トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

金刀比羅宮まで3里、丸亀街道を歩く

2013年12月30日 | 日記
江戸時代中期以降盛んになった金毘羅参詣に、四国の各地から多くの人が金毘羅宮をめざしました。それに伴い、高松街道、阿波街道、伊予街道、多度津街道などが整備されていきました。その中で、最も多くの参詣の人々が往来し、メインルートともいわれたのが丸亀街道でした。丸亀港から金毘羅宮まで3里(12km)。平成6(1994)年、丸亀市の「金毘羅街道景観整備事業」によって、歩きやすく整備されていると聞いていました。現在は「金刀比羅宮」と表記していますが、ここではそれ以前の「金毘羅宮」を使用します。
 
情報をいただくためにうかがった駅の観光案内所でパンフレットをいただきました。12kmならゆっくり歩いても4時間程度あれば到着する、それなら歩くことができるだろうと、旧丸亀街道をたどって金毘羅宮まで歩くことにしました。
 

観光案内所でいただいたパンフレットをもって、駅から北の瀬戸内海方面に向かいました。パンフレットによれば、丸亀街道の起点は二つありました。一つは、京極船魂(きょうごくふなたま)神社付近でした。讃岐浜街道に架かっている京極大橋の橋脚の付近にあります。
さて、延享元(1744)年に、大坂と丸亀を結ぶ定期船が就航し、参詣の人が飛躍的に増えました。そのため、従来の河口を利用した船入(ふないり・湊)が手狭になったため、文化3(1806)年にこの付近に福島湛甫(ふくしまたんぽ)を建設しました。

見づらいのですが、文政11(1828)年ごろの地図が遊歩道のガードに掲示してありました。「現在地」が現在の船魂神社付近です。その左の長方形の部分が福島湛甫(現在は埋め立てられてありません)です。現在、京極船魂神社があるところは、福島湛甫の南岸にあたっています。右に「船魂社」が見えます。当時の京極船魂神社は、現在地より少し南に鎮座していたようですね。

もう一つの起点は、ここ太助灯籠です。天保3(1832)年に新堀湛甫(しんぼりたんぽ・2013年12月24日の日記)ができてからは、ここからスタートする人が多くなりました。その道はいくつかありましたが、私は、太助灯籠から南に進み通町(とおりちょう)に入り、すぐ右折して進む道を行くことにしました。

JR予讃線のガード下をくぐり、通町商店街に入ります。

商店街に入ってすぐ、かどやさんの手前を右折して、西に向かいます。

左側に、スペース114(香川県の最大の地方銀行、114銀行の丸亀支店本町出張所)がありました。

その次が富屋町商店街。丸亀湊の京極船魂神社から南下してきた参詣の人々とはここで合流します。さらに西に向かい、丸亀駅前から南に向かう京極通りを渡ります。

京極通の次の小さな路地、左の駐車場の先を左折して南に向かいます。上に示したパンフでは、行き止まりの道に見えますが、正確にはこの先も道路が続いています。左折した先は、寺院が並ぶ寺町の一角になります。実は、私がこのルートを選んだのは、この先の寺院の中に、興味を引かれたところがあったからです。

左折して南に進むとすぐ右にあった法音寺。「井上通女」の墓が残っています。井上通女は丸亀藩京極家2代目藩主、京極高豊の母の下で仕えるため江戸に向かいました。その途中の新居(あらい)の関所で「女」と書かれていた道中手形を持っていたのに振り袖を着ていたため(この場合は「小女」と書かれていなければならなかったのです)、通行手形の不備ということで、足止めにされたことで知られています。「入り鉄砲に出女」の厳しい取り締まりを示すエピソードとして有名です。(「新居関所に行ってきました」2013年5月21日の日記)。井上通所は、江戸時代を代表する女流作家、歌人です。地図で「法音寺」の名を見つけたときから訪ねてみたいと思っていました。

さらに南に進むと、右側に灯籠が見えてきます。写真の右奥に寿覚院の山門が見えます。「左 金毘羅道」「本宮百五十八丁」と刻まれた道標を兼ねた灯籠がありました。

この先のようすを示したパンフの地図です。この先からは、道標や金毘羅灯籠、距離の「丁」を示す「丁石」をたどる旅になります。

その先の交通量の多い県道(旧国道11号線)の向かいに、道標があります。明治13(1880)年、南条町の有志が建立した道標です。正面に「すく こんひら」、東面に「左 こんひら道」、南面に「右 かわくち」と刻まれています。「川口」は丸亀湊を表しています。もともと、10m南の交差点に設置されていて、南条町道標として親しまれていました。道路の改修などで転々とした後、平成6(1994)年の「街道景観整備事業」により、この地に移されてきました。「すく こんひら」と示されたように、右の通りをまっすぐ南に進みます。

30m進むと、また道標があります。「すぐ こんひら道」と「田宮坊太郎の墓所」を刻んでいます。田宮坊太郎は仇討ち話ですが、史実ではないといわれています。この手前の道を進み突き当たりの左にある玄要寺の一角に、丸亀藩6代藩主京極高朗(たかあきら)の墓所が設けられていました。京極家7代の藩主のうちで、丸亀に墓所があるのはこの高朗だけだそうです。

その先で、ゆるやかに右に左にカーブします。かつて、枡形があったところではないかと思います。左側にあった南条町の石灯籠。明和元(1764)年、農人町と南条町(現中府五丁目)の講中によって、この地に建立されたものだそうです。石灯籠の前の道路がベージュ色の自然石で舗装されています。この色に従って進めば、金毘羅街道を進むことができます。さらに、南に進みます。

その先、三叉路の左にあった道標。「西 ぜんつうじことひら道」「北 汽車海岸へんろ道」「南 このさきだいせん阿波街道」と刻まれています。大正3(1914)年、鷄鳴軒という散髪屋さんが建てた道標です。阿波へ向かう人々のために、ここからまっすぐ行く新しい道を教えたものです。この前を右折します。

道路にあった「こんぴら湊 まるがめ街道」のマークです。

ベージュ色に塗られています。このまま道なりに進みます。途中にあった三叉路では左方向に向かって進みます。

道路の正面に見えた文化5(1808)年建立の「百四十丁石灯籠」です。左は、四国八十八カ所巡礼の道標です。

「金毘羅大権現」と刻まれた百四十丁灯籠です。見てすぐ気づきますが、もともと道標だったものに火袋を乗せて灯籠にしたものです。

正面にある鳥居の手前右側にあった「従是金毘羅町口江百五拾丁」の石碑。金毘羅街道の起点を示す「起点石」といわれています。明和4(1767)年に建立されたもので、もとは、川口(丸亀湊)にあったものです。この地は、大正14(1925)年頃まで駕籠かきの詰所があったところといわれています。ちなみに、金毘羅側からの起点石は、高灯籠のある北神苑に残っています。

中府(なかぶ)の大鳥居です。光線の関係で、振り返って撮影しました。金毘羅宮の一の鳥居です。明治4(1871)年に大坂の泉(州)大鳥郡堺、長赤間関、奥北郡野邊地と地元の丸亀の人々によって建立されたそうです。高さ22尺(6.7m)、柱の間は15尺(4.5m)あるそうです。昭和18(1943)年に地震で倒壊しましたが、金刀比羅宮が修復したそうです。

大鳥居の先、右にローソンのある交差点を渡ります。その先に丸亀城西高校の入り口。その先に「中府三軒家の三つ角」と呼ばれている交差点があります。そこに、「平成の丁石」である「五丁」の石碑が建っていました。金毘羅街道はその手前を左折していました。県道33号線を渡ってさらに東に向かいます。

そして、城西コミュニティの前の道路を右折して、県道204号に入り、再度南に向かって歩きます。

交通量の多い道路、家の切れ目から讃岐富士、飯ノ山を右に見ながら進みます。単調な道になりました。

道路の分岐点に設置されている「平成の丁石」。「二十丁石」です。ここから、金毘羅街道は右の道に入ります。

その裏のヘアーサロンの前にあった、柞原(くはら)の常夜灯。文久3(1863)年に金毘羅大権現へ奉納するために建てられた常夜灯ですが、「右 こんぴら道」と台座に彫られていて、道標も兼ねてつくられたもののようです。その先で、国道11号線を横断します。金毘羅宮に向かってひたすら歩く旅。心境としては、パンフレットに掲げられている灯籠や道標、丁石を見つけることが目的の旅のようになってきました。まるで、スタンプラリーです。左側にあった三船病院の脇を過ぎました。右にあった田村池の水はほとんでありませんでした。

右側に、正面寺の自然石灯籠を見つけました。コーポの建物の駐車場の中でした。万延元(1860)年、村中安全を祈ってつくられたという灯籠です。

高松自動車道の下をくぐります。

その先は二つの道の分岐点です。その中心に一里屋の灯籠と丁石が立っていました。灯籠は、明治7(1874)年に地元の住民によってつくられたようです。中台(火袋の下)は6角形で方位が十二支で示されています。「東 高松 西いよ こんそうじ せんつうじ」、「南 金毘羅」、「北 丸亀」と刻まれています。丁石には「是より鳥居まで百丁」。埋もれていたのを復活させたものだそうです。灯籠と丁石を左に見ながら先に進みます。スタンプラリーのような旅は、まだまだ続きます。

郡家(ぐんげ)に入りました。金毘羅街道には、今日の四国八十八カ所の参詣でみられる「お接待」とよく似た接待がありました。参詣の人々が休憩する場が街道の郡家(ぐんげ)、与北(よぎた)、公文(くもん)に設置されており、お茶などの接待が行われていました。この付近に郡家の茶堂がありました。

道路の左に神社の入り口に見られるような石橋が見えました。左には皇子神社。右には神野神社がありました。

左の皇子神社の参道にあった「両宮の石灯籠」です。この先に見えた讃岐富士がきれいでした。嘉永7(1854)年、地元の方が八幡様(神野神社)と金毘羅様の両宮に奉献したもののようです。

神野神社の前に戻ります。「すぐ こんひら道」とある、金毘羅灯籠でした。

ここに郡家の茶堂があったと書かれていましたが、捜しても捜してもその跡がわかりません。あきらめて先に進もうとしたとき、何げなくのぞいた先に、「賽祷碑」(さいとうひ)がありました。パンフの説明によれば「肥後の美作九平治一族が、八幡様と金毘羅様の神恩に報いるため、雨傘千本を献じて感謝の意を表し、国家安全・商運吉祥を祈ることを記したもの」と書かれています。ここが、郡家の茶堂の跡でした。この先で、交通量の多い道路と合流します。さらに先をめざします。

交通量の多い道をひたすら前に歩きます。たくさんの車が、わざわざ中央に寄って走ってくださいます。運転者から見ると、私はずいぶん迷惑な歩行者だと思われていることでしょう。左側にローソンの広い駐車場がありました。駐車場と道路のガードロープの間に隠れるように、「五十丁」の丁石が建っていました。50丁は、金毘羅街道に3分の1の距離です。しかし、この位置ではないそうです。道路工事のたびに移されたようで、もともとの場所はわかっていないそうです。

先をめざします。右側にあった篭池(かごいけ)にも水はほとんどありませんでした。やがて道路は緩やかに右カーブします。「琴平8km」の青い標識があります。金毘羅街道はそのまままっすぐ進みます。

田んぼの中の道になりました。交通量が少ないので落ち着けます。与北(よぎた)町に入りました。道路の右側に灯籠があるのに気がつきました。「角下組(すみしもぐみ)の石灯籠」でした。寛政7(1795)年9月の建立。その前に「七十丁」の丁石が、灯籠に守られるように建っていました。

角下組の灯籠から少し進むと、右側に黒住教の教会所があります。ここが、金毘羅街道のほぼ中央にあった与北の茶堂跡です。東西4間、南北5間、内部は土間でした。十一面観音を祀っていましたが、現在は、丸亀市内の宝光寺に安置されています。


ひときわ目立つ大きな石灯籠です。金毘羅街道の中で最も大きい灯籠です。火袋は6面。中台も6面あり、1面に1文字ずつ「金毘羅大権現」と彫られています。昭和21(1946)年の南海地震で倒壊しましたが、昭和42(1967)年復元されたそうです。

かつての茶堂の名残が比較的よく残っています。当時の石橋です。

手洗石です。これも当時の名残です。

馬乗石。馬に乗る時に使用した石だそうです。「備中 早嶌嶋屋仙次郎」と彫られていました。「備中の国早島」は、私にとっては隣町といっていいところです。ごく近いところに、嶋屋さんという屋号の店があったのですね。「寛政7(1795)年9月吉祥日」と刻まれていました。

その先の田んぼのあぜ道のようなところに建っていた「角上組(すみかみぐみ)の石灯籠」です。角下組の石灯籠と一対になっているそうです。同じ、寛政7(1795)年の建立です。

ここから、また、ひたすら歩きます。

与北町のはずれで道が二つに分かれていました。その分かれ道に建っていた「山下の道標」です。後ろの畑のビニールがぴかぴか光っていました。  「 右 金刀比羅道  左 大川剣道  すぐ 丸亀 」とありました。明治11(1878)年と彫られていました。右側には、平成の丁石「九十丁」が建っています。平成の丁石があるところは、間違いやすいところです。地図をしっかり見て、右の方に向かって進みました。

そのまま進むと、県道200号を渡ります。まんのう町公文に入ります。次は公文の茶堂跡がありそうです。

県道を越えて左カーブの先に、山神酒店さんがあります。その先に川の樋がありました。

酒店さんの次はうどんやさん。その間にある樋の手前を金毘羅街道は右折して山裾を南に向かっていました。

うどんやさんの裏の畑に、かつて、公文の茶堂があったそうです。

茶堂があった畑の右側を進みます。

山裾を進むと、富隈(とみくま)神社がありました。

富隈神社の境内に、百十九丁の石標が移設されているのに気がつきました。周囲を捜すと他にもあって、九十二丁石、九十七丁石、百三丁石、百六丁石、百十七丁石の6つの丁石が見つかりました。距離を考えると、比較的近いところに設置されていた丁石のようです。道路工事などで移動させたときに、ここにもって来たのでしょうね。

田んぼの中の道を進み、県道47号を越えた先に、「百十丁」の平成の丁石がありました。丸亀湊から金刀比羅宮まで150丁ですから、残るは40丁です。3km余りになりました。でも、灯籠や丁石を捜しながら進む、スタンプラリーのような旅はまだまだ続きます。

黙々と歩き続け、次に出会ったのが、「金」のマークがついた自然石の灯籠と、その前にあった百二十四丁石でした。道路の左の民家の前の用水路の近くにありました。 百二十四丁石は、もともとこの地にあったものです。残り25丁のところまで来ていました。少し元気が出てきました。

パンフにあった地図も、いよいよ最後のページになりました。頑張って最後まで歩き通そうと思いました。

琴平町苗田(のうだ)地区に入りました。道路の右側の民家の生け垣の中に、白い案内板がありました。江戸時代、このあたりは苗田村でした。周辺の榎井(えない)村、五条村、五毛村とともに幕府領(天領)となり、ここ苗田村に代官所が置かれました。初代の代官には守屋与三兵衛が任命されました。天領からあがる年貢は満濃池(まんのういけ)の改修や用水路の整備に使われていたと、白い案内板には書かれていました。

ここまで、ほぼまっすぐ南下してきた金毘羅街道も、いよいよ金毘羅宮に向かって進むことになります。香川三菱農機の会社の前で右折します。

その先の右側のあぜ道にあったのが、藤の棚跡と京都の後藤八郎兵衛が寄進したといわれている「百三十一丁」の石碑です。奈良出身の放浪の画家、大原東野が丹精した藤棚があったところでした。残るは二十丁です。

道なりに進み、左の民家の先で左折します。

左折したところにあった若宮神社。境内にある石井神社の石碑が大きいため、石井神社かと思いましたが・・・。

若宮神社の先の小さな四つ角を右折します。

そこから、金毘羅宮方面を見ると、温泉旅館の間に高灯籠が見えました。さすが高灯籠です。歩いてくる旅人の目印になったことでしょう。


この道は西に向かって延びていました。県道319号の向こう側にある琴平バスをめざして歩きます。

琴平バスの会社の脇で県道を渡ります。さらに西に向かいます。その先に、鳥居が見えて来ました。

横瀬の石鳥居です。扁額には「丸に金の字」の金毘羅宮のマークが掲げられています。柱には、奉献した方でしょうか?備前児島、野崎武吉郎、鎌田弥太郎 佐藤文太郎などの名前が刻まれています。野崎武吉郎は、塩田王といわれた児島の豪農、野崎家の方で貴族院議員もつとめた人です。鳥居の右側の柱の下に、「百三十五丁」の平成の丁石がありました。金比羅宮まで、あと15丁です。

金毘羅街道は、その先で、JR土讃線の下をくぐります。そして、すぐ左折します。

今度は、琴平電鉄琴平線の踏切を渡ります。

踏切の左で、琴平電鉄はJR土讃線の下をくぐって榎内駅から高松方面に向かっていきます。

踏切からすぐ先に地蔵堂と石灯籠が並んでありました。石灯籠は「横瀬の石灯籠」と呼ばれています。ここから、道なりに進むと大西病院の前を通って左に曲がります。目の前に、高灯籠が見えてきました。


丸亀からの金比羅街道は、高灯籠のある北神苑の東側の道を通って金比羅宮に向かっておりました。

北神苑にある高灯籠です。万延元(1860)年に完成しました。高さ27m。丸亀の沖を通る船からも見えるような高さにつくったということです。以前影した写真です。

金毘羅街道にゆかりのものが残っていました。高灯籠の左にある藤棚です。百三十一丁の丁石の隣にあった大原東野の住居跡にあった藤棚でした。 明治30(1897)年頃に、ここに移されたということです。

中府(なかぶ)の大鳥居の近くに、丸亀湊からの起点石「百五拾丁」の石がありましたが、こちらは金比羅宮側の起点石です。同じように「百五拾丁」と刻まれていました。

丸亀湊からやってきた参詣の人々は、北神苑の東側の道をこのまま進み、高松街道からの参詣の人々とともに一の橋を渡って参道を登って行きました。 丸亀からの150里(12km)の徒歩の旅の終点でした。

JR土讃線の琴平駅に着いたのは、もう暗くなっていました。最初、4時間ぐらいあれば着くだろうと金毘羅宮に向けて歩き始めましたが、なかなか目標が見つからず、多くの時間がかかってしまいました。特に、曲がるところがわからず、琴平電鉄の榎井駅まで行ってしまったことは、終点に近づいていたところでしたので、時間のロスにがっかりしてしまいました。JR琴平駅に到着したのは午後5時近くになっていました。これという見どころもないまま歩くのはなかなか厳しいことでしたが、小さな道標や丁石の存在に元気をもらいながら歩いた旅でした。