トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

新選組の屯所跡を訪ねて

2013年07月21日 | 日記

幕末、攘夷か開国か、朝廷か幕府か、国は大きく揺れていました。京都には尊王攘夷派の志士が集まり騒然としていました。権威の失墜を恐れる幕府は、公武合体の政策を推進し、孝明天皇の実妹和宮を14代将軍徳川家茂(いえもち)の正室として迎え、将軍家茂の上洛も計画していました。そのため、京都守護職に会津藩主松平容保(かたもり)を任命し、治安の維持につとめていました。このような状況のもと、新選組は結成されました。今回は、新選組の屯所跡を訪ねて歩くことにしました。

新選組の結成の地、壬生。新選組が活躍していた当時は、田んぼと畑が広がる鄙びたところでした。最初の屯所を訪ねるため、阪急大宮駅からスタートしました。

京福電鉄大宮駅の「嵐電四条大宮駅」の表示を見ながら、壬生に向かって、まず、大宮通りを南に下りました。10分程度歩き、仏光寺通を右折します。  
仏光寺通を西に向かいます。南北の通りである壬生川通りとの交差点の先、民団京都府中京支部会館の脇に、「肥後藩屋敷跡」の石碑がありました。少し歴史の世界に近づいてきました。
坊城通りの先に石碑がありました。「壬生寺」と書かれています。写真の建物は、「壬生寺老人ホーム」でした。石碑で右折して、坊城通りを北に進みます。

すぐ、壬生寺の山門がありました。いよいよ、新選組の結成の地に着きました。新選組は、”浪士組”として、文久3(1863)年2月23日に壬生にやってきました。将軍家茂の上洛にあわせて京都の治安を安定させるため、応募してきた浪士で結成されました。企画したのは、庄内出身の清河八郎でした。

写真は、壬生寺の向かいにある新徳寺です。ここで、浪士組を率いていた清河八郎が「真の目的は尊王攘夷、将軍の警護は名目だった」と、そして「(生麦事件の処理を不服としたイギリス艦隊が横浜に着いていたので、)対応のために江戸に帰る」と演説しました。結局、3月13日に、浪士組は江戸に帰還してしまいます。

京都残留を主張した近藤勇や芹沢鴨は、京都守護職の会津藩の指揮下に入り”壬生浪士組”と呼ばれました。その後、文久3(1863)年8月に起きた、「七卿落」で知られる「八月十八日の政変」時に出動したとき、近藤ら隊士の活躍ぶりに公家たちも感動したということで、会津藩から「新選組」の隊名を授けられました。新選組が誕生した瞬間でした。  壬生寺を過ぎて、北に50mぐらいのところに、「御菓子所 鶴屋」というお菓子屋さんがあります。壬生の郷士、八木源之丞邸跡です。新選組の最初の屯所が置かれていたところです。

奥に母屋が残っています。しかし、正確には、屯所はここではなく、母屋から100mほど北東にあった離れ座敷だったようです。しかし、隊士たちはいつも母屋に入りびたっていました。また、母屋の東側には道場「文武館」があり、隊士たちが鍛錬していました。

「新選組屯所遺蹟」の碑です。

もう一度、壬生寺に戻ります。山門から境内に入ります。かつて、境内では新選組の調練が行われていました。非番の日には、かれらも自由な時間を過ごせたようで、沖田総司は、近所の子供や子守の子を集めて鬼ごっこをしたり、境内を走り回って遊んでいたといわれています。

私が訪ねた日は、境内の阿弥陀堂で、「慰霊供養祭」が開かれる予定でした。そのせいか、本堂に近づくと「ぶしという名にいのちをかけて しんせんぐみは、今日もゆーく」という三橋美智也の「ああ 新選組」の歌が、寺務所から流れていました。阿弥陀堂の中で100円を払って、裏に抜けると、壬生塚がありました。
壬生塚です。新選組にゆかりの石碑や慰霊碑が建てられていました。「誠」のところでポーズをとって記念撮影をする若い人がたくさん来ていました。

境内にながれていた「ああ 新選組」の歌碑です。横井弘作詞 中野忠晴作曲でした。そういえば、「供養祭」の参加者の中に「三橋美智也後援会」の名もありました。

おなじみの近藤勇像。新選組の局長です。

新選組の顕彰碑です。

隊士の数が増えると、八木邸だけでは手狭になって、坊城通りをはさんで向かい側にある前川邸も屯所としました。ここは八木邸より広く、総坪数443坪、部屋数12間。 畳数は合計146畳あったそうです。家主の前川荘司氏は新選組の高圧的な態度に恐れをなして、六角通りにあった本宅に移っていったということでした。中には入れませんが、池田屋事件の前に、古高俊太郎を拷問して自白させた部屋も残っているそうです。入り口は、綾小路通りに面しています。豪壮な郷士の住宅の雰囲気を残していました。

長屋門から中に入ります。ご家族が住んでおられるので、公開されていませんが、母屋では新選組ゆかりの品を販売しておられました。

母屋の中に入って驚きました。若い女性ばかりです。男くさい雰囲気を醸す新選組のイメージとはまったく違っていました。

この写真は、綾小路通りから坊城通りを撮影したものです。左が前川邸の長屋門です。このつきあたり(きんつばが名物のお店です。)の付近で拍子木をたたいて隊員を集めていたということです。

前川邸から東に続く綾小路通りには、今も当時の面影を残す民家が残っていました。

さらに綾小路通りを東に向かいます。壬生川通りを越えて進むと左側に光縁寺があります。新選組の”菩提寺”といわれています。

門前には、「見物・見学はお断り」の張り紙。「参詣」のために入りました。100円を支払い、ご住職の説明をお聞きしてから、裏の墓地に入りました。お話によると、新選組の馬場がこのあたりにあり、隊士が毎日往来していました。当時の住職に、山南敬助は「この寺の家紋を瓦で見て自分の家紋と同じことに気がついた」と伝えたことから住職と知り合い、同じ年齢だったことから親しくなったそうです。この寺が、葬式を出すことのできないような困窮した人々も葬っていることを知って、新選組では、屯所で切腹した隊士をここに葬るようになりました。そして、山南自身もここに葬られました。

墓地の一番奥に、隊士のお墓がありました。気持ちを込めてお参りした後、撮影しました。手前にあるのが山南敬助の墓です。真ん中が大石酒造の墓。左は松原忠司、小川信太郎、市橋謙吉、田内知源ら12名の隊士の墓でした。


元治元(1864)年7月8日、新選組は、京都三条木屋町の旅館池田屋に潜伏していた長州藩や土佐藩などの尊王攘夷志士を襲撃しました。薪炭商を営む枡屋こと、古高俊太郎の自白から、「御所に火を放ちその混乱に乗じて中川宮を幽閉、一橋慶喜や松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州に連れ去る」という計画を察知したからでした。吉田稔麿や宮部鼎蔵ら「殉難七士」を含めて9名を討ち取り4名を捕縛しました。池田屋事件の後、壬生の屯所に帰ってきた隊士を、地元では拍手で迎えたということです。この事件の後、新選組は大規模な隊士募集を行い、隊士数が急増したため、また、長州藩に好意的であった西本願寺を内部から監視するため、慶応元(1865)年3月10日、屯所を西本願寺に移転しました。

西本願寺の阿弥陀堂です。この北にあった北集会所(きたしゅうえしょ)が屯所でした。阿弥陀堂との境には竹矢来を設けて仕切っていたといわれています。北集会所は300畳もある大きな建物だったので、改造して小部屋をたくさんつくりました。八木邸の屯所にあった道場「文武館」を解体して運び、牢屋や首切り場もつくっていたということです。

現在、阿弥陀堂の北には、安穏殿と輪転蔵が建っています。このあたりが屯所があったところでしょうか。

太鼓楼も屯所として使用していたようです。移転後2ヶ月して、幕府典医の松本良順が訪ねたとき、170~180名の隊士のうち、3分の1が病気で裸で寝ていたということです。浴場の設置を勧め、栄養改善のために豚や鶏を飼育して食べることを指導したそうですが、時の悲鳴や調理時の匂いに、西本願寺は頭を悩ませたということです。

堀川通りから見た太鼓楼です。説明版が、かつて屯所があったことを伝えてくれています。


慶応3(1867)年、6月15日(秋という説もあります)、新選組は屯所を不動堂村に移転させます。木津屋橋町(堀川通りと油小路通りに挟まれた地域)の南側にあった、三番目の屯所をめざして歩きます。

七条通りを南に渡り、堀川通りの一本東の南北の通りに入り、塩小路通りを南に越えて進みます。

アパホテルの手前に不動堂明王院がありました。京都最後の屯所は、不動堂村のこのあたりにあったといわれています。この屯所は西本願寺が立ち退きを条件に移転費用を出したもので、大名屋敷のように立派なものだったようです。1万平方メートルの広大な敷地の周囲に高塀で囲まれ、物見櫓や厩、幹部の部屋や隊士の部屋、中間や小者の部屋もある使い勝手のいい建物でした。1度に30人が入れる風呂もついていたということです。
移転後、すぐに新選組の隊士は幕臣に取り立てられました。しかし、この立派な屯所は半年間ぐらいしか使われることがありませんでした。明治元(1868)年に鳥羽伏見の戦いが始まり、隊士は伏見に移って行ったからです。提灯に「まぼろしの屯所」と書かれていますが、建物がまったく残っていないこともあって場所の特定ができないために、こう呼ばれるようになりました。

堀川通りに続き、南に向かう油小路通りの西にあるリーガロイヤルホテルの前庭の緑地の中に、新選組の顕彰碑が残っています。このあたりまで屯所はあったのでしょうか?
厳しい規律と鉄の団結のような男の世界である新選組。その屯所跡を歩きました。壬生の屯所跡には、若い女性があふれていました。厳しい規律を保つために繰り返された粛清など、あまり知りたくないこともありましたが、一つの時代を生き抜いた、男の生き様に触れた旅でした。