トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

新選組ゆかりの地を歩く

2013年07月29日 | 日記
幕末、倒幕をめざす尊王攘夷派と激しく戦った新選組。前回(2013年7月21日の日記)は屯所跡を中心に歩きましたが、今回は、京都市内に残る新選組ゆかりの地を歩きました。


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      新選組関連年表

  文久2(1862)年12月 会津藩主松平容堂、京都守護職として京都に入る
  文久3(1863)年 1月 幕府、江戸で浪士を募集し近藤勇らが参加する
              2月 浪士組、京都に入り、壬生を屯所とする
              3月 近藤勇、芹沢鴨らが会津藩主預かりとなる
              8月 8月18日の政変がおきる
              9月 芹澤鴨らが暗殺される
                「新選組」の隊名を与えられる
  元治元(1864)年 6月 池田屋事件がおきる
               7月 禁門の変がおきる
             10月 伊東甲子太郎が新鮮組に入隊する
  慶応元(1865)年 3月 屯所を西本願寺に移す
  慶応3(1867)年 3月 伊東甲子太郎が御陵衛士になる
              6月 新選組、幕臣に取り立てられる
                 新選組の屯所を不動堂村に移す
             11月 伊東甲子太郎が暗殺される
                 藤堂平助が戦死する(油小路事件)
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文久3(1863)年2月、京都に入った浪士隊の清河八郎らは、生麦事件の処理に不満を持って横浜に到来していたイギリス艦隊への対応のために江戸に帰るべきことを説き、朝廷の許可を得て、3月に江戸に帰ります。芹沢鴨や近藤勇ら京都に残留した浪士は、京都守護職を頼り壬生浪士隊として、その指揮下に入りました。その後、宮中クデーデターの「7卿落ち」で知られる「8月18日の政変」に出動した壬生浪士隊に、会津藩から新選組の隊名を授けられ、これ以後、新選組を名乗ることになりました。この日は、まず、京都守護職が置かれた金戒光明寺を訪ねることにしました。

京阪電鉄の神宮丸太町駅で降りて、東に向かいます。東大路通りを越えてさらに進み、平安神宮の裏を過ぎたところで左折します。そして道路の突き当たりを右折して進むと、金戒光明寺の高麗門の前に出ます。ここは、14代将軍、徳川家茂(いえもち)の上洛に先立ち、京都の治安を維持するために派遣された京都守護職、会津藩主松平容堂(かたもり)の本陣があったところです。高麗門には「京都守護職本陣 旧蹟」と書かれています。

紫雲山金戒光明寺、通称黒谷。浄土宗大本山です。江戸初期、知恩院とともに、城のような構造に改修されていました。会津藩兵、1000人が常駐し1年おきに交代していました。 境内の東北の隅にある会津藩士の墓地を訪ねて、参道を進みます。左手に修理中の山門がありました。「参道」の石標に従って進み、三重の塔に至る石段を左折して進みます。

塔頭西雲院の脇に慰霊碑がありました。「明治40年3月建之 旧会津藩有志者」と刻まれていました。

慰霊碑の脇に、会津藩主の松平容堂に従い京都に来て亡くなった、会津藩主の墓が並んでいました。

京都守護職の本陣は金戒光明寺に置かれていましたが、御用屋敷は、現在の京都府庁の敷地に置かれていました。次は、京都守護職の屋敷跡を訪ねて、京都府庁に向かうことにしました。

丸太町通りを引き返して鴨川に出て丸太町橋を渡ります。京都御所に沿ってさらに西に向かいます。御所の南西隅を右折して北に上り、聖アグネス教会の角を左折して、下立売通りを西に向かいます。平安女学院中・高等学校の先に京都府庁がありました。

京都府庁です。京都守護職の屋敷はこの敷地にありました。南の入り口から、中に入ります。

入り口におられた守衛さんにお聞きすると、屋敷跡の石碑は、入り口から入ってすぐ右側の植え込みの中にあるとのこと。この屋敷跡は、慶応3(1867)年6月、新選組は幕臣として取り立てられることになりましたが、それに反対して佐野七五三之助(しめのすけ)ら4人が交渉が決裂した後に自刃したところといわれています。


8月18日の政変が起きる直前の文久3(1863)年8月12日、壬生浪士隊の筆頭局長芹沢鴨は大和屋焼き討ち事件をおこしています。芹沢は35人の隊員とともに、以前資金供与を断った生糸商の大和屋に押しかけて焼き討ちにした事件です。大和屋は、外国人との貿易で財を成した商人であり、大和屋の生糸の買い占めで生糸の価格が暴騰して西陣の西陣の織物職人を中心に生活に苦しむ人がいたといわれています。だから、単なる狼藉ともいえないのかもしれませんが・・・。

御所の中立売御門から西に向かいます。京都ブライトンホテルの建物を左に見ながら、堀川通りに向かって歩きます。鳥取藩京都藩邸の敷地があったNTTを過ぎると堀川通りに着きます。このマンションの建物があるあたりに、焼き討ちされた大和屋があったといわれています。

また、写真の手前の橋は、堀川第一橋と刻まれています。ここは、かつて中立売橋があったところで、焼き討ちの時には、この橋の上に多くの見物人が押しかけたといわれています。

芹沢鴨は、上洛の途上(文久3年2月)中山道の本荘宿で、宿割りの不始末に激怒し野陣と称して大篝火を炊かせたり、大坂出張中に大坂相撲の力士と乱闘事件(文久3年6月)を起こしたり、様々な蛮行で知られています。京
都守護職が粛清を決断したのが、この大和屋事件だったといわれています。

文久3(1863)年9月18日、屯所の壬生八木邸の奥座敷で眠っていたところを近藤勇らに襲われ、縁側伝いに隣の部屋に逃げた後、そこで力尽きたといわれています。島原の角屋(すみや)で行われた浪士組の宴会の後で酩酊し、寝込んだところを襲われたということです。

壬生寺の壬生塚に、芹沢鴨の墓が残っています。

御所に引き返します。
中立売御門の前で右折し南に進みます。

その南にある門が蛤御門(はまぐりごもん)です。あの「禁門の変」の舞台となったところです。この変は、その前におきた池田屋事件が契機になっています。

京都御所の南、丸太町通りに面している堺町御門です。文久3(1863)年8月頃の京都では、長州藩を中心にした尊王攘夷派が政治の実権を握っていました。これに反感を持つ薩摩藩(公武合体派)は会津藩と図って、8月18日にクーデターを決行します。これによって、7人の尊王攘夷派の公卿が御所から追放され、長州藩も堺町御門の守衛の任務を解かれ、尊王攘夷派は京都から一掃されたのでした。 このとき、会津藩から壬生浪士隊に出動命令が出され、御所の御花畑御門を守るようになりました。この「8月18日の政変」で任務を全うした浪士隊は、高い評価を受け「新選組」という名が与えられたのでした。

禁門の変のきっかけになった池田屋事件の地を訪ねるため、ここから、南東に向かい、木屋町通りを高瀬川沿いに南に下りました。三条大橋の西の高瀬川にかかる三条小橋に向かいました。三条大橋は、東海道を西に来た旅人にとっては、京都への入り口にあたるところです。

これは、高瀬川沿いの説明版にあった昭和初期の三条小橋(高瀬川にかかる)の写真です。新選組の時代も、こんな雰囲気だったのではないでしょうか。

三条小橋から三条通りを西に5軒目に池田屋事件の舞台になった旅館池田屋跡(当時は三条小橋から3軒目だったそうです)がありました。”海鮮茶屋 池田屋 花の舞”です。それ以前には、パチンコ店だったこともあるそうです。  元治元(1864)年4月、前年の「8月18日の政変」以来、入京を禁じられているはずの長州藩士や諸藩の尊王攘夷派の浪士が密かに京都に潜入していることに、新選組は気がつきました。

四条小橋の一つ北の真橋(しんばし)通りにある、”しる幸”という飲食店の片隅に、古高俊太郎の旧宅跡の碑が残っています。潜入している尊王攘夷派の潜伏先が、古高が営む薪炭商枡屋湯浅喜右衛門だと知って、6月5日屯所に連行しました。そして、「6月20日頃の風の強い日を選び、御所の風上に碑を放つ。その混乱に乗じて公武合体派の中川宮を幽閉し、京都守護職の松平容堂を討ち、天皇を長州に連れ去る」という計画を知ることになります。

八坂神社の西門前の東大路通りをはさんだ向かいにある祇園会所跡です。今はコンビニのローソンになっています。 新選組は、7月8日、会津藩の援軍とここで合流し、尊王攘夷派を討つことにしていました。しかし、会津藩は時間になっても来なかったので、新選組24人を2組に分け、近藤勇ら10名は鴨川の西側の、土方歳三ら24人が鴨川の東側の探索を始めました。

7月8日の亥の刻(午後10時)、近藤ら4人(沖田総司・永倉新八・藤堂平八)で池田屋にいる20数名の尊王攘夷派に切り込みました。後に、土方隊が到着して、9名を討ち取り、4名を捕縛しました。会津藩・桑名藩・彦根藩も合流し、翌朝には、さらに20数名を捕縛しました。新選組が壬生の屯所に帰還したとき、沿道には見物人があふれていたということです。

これは、三条大橋です。西詰めから二つ目の南北の擬宝珠に刀傷が残っています。
これがその刀傷です。寺田屋事件のときにつけられた傷だといわれています。

再び、御所の蛤御門に戻ります。7月8日におきた池田屋事件の結果は長州藩に届きます。「8月18日の政変」で京都から追放された三条実美ら尊王攘夷派の公家の復権を嘆願し認められなければ武力に訴えてでも目的を果たすと、長州藩は2000人の大軍が三軍に分かれて京都に進軍します。幕府側は、会津・薩摩藩が守備につき、新選組は伏見方面の九条河原に派遣されました。

7月19日未明に、一挙に戦端が開かれました。伏見からは福原越後が率いる一隊が北に向かって進軍しましたが、京都に入る前の藤森で大垣藩兵に阻止され撤退します。また、山崎天王山からの一隊は堺町御門付近で戦火を交えます。過激な家老、来島又平衛や尊王攘夷派の理論的指導者だった久留米の神官、真木和泉は蛤御門を攻撃し、守りを固める会津・薩摩藩と戦闘に入ります。かれらは、一時御所内に突入しかけるほど善戦しますが、薩摩藩に背後を突かれ敗退し、来島は蛤御門の近くで戦死します。真木和泉や久坂玄瑞らの隊は、堺町御門で福井藩兵と激戦を続けましたが、久坂は鷹司邸に追い詰められて自刃して果てました。新選組は、会津藩から御所への転戦を命じられて到着しましたが、すでに長州藩は総崩れの状態でした。天王山まで逃れた真木らは、追い詰める新選組の近藤らの目前で陣地に火を放ち自刃しました。長州藩は一日持たず敗れ去り、御所を攻撃したことにより朝敵となり、京都に立ち入ることができなくなりました。今も蛤御門には、当時の弾丸の跡が残っています。

禁門の変は、もっとも激戦だった「蛤御門」の名をとって「蛤御門の変」とも呼ばれています。しかし、禁門の変はこれだけでは終わりませんでした。鷹司邸と長州藩邸から出た火は、折からの北風にあおられ南に向かって延焼しました。北は丸太町通り、南は八条通り、東は寺町通り、西は堀川通りまでが焼け野原になり、2万7513軒の家が焼けてしまいました。一番の被害者は、大火に見舞われた京都の人々でした。


ちなみに、長州藩邸は河原町御池にありました。

「長州屋敷跡」の石碑はホテルオークラの客待ちタクシーの左に立っています。

ホテルオークラの並びにある京都市役所も長州藩屋敷の敷地だったようです。

ホテルオークラの京都市役所に向いているところに、桂小五郎の座像がつくられています。あの池田屋事件の時には、参加する予定でしたが、早く着きすぎて席をはずしていたため難を逃れた、運のいい方でした。


もう一人、粛清された浪士として、伊東甲子太郎(いとうかねたろう)を挙げることができます。二番目の新選組の屯所が置かれていた西本願寺から堀川通りを南に進み七条通りを渡ってから堀川通りの一本東の通り(油小路通り)に入ります。

油小路通りの左側に本光寺があります。ここで伊東甲子太郎は息絶えました。伊東は、文武両道に優れた尊王攘夷派の浪士でした。かれは、近藤勇に武術の腕を買われて新選組に迎えられ、北辰一刀流の弟子を率いて、元治元(1864)年10月に入隊しました。しかし、尊王攘夷派の伊東と佐幕派の近藤では考え方が合うはずはなく、慶応3(1867)年3月離党して、孝明天皇の御陵を守る御陵衛士(ごりょうえじ)の役につき、東山の高台寺月真院へ本拠を構えます。弟の伊東三樹三郎、門下生の内海次郎、伊東を近藤に紹介した藤堂平助と近藤のスパイであった斎藤一も一緒でした。新選組に残った伊東の4人の同調者は、近藤に会津藩邸に呼び出されて追い詰められ、自刃させられたといわれています。

伊東は、新選組を乗っ取り近藤暗殺を企てていましたが、近藤のスパイの斎藤一が、慶応3(1867)年11月10日、近藤に通報しました。近藤は、11月18日(坂本龍馬暗殺の3日後)伊東を七条醒ヶ井(さめがい・現堀川通り)の自宅に招き酒宴を開きました。その帰りに、新選組の大石鍬次郎(くわじろう)ら4名に襲われ惨殺されました。死骸を引き取りに来た藤堂平助ら7名も襲われ(油小路事件といわれます)、伊東三樹三郎・藤堂平助ら3名が死亡、残る4名は薩摩藩邸に逃げ込みました。これによって高台寺党は全滅しました。しかし、近藤は、薩摩藩邸に逃げ込んだ篠原泰之進ら残党によって伏見街道で襲撃され負傷させられました。統制のための粛清を繰り返した新選組を象徴するような、一連のできごとでした。

幕末、歴史の中心は京都に移りました。朝廷か幕府か、開国か攘夷か、社会が混乱していた時代、多くの志をもった人たちが倒れていきました。しかし、新選組の活動にもかかわらず、時代は倒幕に向かって進んでいました。伊東が殺害された翌年には、江戸城の無血開場ががなされたのでした。