トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

新居関所に行ってきました!

2013年05月21日 | 日記
旧東海道の30番目の宿場である舞坂宿と31番目の宿場新居宿の間は、浜名湖を渡る「海上一里」の海の道です。昨年9月に舞坂宿を歩きました(2012年9月16日の日記)が、今回、久しぶりに静岡県の旧東海道を歩きました。旧新居町は、現在は湖西市新居町となっています。

これは、旧新居宿に建てられていた観光案内図です。浜名湖一帯は、明応4(1498)年の東海地震によって地盤沈下が起こり、湖であった浜名湖には太平洋に抜ける開口部、今切(いまぎれ)口ができました。案内図の南の浜名大橋の下にあります。浜名湖は淡水湖から汽水湖に変わったのです。

浜名湖の南の浜名大橋の遠景です。この下に今切口があります。

新居といえば関所。新居関が置かれていたところです。旧東海道では、箱根と鈴鹿の関所とともに「入(い)り鉄砲と出女(でおんな)」の取り締まりを行っていました。新居町には、安政2(1855)年から5年の歳月をかけて建て替えられた新居関所の建物が、今も残っています。昭和30(1955)年、国の特別史跡に指定された後、昭和46(1971)年解体修理をされた、全国で唯一現存する関所の建物です。

慶長5(1600)年に徳川家康が設置してから、自然災害の影響を受けて二度関所は移転していきましたが、常に浜名湖岸に設置されていました。これは、新居関が陸上の取り締まりだけでなく、浜名湖の海上からの来訪者の取り締まりも行う任務を担っていたからだといわれています。(なお、現在ではかつての関所の所在地はすべて内陸になっています。これは、明治時代以降の埋め立てによるものです。) 家康の時代に設置された新居関は「大元屋敷跡」にありました。道路の南側にある関所の跡地には、冠木門がありました。

これは、JR新居町(あらいまち)駅前にあった観光案内図ですが、大元屋敷跡はJR新居駅から県立新居高校の脇を南に向かい、東西道路である「ホルト通り」を東に進んで行った所にありました。
大元屋敷跡には、”旅衣 あら井の関を 越しかねて 袖によるなみ 身をうらみつつ”という井上通女の歌碑が設置されています。 通女は讃岐国(香川県)丸亀藩主、京極高豊の母養性院の近くで仕えるため、江戸に向かう途上、新居の関所にやってきました。天和元(1681)年11月16日に丸亀を出発し18日に大坂に到着し、大坂の奉行所から関所手形を受け取りました。27日に新居の関所でその手形を提示しましたが、通行の許可がもらえませんでした。彼女は、振袖を着用していたので「小女」と記載されるべき手形が、「女」としか書かれていなかったからです。正しい手形を取得するために大坂に使いを送り、12月3日に使いが戻ったので、無事、新居関を通行することができました(関所資料館に展示されていた資料から)。「入り鉄砲と出女」の取り締まりの様子がよくわかります。ちなみに、江戸時代には、女性に関するもの以外には、乱心、手負(ておい)、囚人、首、死骸、鉄砲などの手形があったそうです。 井上通女が新居関を通行したのは、幕府が直接管理していた時代のことでした。

元禄12(1699)年に、台風とそれに伴う高潮のため関所が倒壊してしまいます。元禄14(1701)年にさらに西の「中屋敷跡」の標識のあるところに移転しました。現在は案内標識しか残っていませんでしたが、新居高校の南の「ホルト通り」に沿ったところでした。
移転して来てから6年後の宝永4(1707)年10月、東海大地震とそれに伴う大津波で、関所は倒壊してしまいます。(ちなみに、翌月の11月には、富士山の噴火もあって、武蔵・相模・駿河に大きな被害が出ました。) これに先立つ元禄15(1702)年からは、新居関のある一帯が幕府の直轄領から吉田藩(豊橋)領に編入されており、関所も吉田藩に移管されていました。吉田藩では作事奉行土肥孫兵衛の下、3ヶ月の突貫工事で現在の地に関所や宿場町をつくり、翌宝永5(1708)年、惣町(全町)移転しました。

これは、旧東海道沿いに展示されていた関所の古図ですが、舞坂宿からの旅人は、図の上方の浜名湖の護岸にあった船着き場で下船した後、左にある新居の関所で手形のチェックを受けた後、中央左の大御門から関所を出て、左下の新居宿場町に向かっておりました。

現在の新居の関所の建物です。入母屋造りの本瓦葺きで、東西11間、奥行は7間ありました。開館前の状態です。明六ツ(午前6時)から暮六ツ(午後6時)まで通ることができ、原則として夜間は通行はできませんでした。

開館され観光客を迎えた関所跡です。雨戸を開いて、白い幕を張っています。建物の三方に3尺の縁側をめぐらせていました。今は観光客が移動したりのんびりとくつろぐ空間になっています。

関所の内部です。手前が20畳、その先が25畳の面番所(おもてばんしょ)。旅人を調べる関所役人が控えていたところです。吉田藩に移管された後には、番頭2名、組足軽20名、給人8名、下改8名、関所足軽2名、改女2名、水主頭(かこがしら)1名、賄役1名など40名前後が交替で勤務していました。

面番所には、関所役人の姿が人形で再現されていました。20畳の面番所にいた番頭(ばんがしら)の五味六郎左衛門。ただ一人、座布団を敷いて座っていました。その先は、給人の中山勘太夫と石原幸正。

五味六郎左衛門は、目鼻たちの整った、きりっとした美男のお役人でした。

お役人の後ろには、役所に常備されていた武具が並べられています。弓25張、鉄砲25挺、矢箱2荷、
玉薬箱2荷、長柄10本が基本的な常備武具でした。これらは関所の権威を示すために置かれていたようです。

25畳の間には、下改の神田栄次郎と山本忠佐の人形と、

足軽頭の大屋勇平と足軽の及部藤太夫の人形が座っていました。

その近くに置かれていた捕物用具。刺股(さすまた)、袖搦(そでがらみ)、突棒(つきぼう)が展示されていました。

面番所裏側にある中庭に面して、「足軽勝手(あしがるかって)」がありました。「勝手」は台所ではなく控え室でした。そこに足軽と「改女(あらためおんな)」と呼ばれる女改めの人形が展示されていました。 江戸に下るときここで足止めされた井上通女は、9年後、仕えていた養性院が亡くなって丸亀に帰ることになり、再び新居関所を通ります。そのときには「女」手形を差し出し、供の女性とともに「改女から髪を念入りに調べられたが、無事通過した」そうです。「改女」が活躍していたのですね。

「改女」は、時代劇の中では「改めばば」などと呼ばれて、いつも怖そうな老女が出てきますが、この美しい姿には、そのイメージを改めなければならないでしょう。実際には、「改女」は関所役人の妻や母親がつとめていたそうです。中にはこんな美しい「改女」もいたのでしょうね。

敷地内にあった高札場です。ここには、次のように書かれた高札が掲げられていました。

  一 関所を出入り輩 乗物の戸を開かせ、笠 頭巾を取って通すべきこと
  一 往来の女 つぶさに証文引合わせて通すべきこと
    附 乗物にて出女は 番所の女を差出して相改へきこと
  一 手負死人 并 不審なるもの証文なくして 通へからさること
  一 堂上の人々 諸大名の往来かねてより其聞にあるは沙汰に及はず
    若(もし) 不審のことあるにおいてハ 誰人によらず改むへきこと
  右の条々 厳密に可相守者也(相守るべきものなり) 仍如件(よってくだんのごとし)奉行
                

これも、敷地内にあった「荷物石」。この石の上に、取調べを受けているとき荷物を置いていました。

「石碑(いしひ)」。雨水を流すための側溝のことです。面番所を挟んで、南北に、排水を流す二筋の側溝がありました、その先端に突き出ていた部分です。「鴨の嘴(くちばし)」とか「鴨の口」と呼ばれていました。

渡船場跡です。関所から南(面番所の前の方)に向かって、大名や、武士、庶民が利用する渡船場がそれぞれ並んでいました。「現在の石垣から1m内側の土中に当時の石垣が眠っています」と職員の方が説明されていました。以前、舞坂宿を歩いたときにも、身分によって利用できる渡船場が決まっていましたが、ここも同じような仕組みになっていたようです。

南にあった「船囲い場(ふながこいば)跡」。浜名湖の渡船業務は新居宿が独占しており、舞坂宿には許されていませんでした。関所に近いこの入江には、常時120艘の渡船が配置されていて、6組に分かれて1日1組が稼働していました。大名行列の通過のときなど多くの船が必要になったときには、「寄せ船」制度によって近郷から船が集められ不足分を補っていました。ここは、当日使用しない船を係留しておく場所でした。今では、可燃ゴミの収集場所になっていましたが、なぜか、ゴミ袋も係留されているように置いてありました。

現在地に移転してきてからも震災に遭遇しています。嘉永7(1854)年11月には、大地震によって関所は大破してしまいました。冒頭に書いたように、この時は、安政2(1855)年から5年間かけて建て替えられました。この時再建された建物が、昭和の解体修理を経て、今日まで大事に保存されてきました。平成になってからも、平成14(2002)年、同19(2007)年の二度にわたり護岸工事や渡船場の整備が行われ、面番所の前の地面も復元しました。今後も、船会所や女改長屋などが復元整備されることになっています。


私は、中山道(木曾街道)の福島の関所は訪ねたことがありましたが、東海道の関所は初めてでした。見学することを楽しみにしていましたが、実際に見学するのはさらに楽しいことでした。 それ以上に、職員の方の熱心なご案内が印象に残りました。高齢の方が多かったのですが、丁寧な説明をしていただき感謝の気持ちでいっぱいになりました。

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1 コメント

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見ました (山田)
2013-05-25 13:27:19
 珍しい所を紹介していただきありがとうございます。いろいろな歴史があるんですね!!
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