建物の前を進みます。

フタバ図書を過ぎたところで、建物の裏に回ります。先ほどホームから見た宇品線の線路跡の現在のようすです。宇品線は、明治30(1897)年に山陽鉄道が陸軍省から借りて一般営業を開始しましたが、明治39(1906)年に国有化されます。その後、第一次世界大戦のため軍事専用線になりますが、昭和5(1930)年、芸備鉄道が国から全線を買い受け、旅客の取扱いを再開しました。そして、昭和12(1937)年芸備鉄道が国有化され宇品線も国鉄の路線になりました。駅の新設や駅名の変更も、このような節目ごとに行われてきました。ただ、廃止されてから、かなり時間が経過していることもあり、もとの線路跡をたどることよりも、宇品線の名残を訪ねて歩く旅になりました。

その先にある愛宕踏切です。

愛宕踏切の脇にある横断陸橋から西側の広島駅方面を撮影しました。左側の舗装されたところが線路跡だそうです。

これは、愛宕の横断陸橋から見た反対(東)方向です。荒神町の跨線橋です。このあたりに、昭和5(1930)年愛宕口駅が設置されました。昭和12(1937)年には安芸愛宕駅に改称されています。広島駅から0.4kmのところにありました。

愛宕踏切から東に向かって、山陽本線の線路に沿って歩きます。天神陸橋の先から少しずつ線路から離れ、正面に見える新しい市民球場であるマツダスタジアムに向かいます。マツダスタジアムの手前のゆったりとした右カーブを道なりに進みます。

マツダスタジアムを過ぎると、やがて球場前西交差点に入ります。昭和24(1949)年からは交差点は立体交差となり、線路の下を道路がくぐる形で交差が行われていました。その先、川の手前に、昭和5(1930)年に設置された大須口駅がありました。安芸愛宕駅から0.8kmのところです。

猿猴(えんこう)川にかかる平和橋を渡ります。段原地区に入ります。

平和橋を渡ったあたりに、東段原駅があったようですが、その場所はまったくわからなくなっていました。東段原駅は大須口駅から0.2kmのところに、昭和5(1930)年に設置されました。いただいた地図では、この先、宇品線線路跡はここからまっすぐ南に進んでいました。写真の右下に、小さく公園が見えます。段原平和橋南緑地です。その右の道を南に進みました。

緑地の右の道を南に進んでいます。その先で、東西に走る道を迂回して渡り、さらにまっすぐ進みます。

段原南第四公園を過ぎてさらに進むと、マンションの前にモニュメントが見えました。ここまで来る前に、南段原駅跡をすでに通過しているはずでしたが、残念ながら場所を特定することはできませんでした。

段原南第五公園です。南段原駅の駅標と動輪と線路が飾ってありましたが、もちろんかつての駅跡ではありません。南段原駅は、昭和5(1930)年、芸備鉄道が国から宇品線を借り受け旅客営業を再開したとき「女子商前」駅として設置されました。「女子商」とは広島女子商業学校(大正14=1925年設立)のことで、ここより少し西にある段原ショッピングセンターのところにあったそうです。 駅は、昭和12(1937)年に改称されて、南段原駅になりました。東段原駅から0.4km(広島駅から1.8km)のところにありました。

マンション側からの入り口にあった子どもの像。「宇品線広場」のプレートがつけられていました。冬ですので、子どもは服を着せられマフラーで防寒していました。

ここを右に行くと、すぐ比治山通りにぶつかります。

比治山通りに面して、広島南警察署段原交番がありました。

交番の裏にあったモニュメントと大きな柳の木。「惜別 宇品線記念碑」と記されていました。

再度、比治山通りから引き返し、その一つ東の通りを進みます。比治山公園に立つ鉄塔を右に見ながら、南に向かってさらに歩きます。

やがて、左側にレンガ造りの建物が見えてきます。広島大学医学資料館です。ここから、広島大学霞キャンパス。 広島大学病院の広い敷地が広がっています。ここには、戦前、陸軍の兵器支廠がありました。この医学資料館は、兵器支廠のレンガを一部利用してつくられたといわれています。

これは、現在もこの近くに残っているレンガ造りの倉庫です。広島大学病院からさらに南に進んだ右(西)側の、現在、県立皆実(みなみ)高校や県立広島工業高校がある一画には、戦前は陸軍の被服支廠が置かれていました。このレンガづくりの倉庫は大正2(1913)年に竣功した、当時「10番庫」と呼ばれていた建物なのです。現在も皆実高校の西、出汐二丁目4番の地に堂々とした姿をとどめています。

昭和7(1932)年、芸備鉄道は広島大学病院の正門の西側に「兵器支廠前停留所」を設置しました。国有化とともに「比治山駅」と改称しましたが、やがて運行そのものが休止してしまいます。戦後になって、この地に、昭和22(1947)年「上大河(かみおおこう)駅」が設置され復活し、宇品線の廃止までこの地にありました。南段原駅から0.4km、広島駅から2.4kmのところでした。

一方、「上大河駅」は戦前にも別にありました。芸備鉄道が、ここより300m南(出汐三丁目9番の交差点の手前)に、昭和5(1930)年に設置した「被服支廠前停留所」が、昭和12(1937)年芸備鉄道が国有化されたとき「上大河駅」と改称されました。しかし、この「上大河駅」はこの広島大学病院にあった駅が「上大河駅」になった時に、廃止されてしまいました。つまり「上大河駅」という駅名は、戦前はもっと南にあった駅の名で、戦後は広島大学病院の正門近くにあった駅の名になっていったというわけです。

上大河駅のあった広島大学の霞キャンパスから南に進むと、やがて国道2号線を渡ります。

さらに、出汐三丁目9番の信号も直進します。この手前に、戦前の一時期、「上大河駅」がありました。

さらに進みます。進行方向の右側、「西旭町集会所」の建物が見えました。ここが、宇品線の「下大河(しもおおこう)駅」の跡でした。上大河駅から0.9kmのところにありました。集会所の庭に「ポッポ広場」が整備されていました。

色があせていましたが、地面にSL(蒸気機関車)の姿が描かれていました。

さらに、南に進んでいきます。道路がゆるやかな左カーブを描く右(西)側にあった翠町小学校と翠町児童館。その先の東(左)側には広島南警察署がありました。

翠町児童館の向かい(東側)に宇品線のモニュメントが残っています。信号機にレール、踏切の停止棒、手動のポイント切り替え機などが、かつての宇品線のようすを伝えてくれています。

広島南警察署の向かいに、レールは撤去されていましたが、線路跡が残っていました。永年放置されており草が生い茂っていました。

丹那駅の駅標がありました。昭和5(1930)年、芸備鉄道が「丹那停留場」を設置しました。昭和12(1937)年に国有化され丹那駅と改称しました。下大河駅から0.5km(広島駅から3.8km)の距離にありました。

駅の正確な位置はわかりませんが、広島南警察署の交差点より少し南の西側にあったといわれていますので、このあたりなのでしょうか?

これは、旧丹那駅舎の写真です。駅標に掲示されていました。1面1線で、線路の東側にホームと改札機能だけをもつ駅舎があったそうです。右方向が宇品方面になります。

線路跡の痕跡を捜しました。道路との境に境界石がありました。間違いないですね。

草に覆われた中に枕木を見つけました。やはり、ここは線路跡です。ここに来て、やっと宇品線の痕跡を見つけることができました。

線路跡を歩きます。丹那駅跡は地元の意向で「花壇と菜園」に使われています。

ランニングコースとしても整備されています。

また、パークゴルフ場としても使われています。

かつて、この通りには、枕木を立てた境界がつくられていました。現在は撤去され線路跡に積み上げられています。

線路跡の両側にある広大なマツダの工場を結んでいる輸送管の下に、下丹那駅の駅標が立っていました。下丹那駅は、昭和9(1934)年芸備鉄道によって「人絹裏停車場」として開業されました。「錦華人絹」(後の大和紡)の広島工場にちなんで命名されたそうです。昭和12(1937)年、芸備鉄道の国有化によって、下丹那と改称されました。丹那駅から0.9km(広島駅から4.7km)のところにありました。

これは、下丹那駅標に掲示されていた気動車、キハ04 106号車です。この先も、両側に広がるマツダの巨大工場を見ながら歩くことになりました。終点の宇品駅までは、1.2km。前方に見える広島県高速道路3号線の高架を見ながら歩きました。宇品駅跡は、現在、高速道路や宇品インターチェンジになっているそうです。 広島駅から5.9km、宇品線の終点です。

軍事鉄道として、超突貫工事で建設された宇品線は、旅客輸送にも使われるようになってから駅が設置されました。しかし、駅間の距離は短く、下丹那駅・宇品駅間を除いて、すべて1km未満です。路面電車の感覚で利用してもらおうと考えていたのでしょうか。線路跡や駅跡が残っていたら、ずいぶん楽しいウオーキングになったと思いますが、道路建設などで様相が変わってしまっていて、当時の線路跡をたどることさえも困難な状況でした。一番印象に残ったのは、かつての「被服支廠」のレンガ造りの倉庫が残っていたことです。現在、4棟が残っているそうですが、宇品線の痕跡がほとんどなくなっているなか、せめてこれだけは残しておいてほしいと思ったものでした。