新居の関所を訪ねた後、旧東海道新居宿をのんびり歩きました。
江戸時代、舞坂宿からは海上の道でした。浜名湖の海岸沿いの渡船場で下船して、新居の関所で取り調べを受けてから、旅人は新居宿に入りました。新居宿は、江戸から数えて31番目の宿場。
この日のスタートは、国道1号線。西に向かって歩きました。
江戸時代、舞坂宿からは海上の道でした。浜名湖の海岸沿いの渡船場で下船して、新居の関所で取り調べを受けてから、旅人は新居宿に入りました。新居宿は、江戸から数えて31番目の宿場。
この日のスタートは、国道1号線。西に向かって歩きました。
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この先で国道1号線は左にカーブします。旧東海道は三ヶ日方面に向かっていました。
JR新居町駅を右に見ながら進みます。
駅の駐輪場の前に「新居関所」の大きな標識があります。新居関所は、自然災害の影響により2度移転をしていました。この地に移転建設したのは、幕府から関所を移管されていた吉田(豊橋)藩でした。
道路の右は新居駅の自転車駐輪場で、小さな公園になっています。その中に、種田山頭火の句碑がありました。”水のまんなかの道がまっすぐ” 舞坂宿方面から新居宿へ、浜名湖を渡るまっすぐな道が通っています。その様子を詠んだものでしょうか。
その先で、国道1号線と別れて直進していきます。浜名橋を渡りしばらく歩くと、右側に新居関所跡。日本で唯一、関所の建物が現在まで残っている貴重な存在です。関所の見学(2013年5月21日の日記)を終えた後、旧東海道新居宿を歩きました。
これは、旧街道沿いに掲示されていた絵図ですが、新居の関所の大御門を出た旅人は、しばらく道なりに行った後、左折して進んでいました。このカーブする辺りが、宿場の中心でした。
関所の前の旧街道です。左の白い建物を左に進み、2ブロック目に「船囲い場跡」の跡の碑があります。浜名湖の渡船を担うたくさんの船をつないでいたところです。
これは、新居宿でいただいたパンフレットに載っていた幕末の新居宿のようすです。間口が狭く奥行きが広い宿場町によくある町屋が並んでいました。天保14(1843)年の調査によると、本陣3軒と旅籠が26軒ありました。また、家数は797軒で、3,474人(男1,776人、女1,698人)が居住していました。3軒あった本陣は、旧街道が左折するあたりのベージュに塗られているところにありました。
パンフレットに赤でマークがついているこころにあったのが、かつての旅籠、紀伊国屋です。元禄16(1703)年「御三家の一つ紀州藩の御用宿になっていた」という記録があり、この年は、関所がこの地に移ってくる前でした(関所がこの地に移転したのは、宝永4=1707年に大地震と津波があった翌年の宝永5=1708年のことでした)。それ以前から現在の地にあった新居宿でも古い歴史を誇る旅籠でした。なお、「紀伊国屋」の屋号を掲げたのは、正徳6(享保元=1716)年だったそうです。その後、延享2(1745)年までに苗字・帯刀を許され、敷地内に紀州藩七里飛脚の役所を設置していたこともあったそうです。現在の建物は、明治7(1874)年の大火で焼失した跡、二階建てに建て替えられたものだそうですが、江戸時代の建築様式を残しているそうです。
新居宿から少し話が変わりますが、紀伊国屋の裏口のすぐそばに小松楼があります。現在は「小松楼まちづくり交流館」として使われています。ここは、大正時代から昭和20年ごろまで、芸者置屋と料亭(揚屋)を兼ねていたおお宅だそうです。現在の建物は、明治38(1905)年平屋で建築され、大正時代の初期、現在地に移築されたとき増築されたもので、平成20(2008)年、国の登録有形文化財に指定されています。
小松楼の二階です。芸者さんの写真やかつて使用していた化粧道具などが展示されていました。大正時代、新居町には11軒の芸者置屋があり、小松楼は最大で60~80人の芸者さんをかかえていました。地元の方のお話しによれば、太平洋戦争時に、ここのご主人が亡くなり家業の整理をしたということでした。
小松楼で珍しいものは「襖の下張り」です。「つけ」で遊んだ客を記録した紙が、下張りとして使われていました。再び、旧東海道に戻ります。
旧街道がぶつかる正面が、3軒あった本陣の一つ飯田武兵衛本陣の跡地です。天保14(1843)年には、建坪196坪、門を構え玄関も備えていました。小浜藩や桑名藩、岸和田藩などが利用していたと案内には書かれていました。明治元(1868)年の明治天皇の行幸の際の行在所(あんざいしょ)や還幸(かんこう)、翌年の再幸にも使われたそうです。
写真の手前右側の白い建物の付近にあったのが疋田弥五郎本陣でした。建坪188坪あり、門や玄関を備えていました。宇和島藩や今治藩など70余家が宿泊、休憩に利用していました。天保(1830~1843年)には、宿の年寄りや問屋役をつとめていたそうです。以前、病院の建物がありその前に「本陣」の石碑があったそうですが、今は何も残っていませんでした。江戸時代、東海道を旅するには、食事の差で多少違いが出てきますが、1泊2日で200文から300文程度(1文は大体現在の20円から25円程度といわれています)ですので、現在の4000円から6000円程度かかりました。江戸・京都間が約2週間の旅程として、片道約4000文(約1両)ぐらいかかっていたようです。しかし、これはあくまで庶民の旅。大人数で移動し本陣に宿泊する大名行列は、藩主としての体面もあり莫大な経費をかけて旅を続けていました。
旧街道を左にカーブして、飯田武兵衛本陣の右隣にあったのが「本陣跡」の石碑です。疋田八郎兵衛本陣の跡です。建坪193坪。門と玄関を備え、この地を領有していた吉田藩や徳川ご三家など120家が利用していました。また、新居宿の庄屋や年寄役もつとめていました。東海道の案内の石碑です。安政6(1859)年9月19日に領国を出発した鳥取藩の参勤交代では、180里(706km)を21泊22日かけて旅を続け10月10日に江戸に着きました。この間の経費は、総額1957両でした。現在の貨幣価値にして2億9355万円かかっていました。諸大名は藩の支出の6~7割という莫大な経費を費やして参勤交代に臨んでいたのです。一番額の大きかったのが人件費。家臣の手当や臨時で雇う者の手当などに847両(約1億2705万円)を使っていました。現在の本陣跡には、都市ガス制圧室が設置されていました。
疋田八郎兵衛本陣跡にあった、
ここで、飯田武兵衛本陣の脇の道まで戻ります。その道を進むと、旧東海道の一つ裏の通りに出ます。道沿いには、寺院や神社が並んでいる寺道でした。多くの寺院が、宝永4(1707)年の大震災の後に、この地に移って来ていました。
その中の一つ臨済宗妙心寺派の寺院、龍谷寺です。この寺は、寛文5(1665)年にこの地で開かれており、大震災以前からあった寺院のようでした。もう一度、飯田武兵衛本陣に戻り、旧東海道を今度は南に向かって進みます。
本陣から50mぐらい進んだところ、右側の商店の駐車場に「寄馬跡」の石碑がありました。旧東海道の宿場は、公用の旅行者や荷物のために人馬を提供することになっており、常時100人の人足と100匹の馬が用意されていました。交通量の多い時は、近在の村々から人馬を寄せ集めて対応しました(助郷=すけごう)。ここは寄せ集められた人馬が集まっていたところでした。
さらに進みます。右手に、火伏せで知られる秋葉常夜灯がありました。遠江の地域にはたくさんつくられている常夜灯です。「明治11年」の銘がありました。1878年の建立です。
常夜灯の向かいに石の玉垣がありました。池田神社です。天正12(1584)年、小牧・長久手の戦いで戦死した池田信輝の首塚だったそうです。後に永井能登守が家康の内意を受けて祠を建築しました。京都市在住の笹塚氏が祭主をつとめる個人管理の神社だそうです。入口近く、かつて狛犬がいたところのようですが、基礎の部分だけが残っていました。
さらに進むと。左側に大きなお屋敷がありました。裏に回ると二棟の土蔵もありました。
そのお屋敷の手前を左に入ります。その先にあったのが鷲栖院(じゅせいいん)でした。境内に佐橋甚兵衛の墓所がありました。新居の関所を江戸幕府が管理していた時代の正保4(1647)年から、明暦3(1657)年に74歳で死亡するまで、関守番頭をつとめていた方です。
旧東海道に戻ります。さらに進むと、右手に西町公民館が見えました。公民館の向かいにあったのが一里塚跡です。一里塚は、日本橋を起点として1里ごとに土盛りをして、左側に榎(えのき)右側に松を植えていました。東海道には104カ所あったといわれています。慶長9(1604)年徳川秀忠が築かせたということです。旧東海道は、この先の突き当たりで、右に曲がって進みます。
ここで旧東海道から別れて、突き当たりを左に曲がります。すぐ、瑠璃光山東福寺に着きます。もと真言宗寺院で、今は臨済宗方広寺派の寺院です。山門にある木造の金剛力士像は、安永8(1779)年の開眼です。右が阿形(あぎょう)で、高さ2m32cm。左が吽形(うんぎょう)で2m35cmあります。
境内に大きなマキが生えています。雄株が15m、雌株が13mあるそうです。
その東が新居幼稚園。広大な敷地にかわいい園舎が建っています。
その北東の隅に、「源太ノ山」の案内板が立っています。建久元(1190)年、源頼朝が上洛の途中、新居宿の少し先にある橋本宿に宿泊したとき、梶原源太景季(かげすえ)が警護のため、源太ノ山にあった大松の上で物見をして警戒にあたったといいます。このときの大松は、明治45(1912)年枯れてしまったそうです。また、源太ノ山も新居停車場の埋め立てに使われてなくなっており今では当時の面影をしのぶのは難しいようです。
幼稚園の東隣にある小学校の正門のところに、新居町奉行所跡の碑が残っています。元禄15(1702)年、新居関所が吉田藩の管理に移ったとき、この周辺の村々も吉田藩領(検地帳には「遠江国敷地郡新居町」と書かれているそうです)になりました。そのときに、設置されたのが新居町奉行所でした。
再び旧東海道に戻り、右折して先に進みます。その先にあったのが棒鼻(ぼうはな)跡の石碑です。このあたりが新居宿の西の境になります。一度に多勢が通行できないように、土塁が突き出て枡形になっていました。「棒鼻」とは駕籠(かご)の棒先の意味で、大名行列がこの町に入るとき、ここで棒先を整えたので、こう呼ばれるようになりました。
旧東海道は棒鼻で新居宿を出ますが、その先で左に曲がります。
左折してしばらく行くと国道1号線に合流します。
その手前の右側にあった東海道の案内です。ここには「橋本宿 新居宿加宿」と書かれています。橋本宿は、先ほどの梶原源太景季の源太ノ山で出てきた中世の宿場の名前です。新居宿から西に1kmのところにある橋本宿は、貞観4(1702)年「浜名の橋」(勅意によって建造された、長さ167m、幅4m、高さ5mの橋、全国四大橋の一つだった)とともによく知られていて、「更級日記」や「十六夜日記」にも書かれているのだそうです。
国道1号線に合流すると右折して進みます。1号線の沿線とは思えないような雰囲気のある町並みが続いています。
町並みの中に「風炉の井」の案内がありました。その後ろに、石積みの井戸が残っています。源頼朝が橋本宿に宿泊したとき、この井戸の水で茶の湯を楽しんだといわれています。
その先で、国道1号線は左にゆるくカーブして進みます。旧東海道は右の道を進みます。
町並みの中に、「橋本宿」と書かれた石碑がありました。このお宅の方が個人でつくられた石碑だそうです。新居宿の加宿の橋本宿を過ぎると、その先は旧東海道32番目の宿場、白須賀宿です。
舞坂から船で西に向かった旅人は、渡船場で下船するとそのまま新居の関所で取り調べを受けた後、新居宿に入ります。現在地に移ってきた後、嘉永7(1854)年の大地震の後再建されて現在まで残ってきた新居の関所と旅籠の紀伊国屋以外は、ほとんどが新しく建て代えられていて、当時の面影をたどるのは難しいことでした。旧東海道の宿場の多くがそうであるように、ここ新居宿も、石碑や案内板をたどる旅になりました。新居宿も、歴史を伝える場所にはていねいに案内がつくられていて、大変参考になりました。
この先で国道1号線は左にカーブします。旧東海道は三ヶ日方面に向かっていました。
JR新居町駅を右に見ながら進みます。
駅の駐輪場の前に「新居関所」の大きな標識があります。新居関所は、自然災害の影響により2度移転をしていました。この地に移転建設したのは、幕府から関所を移管されていた吉田(豊橋)藩でした。
道路の右は新居駅の自転車駐輪場で、小さな公園になっています。その中に、種田山頭火の句碑がありました。”水のまんなかの道がまっすぐ” 舞坂宿方面から新居宿へ、浜名湖を渡るまっすぐな道が通っています。その様子を詠んだものでしょうか。
その先で、国道1号線と別れて直進していきます。浜名橋を渡りしばらく歩くと、右側に新居関所跡。日本で唯一、関所の建物が現在まで残っている貴重な存在です。関所の見学(2013年5月21日の日記)を終えた後、旧東海道新居宿を歩きました。
これは、旧街道沿いに掲示されていた絵図ですが、新居の関所の大御門を出た旅人は、しばらく道なりに行った後、左折して進んでいました。このカーブする辺りが、宿場の中心でした。
関所の前の旧街道です。左の白い建物を左に進み、2ブロック目に「船囲い場跡」の跡の碑があります。浜名湖の渡船を担うたくさんの船をつないでいたところです。
これは、新居宿でいただいたパンフレットに載っていた幕末の新居宿のようすです。間口が狭く奥行きが広い宿場町によくある町屋が並んでいました。天保14(1843)年の調査によると、本陣3軒と旅籠が26軒ありました。また、家数は797軒で、3,474人(男1,776人、女1,698人)が居住していました。3軒あった本陣は、旧街道が左折するあたりのベージュに塗られているところにありました。
パンフレットに赤でマークがついているこころにあったのが、かつての旅籠、紀伊国屋です。元禄16(1703)年「御三家の一つ紀州藩の御用宿になっていた」という記録があり、この年は、関所がこの地に移ってくる前でした(関所がこの地に移転したのは、宝永4=1707年に大地震と津波があった翌年の宝永5=1708年のことでした)。それ以前から現在の地にあった新居宿でも古い歴史を誇る旅籠でした。なお、「紀伊国屋」の屋号を掲げたのは、正徳6(享保元=1716)年だったそうです。その後、延享2(1745)年までに苗字・帯刀を許され、敷地内に紀州藩七里飛脚の役所を設置していたこともあったそうです。現在の建物は、明治7(1874)年の大火で焼失した跡、二階建てに建て替えられたものだそうですが、江戸時代の建築様式を残しているそうです。
新居宿から少し話が変わりますが、紀伊国屋の裏口のすぐそばに小松楼があります。現在は「小松楼まちづくり交流館」として使われています。ここは、大正時代から昭和20年ごろまで、芸者置屋と料亭(揚屋)を兼ねていたおお宅だそうです。現在の建物は、明治38(1905)年平屋で建築され、大正時代の初期、現在地に移築されたとき増築されたもので、平成20(2008)年、国の登録有形文化財に指定されています。
小松楼の二階です。芸者さんの写真やかつて使用していた化粧道具などが展示されていました。大正時代、新居町には11軒の芸者置屋があり、小松楼は最大で60~80人の芸者さんをかかえていました。地元の方のお話しによれば、太平洋戦争時に、ここのご主人が亡くなり家業の整理をしたということでした。
小松楼で珍しいものは「襖の下張り」です。「つけ」で遊んだ客を記録した紙が、下張りとして使われていました。再び、旧東海道に戻ります。
旧街道がぶつかる正面が、3軒あった本陣の一つ飯田武兵衛本陣の跡地です。天保14(1843)年には、建坪196坪、門を構え玄関も備えていました。小浜藩や桑名藩、岸和田藩などが利用していたと案内には書かれていました。明治元(1868)年の明治天皇の行幸の際の行在所(あんざいしょ)や還幸(かんこう)、翌年の再幸にも使われたそうです。
写真の手前右側の白い建物の付近にあったのが疋田弥五郎本陣でした。建坪188坪あり、門や玄関を備えていました。宇和島藩や今治藩など70余家が宿泊、休憩に利用していました。天保(1830~1843年)には、宿の年寄りや問屋役をつとめていたそうです。以前、病院の建物がありその前に「本陣」の石碑があったそうですが、今は何も残っていませんでした。江戸時代、東海道を旅するには、食事の差で多少違いが出てきますが、1泊2日で200文から300文程度(1文は大体現在の20円から25円程度といわれています)ですので、現在の4000円から6000円程度かかりました。江戸・京都間が約2週間の旅程として、片道約4000文(約1両)ぐらいかかっていたようです。しかし、これはあくまで庶民の旅。大人数で移動し本陣に宿泊する大名行列は、藩主としての体面もあり莫大な経費をかけて旅を続けていました。
旧街道を左にカーブして、飯田武兵衛本陣の右隣にあったのが「本陣跡」の石碑です。疋田八郎兵衛本陣の跡です。建坪193坪。門と玄関を備え、この地を領有していた吉田藩や徳川ご三家など120家が利用していました。また、新居宿の庄屋や年寄役もつとめていました。東海道の案内の石碑です。安政6(1859)年9月19日に領国を出発した鳥取藩の参勤交代では、180里(706km)を21泊22日かけて旅を続け10月10日に江戸に着きました。この間の経費は、総額1957両でした。現在の貨幣価値にして2億9355万円かかっていました。諸大名は藩の支出の6~7割という莫大な経費を費やして参勤交代に臨んでいたのです。一番額の大きかったのが人件費。家臣の手当や臨時で雇う者の手当などに847両(約1億2705万円)を使っていました。現在の本陣跡には、都市ガス制圧室が設置されていました。
疋田八郎兵衛本陣跡にあった、
ここで、飯田武兵衛本陣の脇の道まで戻ります。その道を進むと、旧東海道の一つ裏の通りに出ます。道沿いには、寺院や神社が並んでいる寺道でした。多くの寺院が、宝永4(1707)年の大震災の後に、この地に移って来ていました。
その中の一つ臨済宗妙心寺派の寺院、龍谷寺です。この寺は、寛文5(1665)年にこの地で開かれており、大震災以前からあった寺院のようでした。もう一度、飯田武兵衛本陣に戻り、旧東海道を今度は南に向かって進みます。
本陣から50mぐらい進んだところ、右側の商店の駐車場に「寄馬跡」の石碑がありました。旧東海道の宿場は、公用の旅行者や荷物のために人馬を提供することになっており、常時100人の人足と100匹の馬が用意されていました。交通量の多い時は、近在の村々から人馬を寄せ集めて対応しました(助郷=すけごう)。ここは寄せ集められた人馬が集まっていたところでした。
さらに進みます。右手に、火伏せで知られる秋葉常夜灯がありました。遠江の地域にはたくさんつくられている常夜灯です。「明治11年」の銘がありました。1878年の建立です。
常夜灯の向かいに石の玉垣がありました。池田神社です。天正12(1584)年、小牧・長久手の戦いで戦死した池田信輝の首塚だったそうです。後に永井能登守が家康の内意を受けて祠を建築しました。京都市在住の笹塚氏が祭主をつとめる個人管理の神社だそうです。入口近く、かつて狛犬がいたところのようですが、基礎の部分だけが残っていました。
さらに進むと。左側に大きなお屋敷がありました。裏に回ると二棟の土蔵もありました。
そのお屋敷の手前を左に入ります。その先にあったのが鷲栖院(じゅせいいん)でした。境内に佐橋甚兵衛の墓所がありました。新居の関所を江戸幕府が管理していた時代の正保4(1647)年から、明暦3(1657)年に74歳で死亡するまで、関守番頭をつとめていた方です。
旧東海道に戻ります。さらに進むと、右手に西町公民館が見えました。公民館の向かいにあったのが一里塚跡です。一里塚は、日本橋を起点として1里ごとに土盛りをして、左側に榎(えのき)右側に松を植えていました。東海道には104カ所あったといわれています。慶長9(1604)年徳川秀忠が築かせたということです。旧東海道は、この先の突き当たりで、右に曲がって進みます。
ここで旧東海道から別れて、突き当たりを左に曲がります。すぐ、瑠璃光山東福寺に着きます。もと真言宗寺院で、今は臨済宗方広寺派の寺院です。山門にある木造の金剛力士像は、安永8(1779)年の開眼です。右が阿形(あぎょう)で、高さ2m32cm。左が吽形(うんぎょう)で2m35cmあります。
境内に大きなマキが生えています。雄株が15m、雌株が13mあるそうです。
その東が新居幼稚園。広大な敷地にかわいい園舎が建っています。
その北東の隅に、「源太ノ山」の案内板が立っています。建久元(1190)年、源頼朝が上洛の途中、新居宿の少し先にある橋本宿に宿泊したとき、梶原源太景季(かげすえ)が警護のため、源太ノ山にあった大松の上で物見をして警戒にあたったといいます。このときの大松は、明治45(1912)年枯れてしまったそうです。また、源太ノ山も新居停車場の埋め立てに使われてなくなっており今では当時の面影をしのぶのは難しいようです。
幼稚園の東隣にある小学校の正門のところに、新居町奉行所跡の碑が残っています。元禄15(1702)年、新居関所が吉田藩の管理に移ったとき、この周辺の村々も吉田藩領(検地帳には「遠江国敷地郡新居町」と書かれているそうです)になりました。そのときに、設置されたのが新居町奉行所でした。
再び旧東海道に戻り、右折して先に進みます。その先にあったのが棒鼻(ぼうはな)跡の石碑です。このあたりが新居宿の西の境になります。一度に多勢が通行できないように、土塁が突き出て枡形になっていました。「棒鼻」とは駕籠(かご)の棒先の意味で、大名行列がこの町に入るとき、ここで棒先を整えたので、こう呼ばれるようになりました。
旧東海道は棒鼻で新居宿を出ますが、その先で左に曲がります。
左折してしばらく行くと国道1号線に合流します。
その手前の右側にあった東海道の案内です。ここには「橋本宿 新居宿加宿」と書かれています。橋本宿は、先ほどの梶原源太景季の源太ノ山で出てきた中世の宿場の名前です。新居宿から西に1kmのところにある橋本宿は、貞観4(1702)年「浜名の橋」(勅意によって建造された、長さ167m、幅4m、高さ5mの橋、全国四大橋の一つだった)とともによく知られていて、「更級日記」や「十六夜日記」にも書かれているのだそうです。
国道1号線に合流すると右折して進みます。1号線の沿線とは思えないような雰囲気のある町並みが続いています。
町並みの中に「風炉の井」の案内がありました。その後ろに、石積みの井戸が残っています。源頼朝が橋本宿に宿泊したとき、この井戸の水で茶の湯を楽しんだといわれています。
その先で、国道1号線は左にゆるくカーブして進みます。旧東海道は右の道を進みます。
町並みの中に、「橋本宿」と書かれた石碑がありました。このお宅の方が個人でつくられた石碑だそうです。新居宿の加宿の橋本宿を過ぎると、その先は旧東海道32番目の宿場、白須賀宿です。
舞坂から船で西に向かった旅人は、渡船場で下船するとそのまま新居の関所で取り調べを受けた後、新居宿に入ります。現在地に移ってきた後、嘉永7(1854)年の大地震の後再建されて現在まで残ってきた新居の関所と旅籠の紀伊国屋以外は、ほとんどが新しく建て代えられていて、当時の面影をたどるのは難しいことでした。旧東海道の宿場の多くがそうであるように、ここ新居宿も、石碑や案内板をたどる旅になりました。新居宿も、歴史を伝える場所にはていねいに案内がつくられていて、大変参考になりました。