トシの旅

小さな旅で学んだことや感じたことを、
まとめるつもりで綴っています。

うだつの家並み、三次市の栄町・上市を歩く

2017年08月25日 | 日記
広島県の北東部の中心都市である三次市の三次町地区の石畳が敷かれた本通りには、袖壁(そでかべ)や卯建(うだつ)のある商家の家並が続いています。袖壁や卯建はもともとは火災の時の延焼防止のためにつくられたものでしたが、商人の格式のために競ってつくられるようになっていったといわれています。西城(さいじょう)川、馬洗(ばせん)川と江(ごう)の川に囲まれた三次市三次町地区は、明治時代以降、舟運による物資の集散地として栄えてきたところです。前回、三次地区の本通りの本町地区を、ゑびす神社の枡形(ますがた)まで歩いてきました。

本通りの突きあたりにあったゑびす神社です。ゑびす神社の並びには、プロ野球広島カープのスター選手である梵英心選手のご実家、専法寺があります。さらに、右に進むと旭橋で西城川を渡って、三次市十日市地区に向かっていきます。十日市地区には、JR三次駅や市役所を中心とした新しい市街地が広がっています。

この日は、ここから三次町の本通りを栄町、上市、太歳町に向かって歩きました。ゑびす神社の前を左折して、50メートルほど進み、荒瀬外科の看板があるところを右折します。

栄町地区に入ります。石畳の両側には袖壁のついた伝統的な町並みが、夏の日射しの下に広がっていました。

多くの商家は改修されていて、新築のような雰囲気が漂っています。袖壁には鏝絵(こてえ)が描かれています。左官職人が使用する道具である「鏝(こて)で、漆喰(しっくい)の塗装材料を塗ってレリーフを描いた作品のこと」で、家内安全などの願いを込めて飾られました。

右側にあったお宅に描かれていた鏝絵です。漆喰は「消石灰を主な原料として、それに糊(のり)としてのツノマタ(海草の一種)と、繊維材料としてのすさ(麻の繊維を短く切ったもの)を加えたもの」だといわれています。

歩行者専用道路ではないので、往来する車がかなりあります。枡形付近にはお店がありましたが、このあたりには静かな住宅地という雰囲気の漂う通りになっています。

右側にあった「和久長醤油醸造場」の看板のあるお宅です。かつての商家の雰囲気を感じることができました。

その先にあった建物は、3階建てのような大きな構造でした。看板には「木綿兎(もめんと)」と書かれています。本町の「三次市歴史民俗資料館」の建物にあった辻村寿三郎人形館でいただいた町並みの観光パンフには、「辻村寿三郎工房」と書かれていました。

工房に隣接した右側の部分には「三次地域交流館」という看板が掛かっていました。

本町と同じように本通りから左右に小路が分岐しています。美しいこの路地は正庵(せいあん)小路です。横の壁板が印象的です。道路の幅から往事の小路の面影を感じることができました。

その先に、また、枡形がありました。石畳の通りはここで鍵型に曲がっています。正面にあるのが、三勝寺(浄土宗)です。開山は、戦国時代の天文5(1536)年。当時、現在の三次市三若(みわか)町にあった旗返(はたかえし)城主の菩提寺として創建されました。寛永9(1632)年、三次藩主として、浅野長治が入封したとき、この地に移されたと伝えられています。浅野長治は、広島藩主浅野家の2代目藩主、浅野光晟(みつあきら)の異母兄にあたる方でした。

三勝寺の本堂です。三勝寺は、県指定文化財の「銅鐘」(高さ87cm)で知られています。「広島県の歴史散歩(広島県の歴史散歩編集委員会編 山川出版社)」には、「永和2(1376)年、播磨国永良(ながら)荘(現在の兵庫県市川町)の護聖寺(ごしょうじ)のために鋳造されたもの」だと書かれています。しかし、「長享元(1487)年に、守護大名、大内政弘によって、周防大島三浦庄志駄岸(しだぎし)八幡宮に奉納された」そうです。八幡宮は現在の山口県周防大島町にあるそうです。その後、「どのような経緯で三勝寺に納められたのかは不明」だそうです。

左側に、三次藩主浅野家の菩提寺である鳳源寺(ほうげんじ)へ向かう道路があります。その先に杉田薬局の白壁の建物が見えました。赤い「処方箋」と書かれた看板の右側に石の道標が建っていました。

道標です。正面には「右ハたかの山道 左ハいづも大社道」右側の側面には「左ハひろしま道 右ハいづも大社道」と書かれています。杉田薬局の手前を左折して進むと、出雲街道(石見銀山街道)へ向かう道になります。そして、歩いてきた通りは、広島に向かう道でした。

袖壁のついたお宅が並んでいます。袖壁に書かれていた屋号(「カ」「イ」)も見えました。

少し進むと、赤い壁の建物が見えました。正面から見るとほぼ黒一色でした。建物の入口の看板には「卑弥呼蔵 たべもの屋」と書かれています。観光パンフを見ると、「たべもの屋 赤猫」「寝床と学び舎 青猫」と書かれていました。ここは、酒蔵の卑弥呼蔵でした。現在は、レストランと宿泊施設になっているようです。

「卑弥呼蔵」の前には広い敷地が残り、奥には”万寿の井”の看板のついた醸造場が残っていました。この長い建物は、文化庁の登録有形文化財に登録されています。

その先で、商家の家並みが途切れます。町の出口でした。太歳神社がありました。

通りの右側には、馬洗川に合流する前の西城川が流れています。下流方向を撮影しました。

通りの出口から左折して進みます。この先に、三次藩主浅野家の菩提寺、鳳源寺(ほうげんじ)があります。そこをめざして進みます。

前方にあった交通標識です。右側から来た国道375号はこの道に合流し南に向かうことを示しています。国道375号は出雲街道(石見銀山街道)で、鳳源寺へは右折して国道375号を進むことになります。また、歩いてきた石畳の通りにあった杉田薬局の脇の道標から西に向かえば、まっすぐ鳳源寺に行くことができます。

以前、JR三江線の尾関山駅を訪ねたときに歩いた出雲街道(石見銀山街道)は、三次市立三次小学校の脇を通って南に向かっていました。

右折して国道375号を進むと、右側にすぐお寺がありました。鳳源寺ではないようだと思って確認すると、寿正山妙栄寺でした。慶安元(1648)年、三次藩初代藩主の浅野長治が建立した日蓮宗の寺院でした。案内板の説明によれば、山号の寿正院は、この寺の施主であった浅野長治の母(寿正院)の名前をとってつけられたようです。

国道375号を進むと、石垣の上に寺院が見えました。三次藩主浅野家の菩提寺の鳳源寺(臨済宗)です。寛永10(1633)年、三次藩主浅野長治(鳳源院)が比熊山の南山麓に、浅野家の先祖の菩提を弔うために建立したそうです。

鳳源寺の手前側から石段を上ります。寺内にあった「説明」によれば、浅野長治は水害対策のための河川の堤防の造成、たたら製鉄や麻、製紙などの産業振興、牛馬市の開設など民政の振興に功績を挙げた藩主で、62歳で亡くなるまで、藩政の基礎づくりに力を尽くした名君だそうです。

鳳源寺の本堂です。境内には藩主の墓や約300基の藩士の墓も残っています。初代藩主の浅野長治も、参勤交代による江戸在任中に死去しましたが、遺言によりこの寺に葬られています。

本堂の脇にあった、初代藩主、浅野長治の像です。

こちらは、浅野長治像の近くにあった阿久里(あぐり)姫像です。阿久里は浅野長治の側室お石の方の息女で、7歳まで三次で生活しました。後に、播州赤穂藩主浅野長矩(ながのり)の正室になりました。長矩が江戸城内で刃傷治事件を起こして切腹してからは、落飾して瑶泉院と称し、切腹した藩主を弔いながら45歳で亡くなりました。

境内にあった大石良雄お手植えの桜です。大石は、播州赤穂藩の家老で、阿久里が浅野長矩に輿入れしたときに三次を訪れました。その時に手植えをしたといわれている桜です。大石は、後に、播州赤穂藩士47人と共に吉良上野介義央を討って、主君の仇をとったことで広く知られています。


三次市の三次町地区を歩いてきました。石畳が敷かれた本通りを歩き、三次藩主浅野家にかかわる歴史を訪ねてきました。
猛暑の中を歩きましたが、見どころがたくさんあったすばらしい街でした。