トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

備前街道と因幡街道が合流する宿場町、智頭

2017年12月30日 | 日記

平成21(2009)年、国指定の重要文化財に指定された石谷家住宅です。江戸時代から地主、山林経営で財を成した智頭(ちづ)町を代表する石谷家の邸宅です。敷地3000坪といわれる広大な敷地に、部屋数40余の邸宅と7棟の土蔵が残っています。明治28(1895)年から大正12(1923)年まで国会議員として活躍した石谷家の当主、石谷伝四郎が大正8(1919)年から10年間の年月をかけて改築した大邸宅です。

40余ある石谷家のすべての部屋から見ることができる、400坪といわれる池泉式の庭園です。石谷家庭園は、平成20(2008)年、国の登録記念物(名勝)になりました。

石谷家住宅のある鳥取県八頭(やづ)郡智頭町は、因幡(いなば)街道(智頭往来)と備前街道(備前往来)が合流する宿場町として栄えました。写真の三差路が合流点で、左右に走る因幡街道に、備前街道が手前から合流しているところです。江戸時代には、因幡街道を左に進めば鳥取藩と、右へ進めば志戸坂峠を越えて姫路藩とつながっていました。また、備前街道は手前に進むと、黒尾峠を越えて、美作(みまさか)国津山藩に行くことができました。因幡街道は、智頭町の人は智頭往来と呼んでいるようなので、以降は、智頭往来と書くことにします。

二つの街道の合流点に置かれた明治12(1879)年につくられた道標です。「南 み起(右)ひめじ(姫路)大坂  飛だり(左)鳥とり」「東 みぎ 鳥と里(とっとり) 飛だり(左) つやま 備前」と書かれています。

この日は、智頭の町を、備前街道に沿って先ほどの合流点まで歩くことにしていました。JR智頭駅からスタートしました。

駅前通りの左側にあった観光協会の建物です。ここで、観光マップや資料をいただきました。

駅前通りを進みます。右側にあった智頭急行の本社が入っているビル、続いて智頭町役場を過ぎると、土師川にかかる智頭橋を渡ります。

智頭橋から見た土師川の上流方面の光景です。土師川に沿って街道筋らしい家並みが見えました。

駅前の観光協会でいただいた観光マップです。地図の上が北にあたります。駅から右上(北東)に向かって進み土師(はじ)川を渡ってすぐの信号のある通りが旧備前街道です。左折して北に向かうと智頭往来の合流点の三差路に向かいます。右折して南東方面に向かうと津山方面になります。現在、旧備前街道は北西方面への一方通行になっています。右折して南東に進み、国道53号との分岐点に行きました。

国道53号線との分岐点です。目の前は愛宕橋。右に進んでいく通りが国道53号で鳥取方面に向かっています。

こちらは、国道53号線の黒尾峠・津山市方面です。土師川の上流に沿って延びています。国道は旧備前街道であり、津山城下を結んでいました。内陸部にある津山城下に向けて、日本海の海産物や塩などが運ばれていました。

愛宕橋から、国道53号と分かれ、正面左側の細い通り、旧備前街道に入ります。

現在の旧備前街道です。旧街道らしい幅4メートルぐらいの通りがまっすぐ延びています。

赤い釉薬瓦で葺いた商家と、商家の前に延びた水路が続いています。

通りの右側に、広い製材工場のある豪壮な商家があります。下見板張の壁面と格子づくりの商家、白壁と赤い釉薬瓦が印象的です。

商家の軒先に飾ってあった「杉玉」です。杉材で栄えた智頭の町を象徴する風景です。

旧街道の雰囲気の残る家並みの中を歩いていきます。JR智頭駅前からの通りとの交差点に近づいてきました。通りの右側にあった「山中茶舗」のお宅です。

山中茶舗のお宅の向かい側の家並みです。昭和の香りが漂ってきます。

山中茶舗の次のお宅の前に、水を溜める設備が置かれていました。いただいたマップには、「水舟のある備前街道」と書かれているところでした。比較的新しいつくりでしたので、このお宅の方が復活させたのかも知れません。

格子の前に設置されていた水舟です。まさに、舟の形の水溜めになっています。かつて訪ねた木曽路(旧中山道)の須原宿(「水舟が輝く宿場町 木曽路須原宿」2013年8月28日の日記)を思い出しました。

水舟があったお宅です。杉玉に竹に飾った花、杉の木でつくった飾り物などが、格子づくりのお宅にマッチしてます。

歩いて来た旧街道を振り返って撮影しました。かつての雰囲気が残る美しい家並みでした。人通りが少なかったのが残念でしたが・・。

駅前の通りに戻ってきました。

観光協会でいただいたマップです。駅前通りの信号から、マップの一番上(北)を通る智頭往来に向けて歩くことにします。

旧街道をまっすぐ進みます。左側に山陰合同銀行の智頭支店がありました。このあたりは、河原町商店街です。お店も建て替わっており、明るい雰囲気の新しい商店街が広がっていました。

鳥取信用金庫の支店前を過ぎると、伝統的な商家がところどころに残っていました。木造2階建て、格子づくりの商家に水の流れる音が聞こえる静かな通りです。

水槽に大きな金魚が泳ぐ一角の先に、太平洋戦争中につくられた石碑が残っていました。「戦勝祈念 光明真言二百万遍塔 国家安全」と刻まれていました。

その先に続く商店街です。人通りが多くないのがさみしいです。

立派な屋号が置かれていました。このあたりから、屋号の書かれた木製の札をつるしているお宅が目につくようになりました。

千代(せんだい)川に架かる備前橋に向かって上っていきます。橋の手前の左側に、大きな木製の柱が見えてきました。

備前橋の上から、歩いてきた旧備前街道を振り返りました。白い柱には「備前街道 智頭宿」と書かれていました。

備前橋を渡ります。智頭の町から備前国方面に向かう出口にあることから名付けられたようです。

正面に智頭往来が見えてきました。旧備前街道は「横道通り」と呼ばれるようになります。左に進むと新町通りになります。

旧街道の雰囲気を豊かに残す横町通りです。

その先の右側にあった「塩屋出店」。江戸時代の天保(1830~1843)年間、塩屋家の当主、石谷伝三郎(~1799年没)の二男石谷吉兵衛が起こしたといわれ、「横町の新別家」と呼ばれていたそうです。街並みにある「智頭町並みギャラリー」という説明版には、「2代目までは、問屋(宿場で荷馬の受け渡しをする業務)を務め、3代目吉平は、明治4(1871)年ごろまで庄屋を務め、明治5(1872)年には『村長』という記録が残っている」と書かれていました。また「『商鑑札』には『練り油 吉平』と書かれていて雑貨商を営んでいた」そうです。広い敷地の中に、2階建ての洋風建築である西洋館がありました。

塩屋出店は、明治22(1889)年に焼失した主屋と外壁を立て直す形で、1870年代の建築様式で再建されました。主屋と外壁は、明治30(1897)年の建築で、主屋は切妻造り、瓦葺きの木造の建物になっています。現在は、旧宿場町の智頭町活性化をめざす「智頭宿まちづくり協議会」の拠点になっており、1階の座敷は「喫茶・お食事処 海彦山彦」として使われています。

「海彦山彦」の入口にあった「登録有形文化財」の登録証です。平成12(2000)年12月4日に、主屋と外塀、西洋館の3つの建物が登録有形文化財に登録されました。

主屋と西洋館に囲まれた庭園に入ります。庭園から見た主屋です。庭に面して長い縁側とガラス戸が見えました。広い庭園もきれいに整備されています。

西洋館です。4代目の当主石谷愛三は陸軍の主計局長を務めた人でした。病身(結核)の長男のための療養所として、昭和10(1935)年に西洋館を建設しました。窓の多い建物のため、内部には明るい日差しが燦燦と降りそそいでいます。

現在は、西河克己映画記念館として使用されており、映写機や、「絶唱」や「伊豆の踊子」などのたくさんの映画のポスターやシナリオが展示されています。

塩屋出店の隣の重厚な邸宅は米原(よねはら)家住宅です。この邸宅は、明治39(1906)年頃の建築とされ、その当時の米原家の当主は米原章三という方でした。現在の鳥取市で生まれ、智頭町の山林地主の長女と結婚し、木材会社を経営する傍ら鳥取県議会議員となり、昭和5(1930)年には、県東部のバスやタクシー会社を統合し日ノ丸自動車を設立。2年後の昭和7(1932)年には貴族院議員となりました。その後も、昭和13(1938)年には丸由百貨店(現鳥取大丸)を、昭和14(1939)年には日本海新聞を創立するなど、鳥取県の政財界のリーダーとして活躍した人として、鳥取県で広く知られている方です。

備前街道に沿った玄関には「合名会社 木綿屋米原總本店」と墨書きされた看板が残っていました。邸宅の内部は公開されていませんが、主屋、土蔵、門、塀等が、平成26(2014)年12月19日に国の登録有形文化財に登録されました。

その先の三差路が、備前街道と智頭往来の合流点になっていました。

旧備前街道は、かつては、津山への物資の輸送ルートとして栄えました。現在は、金融機関や商店街が並んでいる新しい商業地区となっています。
私には、現在も、旧街道の両側に並ぶ伝統的な建物が醸し出す、古きよき時代の雰囲気が印象に残っています。